孤独の神より⑤

 この街において、木葉家は所謂『名家』であった。街の冠婚葬祭を一手に担っている点で、その信頼の大きさと資金の潤沢さは言うまでも無い。その家業がいつから始まったのかを、九里香は知らなかった。ただ、目の前の屋敷を見れば、木葉家が名家と呼ばれる以前に、『旧家』と呼ばれるべきであることはわかった。

 修繕と増築を繰り返したのだろう。古くくすんだ壁と、真新しい煉瓦やコンクリートの境目が、はっきりと見て取れた。建築について詳しくない九里香でも、それが元々はドイツかイギリスをイメージしたそれであったことは理解出来た。だが、その基底となっただろう屋敷から、枝葉を伸ばすようにして渡り廊下で繋がれた各家屋は、建てられた年代に沿って、その雰囲気を変えていた。


「九里香さんもこちらの邸宅にお邪魔するのは初めてでしたか」


 そう言って、珊瑚は屋敷の玄関を叩く。彼女の丸い瞳に映った自分を見て、九里香は己が呆けた顔をしていたことに気付いた。


「お二人とも、お一人で動くのはおやめくださいね。私も昔、姫華さんとかくれんぼをして、一晩迷子になりました」


 珊瑚が小さく笑う。そんな彼女に「わかったよ」と言って、目を逸らしたのは韮井だった。

 ――――黙って探検でもするつもりだったんだろうな。

 韮井の性質を、九里香は理解していた。奇妙なもの、不可解があれば、思慮を巡らせながらも間髪入れずに首を突っ込む。行動と思考が常に並列して行われる。考え無しではないが、子供のように無鉄砲であると否定も出来ない。韮井ミツキとは、そういう男だった。

 珊瑚がふてくされた韮井に微笑みかけると、玄関の扉が開いた。


「来てくれてありがとうございます、皆さん」


 扉から顔を覗かせたのは、姫華だった。僅かに血色を取り戻した頬を膨らませて、彼女は三人を見上げた。


「姫華さん、落ち着かれましたか」

「うん、少し休めたから。珊瑚ちゃんたちは神社に行って、調査してくれたんだっけ」


 そう言って、姫華は扉を大きく開ける。彼女は「どうぞ、中へ」と笑って、玄関の広間へとその軽い身を翻した。


「皆さん、私の部屋へいらっしゃいますから。お茶のご用意をお願いします」


 姫華が呟いた先には、エプロン姿の女がいた。彼女は木葉家の家政婦であったようで、「かしこまりました」と深く頭を下げた。そんな女の横を通り過ぎて、三人は姫華の案内で廊下を進む。


「珊瑚ちゃん達は、現場検証をしたいんですよね?」


 二分ほど歩いた頃、ふと、姫華がそう言って立ち止まった。目の前の扉が彼女の部屋へと通じていることは、その場にいた全員が理解していた。


「はい。そう思って頂いて構いません」


 珊瑚がそう言うと、姫華は「わかった」と僅かに口角を上げた。


「珊瑚ちゃんに聞きたいんだけど、さっきまで多都川神社にいたんだよね。何か掴めたの?」


 扉を開けると、姫華はそう言って珊瑚を見た。珊瑚は、「はい」と置いて、躊躇無く部屋に入った。


「おそらく、姫華さんの部屋にやってくる蛇の花嫁は、神社で祀られている鹿屋野比売であると考えられました」


 淡々と、彼女は姫華に神社での出来事を語っていく。そこに熱は無い。それは徹して、情報の伝達以外の何物でも無かった。珊瑚が語る内、家政婦が茶を持って部屋の前に現れた。それを合図に、九里香と韮井も、姫華の部屋に足を踏み入れた。


「――――というわけで、根本的な解決には二週間ほどかかりそうなんです。ですが、姫華さんの様子を見るに、二週間耐えていただくのは難しいでしょう。ですので、今夜、蛇の花嫁とお会いして……それで、姫華さんを守る手立てを考えられないかと」


 珊瑚はそう結んで、冷えた茶に口を付けた。その隙間、姫華が「そう」と相槌打つのを見て、ふと韮井が口を開いた。


「加えて、蛇の花嫁がお嬢さんを襲う理由が知りたい。もしかしたら、お嬢さん自身に取り憑いているわけではないかもしれない」


 彼はそう言うと、姫華の部屋の隅々に視線を落とした。


「お話を聞く限り、神社で出会った花嫁と、この部屋にやってくる花嫁は同一存在。だが、『襲っている』という『現象』はお嬢さんの主観でしかない」


 視線を動かし続けるままに、韮井はそう腕を組んだ。彼の翡翠の瞳が、家具の一つ一つを映す。そのうち、眼球の動きが弱くなった頃、九里香が口を開いた


「考えようによっては、姫華さんを襲っているわけではないかもしれないんですね」


 彼の反芻に、韮井は「そうだ」と一言落とした。


「多都川神社で、あの蛇の花嫁は『夫を探している』という仮説が立てられた。もしそれが正解であったとして、何故お嬢さんをこの部屋で襲う必要がある。実際、花嫁は神社で出会った際にお嬢さんとは会話可能だった。神社での一件以降、花嫁がお嬢さんに何も語りかけていないということがひっかかる」


