孤独の神より④

 軽いウェーブのかかった髪の隙間に、姫華は爪を立てる。その先が僅かに赤く滲んだ。咄嗟に、九里香の手が彼女の手を掴もうとする。

 その一瞬、九里香と姫華の間に、小さく細い指が滑り込んだ。


「姫華さん、落ち着いてください。ここに蛇はいません。ここにいるのは、ヒトだけです」


 鈴を鳴らすような声が、ころころと転がる。その声に、姫華も九里香も覚えがあった。


「大丈夫、すぐに解決しますよ。今夜、姫華さんが安心して眠れるように」


 そう言って、珊瑚は丸い瞳を細めて笑った。九里香が気付いた頃には、姫華の息は落ち着き払ったそれに戻っていた。静かな呼吸音を聞いて、珊瑚は再び笑っていた。


「さて、九里香さん、お仕事です。韮井さんがお呼びですよ」


 明るく声を上げる珊瑚は、ジッと九里香の顔を覗き込んだ。彼女の口角は下がっていた。その表情の意味を噛んで、九里香は「わかった」とその場を後にした。


「姫華さんは花嫁の怪異に憑かれています。ですが、私がいつも祓ってきたような花嫁ではありません。おそらく、『多都川媛』に類するお方であると推測されます」


 ビルを出てすぐ、珊瑚はそう語った。運転席に座った韮井の隣で、彼女は「ですので」と呟いた。


「まずは多都川神社に向かいましょう。夜が来るまでに把握すべき情報があります」


 そう言ってカーナビの画面をつつき回す珊瑚に、韮井は大きく溜息を吐いた。


「多都川神社の情報なら、宮司の孫娘である君が知っているものじゃないのか」

「残念ながら、私は神社の運営や内情、神の由来、儀式などには詳しくありません。多都川神社は直系男子にしかそういった情報を伝えませんので」

「……何も知らないのか?」

「はい。私が多都川神社について知っていることは、公にされている縁起程度で……加えられる情報と言えば、この街の異類婚姻譚という怪異現象を起こしているのが、その多都川神社に祀られる多都川媛であるということくらいです」


 それはまた。と、韮井は苦く歯を見せて笑った。彼はサイドブレーキを外すと、そのままアクセルを踏んだ。


「だが、少しでもお嬢さんが知っていることについて教えて欲しい。君が何を把握していて、何を把握できていないのかも知りたい」

「でも、本当に……私が知ることと言えば、観光ガイドなどにも記載されていることくらいで……」


 韮井が「良いから」と呟くと、珊瑚はミラー越しに九里香と目を合わせた。彼女の丸い瞳には、困惑があった。九里香はただ、珊瑚に向かって僅かに口角を上げて見せた。


「……多都川媛は、この街の基となった多都川村で祀られていた『花』並びに『山』の神であるとされています。そのため、日本神話に登場する木花咲耶姫と同一視されることが多く、大手の観光ガイドブックでは主祭神が木花咲耶姫であると記載されることもあります」

「しかし、神社側の見解は違うと?」

「はい。正式には多都川媛は土着の神だと考えられています。全くの無関係であるとは思えませんが……正直、神話で語られるような木花咲耶姫とはイメージが全く異なるのです。多都川媛は古くは男女一対の人柱を要求する荒神であったと言います」


 珊瑚は言葉を繋ぐ度に、その声の熱を失っていった。徹底的に感情を排除したその口は、淡々と車内に情報を置いていく。


「その多都川媛を鎮め、生け贄を捧ぐ儀式を婚姻の儀式としたのが、玉依家だと、そうお祖父様からは伺いました」

「だが実際には、生け贄の儀式と婚姻の儀式は混在し……生物に自らの似姿を与えた分身と人間を婚姻させるという形で、多都川媛は未だ生け贄を得ているという話だったな」


 韮井がそう言うと、珊瑚は静かに「はい」と答えた。彼女の背後、後部座席に乗っていた九里香が、ふと声を上げる。


「その話と名前からして、確実に多都川媛は『川』の神ですよね。とすれば、蛇の花嫁は多都川媛そのものなんじゃ」


 川。そう反芻したのは、珊瑚だった。彼女は眉を顰めて、韮井へと視線を向けた。


「頻繁に洪水を起こす暴れ川に人柱を沈めるというのは、よくある話だ。その上、川の流れはしばしば蛇や龍として扱われる。とすれば、多都川媛が蛇の姿をした神であっても、おかしくはない」


