孤独の神より⑥

 部屋にかかった時計を見る。十二という数字に、二つの針が重なっていた。静かに日付が変わる。その針の動きを、一人、珊瑚は見ていた。

 姫華の部屋は、温室から漂う甘い香りに満たされていた。肥料の持つ独特な臭いも相まって、一瞬、目眩がした。

 その揺れる視界に、ふと、白いものを見る。


「お待ちしておりました、蛇の姫」


 珊瑚はそう言って、目を閉じて深々と頭を垂れた。再び開いたその瞳には、白く輝く女がいた。

 音も無く現れた白無垢の女。その正体を、珊瑚は既に知っていた。そして、その名を唱える必要が無いことも、理解していた。

 静寂な二人の間には、珊瑚の呼吸音だけがあった。白無垢の女――――蛇の花嫁は、その様子に何一つ反応を示さない。半透明の角隠しからは、顔が透けて見えた。その顔に、珊瑚は見覚えがあった。


 ――――似ている。私と――――母の遺影と。


 花嫁の顔が、優しげに微笑む。その一瞬、珊瑚は息を飲んだ。


「……私は貴女を知っています。そして、貴女がお探しのものも、知っております」


 どうにかして振り絞った息は、そうやって蛇の花嫁へと語りかける。花嫁は薄ら笑いだった表情を落として、その顔を延ばした。

 珊瑚は息を止めた。視線を逸らす。殆ど、本能的な行為だった。目の前に顔がある。それに違和感は無い。ただ、珊瑚の中に困惑を落とした理由は、花嫁の身体にあった。

 顔――――それを構成する頭部を、珊瑚は舐めるように見つめた。視線を少しずつ、その頸部へとずらしていく。

 胴体へと、戻って、戻って、戻って、伝って。その首と胴体のつなぎ目を探す。だが、いつまでもその白く長い首は胴体へ辿り着くことはなかった。


 ――――白く、長く、大きい。ただそれだけ。ただそれだけの、蛇だ。


 珊瑚はそう念じて、息を吸った。悠然とした白無垢を――――大量の抜け殻を重ね着たその大蛇は、珊瑚の顔の周りで、チロチロと舌を出す。

 生臭く、温度の無い息がかかる。変温動物と恒温動物の違いを、その顔に受ける。知的好奇心が満たされた喜びか、頭から自分を飲み込もうとせん怪蛇を前にして混乱しているのか、珊瑚はフッと小さく笑った。


「こちらへどうぞ」


 僅かに軽くなった胸に手を置いて、珊瑚は一歩、横にズレた。底から叩くような心音を押さえつけるようにして、彼女は右手で自らの首を摩った。

 そんな珊瑚を、大蛇は僅かな首の動きで追う。部屋に満ちた身体を、彼女は硝子を擦るような音と共に曲げた。


「貴女が探していたのは、旦那様ですね」


 珊瑚がそう言葉を置くと、大蛇はジッと珊瑚の目を見つめた。呼吸を整えて、珊瑚は再び、一歩、足を動かした。

 半開きになっていた硝子の戸を開ける。熱気が漏れて、珊瑚と大蛇の顔にかかった。


「夫となる山の神を探すため、貴女はお社から出た。そして、たまたま出会った姫華さんに着いて来てしまった」


 気を紛らわせる。珊瑚が吐く言葉には、それくらいの要素しかなかった。誰に語るでもなく、珊瑚はただ、言葉を置いていた。それを聞く耳が、この『神』にあるとは思えなかった。


「その理由を、尋ねることはしません。私のような卑しい人間に、神である貴女へ問いかける権利はございません」


 淡々と、繋ぐ。珊瑚の息を舐めるようにして、大蛇は彼女の顔を見ていた。四肢が固まる。蛇に睨まれた蛙とは、こういうことだろうかと、珊瑚は下唇を噛んだ。


「けれど、貴女がここに何度も通った理由は、理解したと、自負しております」


 大きいだけ。大学で飼育しているマムシだとかと同じ。ただ、それが大きくなっただけ。

 そう念じて、珊瑚は再び口を開いた。コロコロと変わる彼女の表情を面白がったのかもしれない。大蛇は上がっていた口角を更に上げた。その隙間から見える細い歯に、毒牙は無かった。

 前方に毒牙は無い。つまり、マムシではない。アオダイショウ。いや、それとも。

 一瞬で、珊瑚の中に思考が巡る。珊瑚の脳は、自動的に種同定を始めていた。だが、生臭い息を吹きかけられて、我に返る。目の前にいるのは、マムシでも、アオダイショウでも無い。ヒトの知的領域に、生物種に降りることのない、紛うと無き『神』だった。


