孤独の神より②

『九里香さん! 今どこですか! 韮井ミツキさんとのお話は終わりましたか!』


 通りの良い珊瑚の声が、九里香の耳元で響く。咄嗟に周囲を見渡せば、厨房で不機嫌そうなマスターの男が大きく舌打ちを鳴らした。焦燥感に押されて、九里香は韮井と目を合わせた。韮井は「行ってこい」と小さく笑った。


「すみません、すぐ戻ります」


 そう言って、九里香は一人、席を立った。扉を押せば、鐘の音耳元で響く。頭痛がした。繰り返す珊瑚の声だけが、九里香の意識を呼び起こしていた。


「何の用だ。まだ話が終わってないんだが」

『それは失礼しました。ですが、少し緊急だったもので』


 珊瑚の声は、確かに僅かな焦りが含まれていた。溜息を飲み込んで、九里香は小さく「話せ」と呟いた。


『私の友人が、怪異から求婚を受けたかもしれないんです』


 震える珊瑚の唇が、九里香の頭の中で再現される。彼女の口から「友人」という単語が出ること自体、九里香にとっては初めての経験だった。ただ、その言葉の重さだけは、二人の中で共有されていた。


『お手伝いいただけませんか、九里香さん』


 考えるまでもなく、九里香の口は了承を唱えようとしていた。ただ、それを飲み込んで、数秒考えるフリをした。背にしていた喫茶店の扉を見る。九里香は「なあ」と声を落とした。


「また不倫でもしてやれば良いのか」

『いいえ、今回は違います。今回の『花嫁』は私では祓えませんので、九里香さんの知識をお借りできないかと』

「……普通の生物じゃないんだな」

『はい、私の知識不足で無ければ、友人の語るような生物はこの世に存在しません』


 そんな珊瑚の溜息交じりの声を聞いて、九里香は肩を落とした。なるほど自分を頼るわけだ。と、彼は小さく首を振った。


「そりゃ構わないが……ッて」


 眺めていた地面に、見覚えのある革靴があった。つま先から、目線を上げる。品の良い黒服をなぞれば、翡翠の瞳がジッと九里香を見ていた。


「ミツキさん?」


 九里香がそう名を呼ぶと、彼はその手からスマホを奪う。僅かに口角を上げ、困惑を零す九里香を鼻で笑った。


「突然申し訳ない。君が玉依珊瑚か」


 何の躊躇いも無く、韮井はそうスマホに向かって呟いた。九里香と同様に、困惑を隠さない珊瑚の声が、スマホから響いた。


『はい。その通りですが……貴方が韮井ミツキさんですね。何か、私にご用ですか』

「用件と言うよりも、業務上の挨拶といったところだ。君は玉依家の娘で、玉依家と言えばこの街を縄張りにしている祓い屋であり、この土地の特性に精通している」

『……韮井さんも、何かご依頼があってこの街にいらしたのですね』


 珊瑚がそう言うと、韮井はククッと引き攣ったように笑った。「話が早くて助かる」と呟く彼に、珊瑚は深い溜息を吐いていた。


「知人の娘さんが蛇に憑かれたそうでな。助けて欲しいと頼まれた」

『娘?』


 淡々と語る韮井に、珊瑚の言葉が反射する。九里香はスピーカー越しに、珊瑚の狼狽える表情が見えた気がした。


『その娘さんのお名前は、木葉姫華さんではありませんか』


 その名を九里香もまた知っていた。「姫華さん」と反芻した彼に、韮井が目線を向けた。


「……こうも巡り合わせが良いとは思わなかったな」

『同感です』


 僅かな二人の言葉の隙間は、利害の一致を示していた。手持ち無沙汰の右手で、九里香は頭を掻いた。


「行くぞ、九里香。珈琲の料金は既に支払った」


 そう言ってスマホを差し出す韮井の声色は、何処か楽しげに聞こえた。その要因を理解するよりも前に、九里香は眉を下げた。


「俺、一滴も飲めなかったんですけど、珈琲」

「今度また驕ってやるさ」


 それより。と、韮井はふてくされる九里香と目を合わせた。彼の翡翠の瞳が、九里香の人形のような顔をくっきりと反射する。その目を細めると、韮井は一歩、足音を鳴らした。


「まずはお前の嫁を見せてもらおう」


 韮井の足は喫茶店の隣に向いていた。彼の向かう先には、一台の国産車があった。韮井の手には車の鍵が握られていた。




 韮井の隣、助手席での十分間は、九里香にとってはあまり心地の良いものではなかった。街に慣れていない韮井に道を教えつつも、脳の片隅には漠然とした不快感があった。それが子供っぽさすら感じられる、特に意味の無い不安感に似たものであることは、九里香自身がよく理解していた。


「案内ご苦労」


 そう言って、韮井がサイドブレーキを引き上げた。ドアを開ければ、見慣れた風景が広がっていた。ただ一点、『葉渡セレモニー』と書かれた看板の前に立つ少女だけが、違和感を醸し出していた。


「お待ちしておりました、九里香さん」


 少女――――珊瑚は一人、丸い目を細めて九里香を見上げた。彼が小さく返答を置くと、その目線を九里香の背後に向けた。


「韮井ミツキさんですね。お初にお目にかかります。玉依珊瑚です」


 珊瑚はそう言って、小さく頭を下げた。西洋人風の体格を持った韮井が並ぶと、珊瑚の小柄さがよくわかった。そんな小動物のような珊瑚を見下ろして、韮井はフッと笑みを零した。