 だが。と、韮井は置いて、溜息を吐いた。目の前には既に多都川神社の大鳥居が見えていた。


「それが何故、花と山の神になっているのかがハッキリしない。木葉社長のお嬢さんが多都川媛に関連したものに取り憑かれていることは確実だ。となれば、とにかく今は多都川媛についての情報が欲しいな。さっき聞いた話じゃ、神が動物の姿をとって、それが花嫁の姿になることもあるらしいじゃないか」


 韮井の言葉には、九里香にも心当たりがあった。恐らく珊瑚は、水族館での一件と似た状況だと考えているのだろう。

 そんなフラッシュバックした記憶の中で、九里香は小さく口を開いた。


「……確かに、多都川媛というか……あの蛇の花嫁の『探しているもの』がわかれば、解決の糸口は掴めるかもしれない……」


 ふと、九里香がそう呟く。その言葉に重ねるようにして「確かに」と珊瑚も口を零した。


「姫華さんの話を聞く限り、蛇の花嫁は姫華さんを娶ろうとしているわけではありません。何か『探している』と考えるのが妥当です。捜し物さえ見つかれば、害は成さない可能性が高いです」


 珊瑚がそう呟くと、感性が三人の背を押した。大鳥居の下、駐車場の一角に韮井は車を停めた。彼がドアを開いたのと同時に、珊瑚と九里香も外に足を踏み出した。


 ――――わたしを探しています。


 玉砂利を踏んで、九里香はその言葉を反芻する。姫華が語った、蛇の花嫁の言葉。


「わたし……自分を探す……」


 噛んだ言葉は、確かに禅問答に似ていた。


「九里香さん、どうかしましたか」


 大鳥居を潜った先で、珊瑚がそう声を上げた。いつの間にか、九里香と珊瑚達の間には、数メートルの距離があった。九里香は口を閉じて首を横に振った。彼が鳥居を潜ると、その視線の先には見覚えのある和装の男が立っていた。


「お祖父様!」


 珊瑚はそう言って、その男――――宮司の下へと駆け寄っていく。宮司は珊瑚達を認識すると、穏やかな表情のまま一つ頭を下げた。それに併せて、韮井もまた赤く燃えるような髪を揺らして、頭を下げて見せた。


「突然押しかけて申し訳ございません。韮井ミツキと申します。今回、木葉姫華さんの件で、多都川媛についてお話を伺いたく、おたずねしました」

「あぁ、珊瑚から電話で伺ってますよ。知りたいのは、多都川媛を『構成する女神』でよろしいかな」


 落ち着き払った声色で、淡々と宮司は言った。「構成」と、九里香が単語を一つ反芻する。だが、九里香の言葉に、宮司は何一つ反応を示さない。それが意図的であることは、誰が見ても明らかであった。


「失敬、宮司殿」


 そう言って、九里香と宮司の間に割って入ったのは、韮井だった。彼は赤い髪を揺らして、引き攣ったように口角を上げて見せた。


「貴方がお帰りをお待ちになられているのは、お一方だけですか」


 その笑みに、嘲笑が含まれていることは明らかだった。ただ、その言葉の意味を理解していたのは、宮司ただ一人だけだった。一瞬、彼は丸い目に困惑と苛立ちを灯すと、すぐに口を開けた。


「中で話しましょう。あまり表に出すような話でもありません」


 そう言って、宮司は韮井から目を逸らした。いそいそと身体を丸めて、社務所の中へと消えていく。その姿はどこか、韮井や九里香を避けているようだった。それに気付いていたのは、本人達だけでは無いらしい。「お祖父様?」と訝しげな声が、珊瑚の喉を震わせた。ただ、そんな孫娘すら無視を決め込んで、宮司は社務所の奥へと三人を案内した。