「貴女の御名は鹿屋野比売……蛇の姿をした、野の神、草木に由来する尊い方です」


 思い出した名を、珊瑚は唱えた。自らの名を聴いた大蛇が、一瞬、揺れる。その巨躯が揺らいだわけでは無い。正確に言えば、珊瑚の視界が揺れていた。


「雄大な野を示す貴女にふさわしい男神は、さぞかし雄々しく、立派なお方でしょう」


 珊瑚は大きく息を吸って、部屋を出た。温室に繋がる廊下に立つ。硝子で出来た通路の中、珊瑚の声が反響する。その声を聴いていたのは、大蛇だけではなかった。硝子張りの温室。そこに立っていたのは九里香だった。


「お持ちの『モノ』だって、きっと素晴らしい筈です」


 そう言って、珊瑚はその身を翻す。彼女の背後にあったものは、九里香の立つ温室――――その中央にそびえるのは、巨大な螺旋を描くサボテンだった。その瞬間、大蛇の腹が、ぐるりと動く。その目線は既に温室のみを認めていた。


「これがその『モノ』だとは、私は言えませんが……」


 珊瑚が言葉を続けようとした時。その悠々とした口元を抑え付ける手があった。


「無駄に喋るな、逃げるぞ」


 そう言って、九里香は珊瑚の背後から手を伸ばしていた。息を止める二人の前で、硝子の擦れる音が響く。大蛇の姿は無かった。そこにあったのは、大量の白蛇が交わる白い『道』だった。

 その道を目線で辿る。二人の視界には、白無垢の女がいた。蛇の花嫁は、脱皮殻を纏って奇妙にその身を躍らせる。ゆったりと、しかし一つの目的を持って、その女は胴を捻る。両腕を緑色の幹に回して、コロコロと笑った。そして、脱皮殻のヴェールを揺らすようにして、再び身体をくね、くね、くね、とよじり続ける。

 そんな様子を見つめながら、九里香は僅かに足を後ろにずらした。その数センチの動きに合わせて、珊瑚もまた、同じだけ足を引いた。僅かながら、けれど回数を増やし、二人は透明な廊下を動く。お互いに、息をしてはいけないと、わかっていた。淫靡に踊る白い女を置いて、二人は姫華の部屋へ向かう。

 静かに温室を脱出し、施錠して花嫁を閉じ込める。そうして大山津見神の摂社が建てられるまでの時間稼ぎとする。怪異を封する法を知る韮井と、花嫁の欲するものを知る珊瑚達が立てた計画は、概ねそのようなものだった。

 故に、珊瑚と九里香がこの硝子で出来た廊下を退き、鍵をかけてしまえば、あとは時間が解決する。

 僅かな安堵が、珊瑚の口を押さえていた九里香の手を緩めた。やっとのことで息をする珊瑚の息が、彼の指に触れた。


「――――何故、私を置いて行かれたのですか」


 ふと、九里香の耳にそんな鈴を鳴らすような声が響いた。それは、確かに珊瑚の声だった。だが、声を発した筈の珊瑚は、九里香の両腕の中で、静かに花嫁を凝視していた。

 違和感はあった。それでも、九里香の脳には、過るものがあった。


 ――――私のことを置いて出て行っちゃ駄目だからね、クリカ。


 何も見えない暗闇の中で、そう少女が唱えた言葉。珊瑚と同じ声をした、あの少女の声。あの柔らかな喉の感触。確かに九里香の手は、曖昧な時系列の中に埋め込まれた、確かな甘い苦しみに触れていた。


「俺は、置いてなんて」


 反射的に、九里香の口からそう声が漏れた。

 痛みが、あった。腕を、手を、引っ掻く小さな爪。


「何やってんだ! 早く戻れ!」


 痛みは、聞き覚えるのある怒鳴り声でかき消される。

 瞬間、我に返る。九里香の手は、珊瑚の喉を、気管を、握りしめていた。手を開く。震えたそれは、床に倒れ込む珊瑚を支えることすら出来なかった。

 振り返った先には、韮井がいた。ひゅっと短く息をする珊瑚を、九里香は両腕で抱え、投げ出すようにして姫華の部屋へと飛び込んだ。本棚に打ち付けた背が痛む。咄嗟に包み込んだ珊瑚の背が、九里香の肋骨を圧迫した。痛みを合図に、目を開けた。視界に、一瞬の光を見る。それが白い蛇の塊であると気付いたのは、韮井がそれらと九里香達の間に入ってすぐのことだった。

 韮井が大きく息を吐く。押し退けるようにして、その長身を蛇の塊にぶつけた。はじき出された女が、ごろりと廊下に転がった。それを確認するよりも先に、韮井は硝子の戸をスライドさせた。鍵をかける。その滑らかな手の動きと共に、彼は僅かに唇を震わせた


「……韮井さん、お手伝いを」


 そんな韮井の背後に這いつくばる少女がいた。珊瑚を見下ろした韮井は、大きく、見せつけるように溜息を吐いた。


「要らん。もう終わった」


 静かになった部屋の中、白い女を背にして、韮井はその燃えるような髪を輝かせた。

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