「噂はかねがね。木葉さん達は」

「はい。姫華さんとお父様……木葉社長には、簡単に経緯を説明しております。九里香さんが同席することもお伝えしておりますよ」


 珊瑚に呼ばれて、九里香は「そうか」とだけ呟いた。そんな彼の表情を見て、珊瑚と韮井は躊躇うことも無くビルの中へと足を進めた。一人、九里香だけがその場で一つ、足踏みを置いた。アルバイトとして何度もくぐった玄関口が、妙に暗く見えた。

 掃除の行き届いたフロントでは、厚化粧の女が薄ら笑いを浮かべて立っていた。受付と書かれた札の前で、珊瑚はその女に「お待たせしました」と声を置いた。そうすると、女――――受付嬢は「はい」と明るい声を跳ねさせた。


 ビルの廊下は、甘い抹香の香りに満たされていた。一ヶ月空けば、鼻腔に染みついていた筈のそれは失われるらしい。奥へ進むほどに、甘ったるい果実が腐ったような臭気が九里香の嗅覚を焼いた。


「社長、お連れしました」


 受付嬢はそう言って、扉をノックした。「お入りください」という低い声が響く。受付嬢が開いた扉から、よりいっそう濃い抹香の煙が漏れた。


「お久しぶりです、木葉さん」


 誰よりも先にそう声をかけたのは、韮井だった。僅かに微笑んでみせる彼の視線は、室内の中央に向けられていた。


「あぁ、韮井くん、来てくれて本当に助かった」


 弱々しく言うのは、木葉誠司――――葉渡セレモニーの社長、その人であった。彼は眉を下げたまま、「座って」とソファに視線を落とした。躊躇いの一つも無く、韮井はそれに腰を落とす。それに続いて、珊瑚が丸い目を木葉社長の隣に置いた。


「姫華さん」


 珊瑚が呟いたのは、社長の隣でひっそりと座る少女の名だった。彼女が木葉姫華――――木葉社長の愛娘であり、あの木葉誠一の妹であることは、九里香も知っていた。

 姫華は隈に覆われた目を珊瑚に向けた。彼女の弱った視線は流れるようにして九里香を捉える。姫華は二人を揃って見つめ、痩せた頬を持ち上げた。


「九里香、お嬢さん、君たちも座りなさい」


 呆ける九里香達を示して、韮井がそう言った。反射的に「はい」と九里香は声を上げる。一方で珊瑚はただ無言で九里香の隣に腰を下ろした。


「すまないね、韮井くん。忙しいだろうに呼び立ててしまって」

「いえ、構いません。それより、私のような人間に加え、玉依家……祓い屋を頼ったということは、ヒトの手に及ばぬ事案が発生しているようですが、改めて詳細をお聞かせ頂いても」


 唾液を喉に通す珊瑚を代行するように、韮井がそう首を傾げた。すると、木葉社長は大きく溜息を吐きながら、姫華の方に視線を置いた。


「蛇に――――蛇の花嫁に、『娘』が求婚されているんだ」


 求婚。九里香はその単語を口元で転がした。硝子のような彼の声に、その場にいる全員が目を向けた。


「すみません、静かにします」

「いや、九里香くんには少し気分が悪い話だろう。事情は珊瑚ちゃんから聞いているから」


 木葉社長はそう言って、冷えた九里香の顔を見つめる。一月前には見飽きていたはずのその顔は、今や九里香に安心感と懐かしさを与えていた。


「お父さん」


 そんな彼のスーツの裾を、小さく引くものがあった。血の気の無い白い皮膚は、銀細工のように艶めく。ウェーブのかかった髪を揺らして、少女――――姫華は父親の顔を覗き込んだ。


「私、外にいます。気分が悪いの。こんなじゃ、しっかり自分で話せる気がしないし……私が見たものについては、大学で全部、珊瑚ちゃんに説明したから……」


 細々と呟く言葉からは、生気が見られなかった。そんな彼女に微笑んだのは、誰でも無い珊瑚だった。


「木葉社長。姫華さんの見たものは私の方から韮井さんに共有可能です。姫華さんに無理をさせるのでは、本末転倒です」

「そ、そうか。じゃあ、姫華。遺族控え室で待っていなさい。今日は法要の予定は無いから」


 木葉社長が姫華にそう言うと、珊瑚の口から「あの、もう一点」と言葉が落ちた。


「九里香さんも同伴させて頂いてよろしいでしょうか。こちらもその、そろそろ吐きそうって顔なので……」


 珊瑚に示された九里香は、「は」と小さく声を漏らした。珊瑚の丸い目を見る。そこに写っていたのは、確かに姫華と同様に青い顔をした己の顔だった。だが、そんな九里香を見る珊瑚の目は、心配という感情を帯びていなかった。


「……成程」


 九里香が小さく呟く。すると、珊瑚は丸い目を細めて見せた。


「すみません、社長。俺も失礼します」


 そう言って、九里香はソファから立ち上がる。「あぁ」と木葉社長が言うのを確認して、九里香は部屋の扉を開いた。姫華の白い身体が廊下に出る。その背後、九里香は一つ頭を下げて、扉を閉めた。


「九里香さん、本当に気分悪そう」


 一歩、床を鳴らしたと同時に、姫華がそう喉を鳴らした。下がった眉が、先程の父親とそっくりだった。九里香は首を横に振って、僅かに口角を上げて見せた。


「まあね、少しお香の匂いがきつくて。とりあえず、控え室に行こう。あそこなら涼しくて日当たりも良い。自販機もあるから、なんか驕るよ」


 九里香がそう言うと、姫華は小さく口元を綻ばせた。僅かに軽くなった足を前に出して、二人は覚えのある廊下を進んだ。

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