「多都川媛はこの地の土着の神に、神話上の女神が習合した存在です」


 社務所の応接室で、三人がソファに座るやいなや、宮司はそう言って溜息を吐いた。


「土着の神そのものとしてではなく、記紀神話に倣うことで信仰を得たというのが、おおよその経緯のようです」


 淡々と、宮司はそう言って自らもソファに腰を下ろした。彼は煙草に火を付けると、煙を口で転がした。


「では、その神話上の女神というのは」


 漂う煙の中で、韮井はそう尋ねる。彼の翡翠の瞳には、何処か威圧のようなものが含まれていた。


「私が知る限りでは、木花咲耶姫、磐長姫……あとは、鹿屋野比売でしたでしょうか」


 宮司の言葉の中、ハッと小さく息を吸ったのは、九里香だった。


「――――鹿屋野比売?」


 独り言にしては張った声が、九里香の喉を震わせる。その場にいる全員の視線が彼に向いた。


「あ、いや、あの。この神社の祭神は、多都川媛以外にはいらっしゃらないんでしょうか」


 狼狽えながらも、九里香はそう首を傾げて見せた。覗き込んだ宮司の顔が、一瞬歪む。それが腐った生ゴミでも見るような目であったことを、九里香だけが理解していた。


「摂社として、習合した女神をお祀りしています」


 寄せた皺を撫で伸ばしながら、宮司はそう口角を上げた。穏やかな表情を取り戻した彼は、そのまま口を閉じた。

 そんな彼の様子を、韮井は腕を組んで睨んだ。どうにも納得がいかない。そんな目で、宮司を見つめた。


「男神や独神を祀ってはならない禁忌でもあるんですか」


 韮井がそう言うと、宮司は目を逸らして、首を横に振った。


「いいえ。ですが、今から新しくお祀りする理由も、ございませんから」


 宮司の答えを聞いて、「そうですか」と韮井もまた目を伏せた。そして考える時間も無いままに、反射的に彼は再び口を開いた。


「であれば、大山津見神を祀る社を一つ建ててください。鹿屋野比売の摂社の隣が良いでしょう。そうすれば、この神社から婿捜しに出られた女神は、お帰りになられますよ」


 僅かに口角を上げて、韮井はそう言った。「は」と声を漏らしたのは、宮司と珊瑚の二人だった。珊瑚と似た丸い目をより丸くして、宮司は韮井を見る。そんな彼を見下ろして、韮井は再び口を開いた。


「鹿屋野比売の別名は野椎神、または野蛟神とされる場合もある。同じ名で蛇の姿をした『野槌』という怪異もいます。このことから、蛇の花嫁の正体は鹿屋野比売と考えて良いでしょう。そして、彼女が探すものは神話上の夫である『大山津見神』と推測される」


 韮井の言葉に「成程」と問いを置いたのは、九里香だった。


「わたしを探しています……『わたし』は、和多志大神のことですね」


 九里香がそう言うと、韮井は小さく頷いた。


「和多志大神というのは、大山津見神の別名。本来、山の神といえばこちらを指します」


 そう言って、韮井は翡翠の瞳を宮司に向けた。彼の鋭い視線が、宮司に突き刺さる。顔をしかめた宮司に、韮井は口角を落とした。


「……わかりました。大山津見神を祀っている近隣の神社から、分社させていただきましょう」


 宮司はそう言って、眉間に指を置いた。彼は「ですが」と再び眉間に皺を寄せた。


「すぐには難しいでしょう。どんなに急いでも二週間ほどは要します。大丈夫ですか」

「大丈夫、とは」


 反射的にそう返したのは、九里香だった。一瞬、宮司は九里香を睨むと、その目を韮井に戻した。


「繊細な姫華様のことです。二週間、持つと思いますか」


 宮司のその言葉を、三人は黙って飲み込んでいた。




「正直、姫華さんが持つか持たないかで言えば、二週間は難しいでしょう」


 駐車場の一角、停止したままの車中で、珊瑚はそう呟いた。助手席で頭を抱える彼女は、縋るような目で運転席の韮井を見ていた。当の韮井は、腕を組んで小さく溜息を吐いていた。ミラー越しに、九里香もまた彼に縋る視線を送った。


「……とりあえず、社長のご自宅に向かおう。今夜も来るなら、一度会ってみるのも手だ」


 韮井はそう言って、前髪を掻上げた。車のキーを回すと、そのままアクセルを踏んだ。

 タイヤの踏みつける路面が、玉砂利からアスファルトに変わった頃。九里香の視界に、ふと鳥居が入り込んだ。流れた視線は、鳥居の輪郭を際立たせる。昼の青い空に、赤いそれがハッキリと浮かんだ。


 ――――今、誰かが。


 鳥居の下に、女が立っている。九里香がそう理解した時には、彼らを乗せた車両は大通りを左折し、視界は参道の商店街だけを映していた。

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