孤独の神より③
「まさか、珊瑚と姫華さんが友達だとは思わなかったな」
ビル内の一角、小綺麗に整えられたテーブルを挟んで、九里香は姫華にそう笑って見せた。冷えたオレンジジュースを口にして、姫華は「うん」と小さく頷く。
「私もです。九里香さんが結婚してたのは、お兄ちゃんから聞いてたけど……その相手が珊瑚ちゃんだとは、思ってなかったです」
世間は狭いな。と、姫華は呟いた。九里香の知る限り、姫華は虚弱体質に加えて、人見知りの激しい性格だった。あの空間から出てすぐにこれだけ頬が緩んだのは、おそらく韮井が原因だったのだろう。見る人によれば、韮井ミツキは鋭い目元が余裕を奪いつくしていく男だった。
「珊瑚とは大学で?」
「いえ、幼馴染みなんです。うちは多都川神社の氏子総代だし、ずっと遡るとうちが玉依家の分家っていうか、暖簾分け? みたいなことをしたらしくて。それで、昔から付き合いがあったんです。同い年だし、女の子同士だしで、小学校から大学までずっと一緒で」
饒舌になっていく姫華の顔は、次第に明るさを取り戻していく。生気の薄さを差し引けば、彼女は兄である木葉誠一と同じく、軽やかな舌を持っていた。コロコロと言葉を転がしていく姫華に、九里香はふと問いを置いた。
「あれ? 大学、珊瑚と同じ学科だっけ」
「うーん。同じ理学部の生命学科だけど……珊瑚ちゃんはフィールド調査系で、動物が専門の専攻で。私は遺伝系っていうか、どちらかって言うとラボ系で……植物の方を専攻してるんです」
植物。九里香が反芻した単語を、姫華もまた拾い上げて、僅かに笑った。その微笑みには、一種の恥じらいが見て取れた。
「あの、ほら……ウェディングの時とか、お葬式の時とか……こういう家業だと、いっぱいお花を見る機会があって。ご遺族の気持ちを代弁する花だったりとか、新郎新婦の幸せを思ったお花を選んだりとか……三谷さんがそういうのやってるの、凄いなあって、思って」
「三谷さんに憧れたんだ。まあ、あの人、植物関係だったら何でもござれの人だしな」
「うん。もうすぐ樹木医の資格も取るんだって、三谷さん。それにね、神社の近くに出来た水族館。あそこの淡水ゾーンの水草とかお花も、三谷さんが手がけてるんですよ。毎年の夏祭りでやる朝顔の品評会も、もう殿堂入りしちゃったりして……」
熱くなっていくその口元を、九里香は笑った。彼の冷気を感じるような笑みで、姫華は慌てて口を噤んだ。
「顔色、少し良くなった」
九里香がそう呟くと、姫華は小さく頷く。そんな彼女の視界の外で、九里香は僅かに眉間に皺を寄せた。
「少し、話を聞かせて貰って良いかな。無理はしなくて良いから」
「話……ですか」
「うん、姫華さんを襲ってる怪異のことを聞きたいんだ。珊瑚にももう話しているんだろうけど、俺が改めて聞けば、何かわかることがあると思って」
そんな九里香の言葉を、姫華は無言で飲み込んで見せた。数秒、考えるように視線が動く。それが拒否感から来るものではなく、言葉を選ぶためのそれであることは、九里香にも察せられた。
「説明が、凄く難しいのですけど――――」
――――曰く、木葉姫華が『蛇』とまみえたのはおよそ一ヶ月前のことだった。
ハナミズキの香る頃のこと、夏祭りに向けた会合のため、家族総出で多都川神社に訪れた時のことである。境内の入り口である大鳥居を階段の下からて見上げ、姫華は一人、父や兄を待っていた。
十七時を告げるメロディが聞こえた。聞き慣れた電子音が、過敏な姫華の耳に痛みを与える。頭痛がした。痛みの点を、指先で撫でる。髪が視界を覆った。強く風が吹いた。その揺れる視界に、白いものを見た。
白く長い裾が、視界の上にあった。
視線を上げる。夕日が白い布を赤く染める。被った角隠しは、その『女』の顔を隠していた。ただ、唯一、赤い紅を引いた唇だけが、玉虫色に輝いていた。
白無垢を着た女が、花嫁が、鳥居の下で微笑んでいた。
――――結婚式が、あったんだ。
反射的に浮いた感想は、そんな軽いものだった。ただ、一秒の後、姫華の脳に浮かんだのは、違和感だった。多都川神社は縁結びの神を主祭神とする故か、結婚式が行われていることはよくあるし、白無垢の新婦が境内にいることも珍しくはない。ただ、こんな、夕焼けの、黄昏時の中に、白無垢が浮かぶ様子など、姫華は見たことがなかった。
「わたし――――」
ふと、女の唇が動いた。妙に声の大きな女だと思った。鳥居から降りかかる声が、はっきりと聞こえた。
「探して、おります」
そう言って、女は階段を降りた。迷い無く姫華に近づく彼女の頭は、一切揺れることが無かった。ただ、流れる川のように、その女は階段を下がり続ける。