 ――――この部屋に、何か原因があるかもしれない。

 韮井の言葉の意味を、九里香は理解していた。止まった韮井の視線をなぞる。その先には、一際日の光の入る硝子窓があった。それが窓では無く、硝子張りの戸であることに気付いたのは、姫華がそれを開いた時だった。


「確かに、私の部屋が原因かもしれないというのは、一理あります。その、少し、特殊……一般的な感じではないので」


 こちらへ。と、姫華は穏やかに笑った。彼女が開いた戸の向こうには、もう一つ、分厚い硝子扉があった。渡り廊下で繋がった扉同士は、硝子で出来た壁と天井に覆われた渡り廊下となっていた。その更に先、二つ目の扉を姫華が開く。その隙間からは、真夏を感じさせるような熱気と湿度が漏れた。


「大学入学祝いに、お父さんが温室を建ててくれたんです」


 姫華はそう微笑んで、硝子張りの部屋の中心に座った。彼女が座った椅子の前、丸テーブルの上には、大量の書類が置かれていた。その表面を軽くなぞれば、それが全て植物の観察日誌であることがわかった。


「これはいつ頃建てられたんだ」

「大学合格してすぐだから、一年と少し前ですね。珊瑚ちゃんとも何度かここでお茶したことがあります」


 ね。と、姫華は韮井に向けていた目を珊瑚に向けた。珊瑚もまた強く頷いて見せる。そんな二人を置いて、韮井は温室の隅々へと視線を送る。目線を草木に向けたまま、彼は再び口を開けた。


「全て、お嬢さんが世話を」

「はい。最初はそこにいるウツボカズラとか、まだ小さい子達から。最近は大型のサボテンとかも育てるようになって」


 姫華の唇に、熱が籠もる。彼女のそれに油を注ぐようにして、韮井は僅かに口角を上げて振り返る。


「一番新しいのは」

「一番新しい子はこの子ですね。スピラリス……ユーリキニア・カスタネアっっていうサボテンの変異種で、螺旋状に伸びるのが特徴で……殆ど市場に出回らない珍種なんですよ。しかも生長が遅い子なので、ここまで大型な子はまず市場に出ません」

「そんな珍しいもの、どうやって」

「うちの会社に出入りしている、三谷さんってお花屋さんが頑張って取り寄せてくださったんです。時々ここに来て、メンテナンスのご教授も頂いています」


 そう言って、彼女は笑う。先程までの病人風の様相は、入り込む日差しに照らされて和らいでいた。

 姫華が指差すサボテンに、珊瑚と九里香も目を置いた。一瞬、珊瑚が眉間に皺を寄せる。すると、彼女は口元に手を置いた。その手の中から、珊瑚は鈴のような声を鳴らした。


「これはまた、立派なものですね。以前来たときにはありませんでしたから、二ヶ月くらい前に搬入されたのですね」

「うん、丁度、珊瑚ちゃんが最後に来た一週間後に持ってきて貰ったから、それくらいね」

「私はサボテンには疎いのですが、二股になるのはこの種の特性ですか」

「うーん、私もあまり詳しいとは言えないけど……こういう形になることは多いよ。でも、種としての特性っていうよりも、接ぎ木のやり方に左右される感じかな。この子は接ぎ木で殖やすのだけど、こうやって根元から分かれているってことは、そういう風になるように、基になるサボテンに植え付けたんじゃないかな」


 ほら。と、姫華は指をサボテンの下に示す。彼女の示したところを見ると、確かに、天に螺旋を描くようにして伸びていくサボテンと、それとは全く別の針で覆われた基部の境目があった。その根元から、丸く肉が固まったような緑色の塊が、大きく二本生えている。それが、彼女の言う『スピラリス』の姿だった。


「……何処かで見た気がするんだよな」


 不意に、九里香がそんな言葉を零した。その言葉を隣で聞いていたのは、珊瑚だった。彼女は丸い目で九里香の顔を覗き込む。お互いに視線が合った。「なんだよ」と九里香が珊瑚に問うと、彼女は僅かに冷や汗を垂らして微笑んで見せた。


「九里香さんもお気付きですか」


 彼女はそう言うと、姫華へと視線を向ける。不思議そうに珊瑚と九里香を見る彼女の後ろでは似たような表情で韮井が立っていた。


「九里香さん……その……九里香さんなら、今から私が言う単語で、思い出せるものがあるかと存じますが……」


 背後の二人から視線を逸らして、珊瑚は九里香の耳元に唇を寄せた。サボテンの前、九里香の耳に珊瑚は声を鳴らした。


「……蛇、二股、棘……」


 三つの単語を置いて、珊瑚はそっと息を止めた。九里香もまた、ウッと肩を震わせて、息を止めた。


「何だ、何があった」


 痺れを切らした韮井が、僅かに声を荒げる。そんな彼の前で、姫華もまた、不可思議そうな顔を不安げな表情に変えた。そんな二人に、眉を下げて、珊瑚が笑って見せた。


「姫華さん、今夜は別室でお休みください。花嫁が探していたものを、


 珊瑚はそう言って、大きく溜息を吐いた。そこには呆れと共に、一種の嘲笑があった。

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