「探しております」
数歩先まで降り立った女を避けるようにして、姫華は道を空けた。参道の横、玉砂利の上で、革靴じゃりじゃりと音を立てた。
「見つけ、ましたか」
女の顔が、ふと、姫華の方に向いた。隙間から見えたその容貌は、何処か日本人形のそれと似た、すっきりとした日本人らしい美しさを湛えていた。
「……何を? 何を、見つけたら」
思わず、姫華はそう呟いた。白無垢の女は、コロコロと笑った。
「わたしを」
言っている意味を、理解することが出来なかった。思考が失われていたわけではない。寧ろ、その回転率は良くなっていた。
――――禅問答でもしているつもりか、こんな、神社で。
微笑んで動かなくなった女に、姫華は「あの」と声をかける。すると、女は再び前を向いた。
硝子同士が、擦れるような音がした。
しゃりしゃりしゃりしゃり。音がした。
違和感が、あった。視界の全てに、違和感が。
姫華は、その目を下に向けた。
いやに長い、打掛だと思った。
その裾を探して、視線を流した。女は進み続ける。裾の終わりは、いつまで経っても見つからなかった。
ついぞ、大鳥居まで視線が向いた。白く長い布が、ずっと続いていた。
「あのっ」
姫華は、女の方を見た。状況の理解が出来ないまま、彼女はただ、その女に目を向けた。
「娘に、よろしくお伝えください」
女はそう言って、参道を再び進んだ。困惑の中で、姫華は息を吸った。頭痛がした。頭を抱えて、視界が揺れる。その揺れが治まった時、視界の違和感、その正体を理解した。
足下の、白い布が、夕日を反射させる。
しゃりしゃりと音を立てて、白無垢の裾が――――白い蛇の塊が、交尾しながら、少しずつ女の後ろを進んでいく。丸く赤い瞳が蠢く。その全ての輪郭を目に捉えたとき、姫華の頭に浮かんだのは、蛇のそれでは無く、腐肉に群がる蛆の塊だった。
「――――その後のことは、あまり覚えていません。走って、境内に戻って、お兄ちゃんに泣きついて……それで、家に帰ったんです」
姫華はそう言うと、ジュースの缶に爪を立てた。彼女の顔は再び青く血の気が引いていた。
「その日から、ずっと、音がするんです。しゃりしゃりしゃりしゃりしゃりしゃりしゃりしゃりしゃり…………蛆虫みたいな、蛇の塊が、頭の中でずっと蠢いてる」
姫華の口は、捲し立てるように早く動いた。彼女の首から、一筋の汗が流れた。顔は蒼白であるというのに、首から下は汗で濡れて、品の良いブラウスに染みを作っていた。
「それに、その、それだけじゃないんです。夜の……深夜になると、やっぱり音がするんです。私の部屋の窓から、しゃりしゃりって。それで、たまに……その……」
揺れる姫華の瞳を、九里香は覗き込む。言い淀む彼女に「落ち着いて」と呟いた。彼の冷静な声が、姫華の口を整える。
「……触ってくるんです。私の身体を。その、白無垢の女が」
そう呟くと同時に、姫華の腕に鳥肌が際立つ。感触を思い出したのだろう。何処を触れられるのか、それだけは聞くまいと、九里香は言葉を飲んだ。
「それで眠れないんだ」
九里香がそう言うと、姫華は小さく頷いた。深く刻まれた隈には、親近感が沸いた。九里香は「わかるよ」と言って、頭を掻いた。
「でも、怪我は無いんだね」
「はい。ただ触られるだけなんです。冷たい手で、ぺたぺたって……何か、確かめるみたいに、じっくり」
「それは毎夜のこと?」
「そうです。一ヶ月前からずっと。でも、朝になると誰もいなくて。お父さんに、施錠とか全部しっかりやってもらったんだけど、それでも毎晩、女が来るんです。白い蛇と一緒に、私の部屋に」
散乱した声が、テーブルの上に転がっていく。それらを九里香が拾い上げる暇も無いほどに、姫華はただ静かに吠えた。
「凄くハッキリした夢なのかなって、私が変なもの見ちゃったから、それで、ただトラウマでって……最初はそう思ってて、でも、でも……でも、確かに、私、冷たい感触も、音も、覚えてて」
「姫華さん」
「今も頭の中で動いてるんです。蛇が、いっぱい」
「姫華さん、俺の声聞いて」
「しゃりしゃりしゃりしゃりしゃりしゃりしゃりしゃりしゃりずっとずっとずっと」
「姫華さん!」
九里香の声が、響く。姫華は小さく肩を震わせて、口を押さえた。
「あ……あっ……ごめん、なさい……止まらなくて、音が……」
――――音が、聞こえるんです。
彼女はそう、自らの手の中で、繰り返し続けた。
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