孤独の神より⑦

 よく晴れた休日、多都川神社の境内。高らかに聞こえるのは、宮司が吠える祝詞の声だった。真新しい社の前には、木葉家の面々が並んでいた。日傘を差す姫華の表情は柔らかく、寝不足で出来た隈も薄れていた。

 そんな風景を、遠くから眺めていた珊瑚は、溜息を吐いた。彼女は祖父である宮司から儀式中は近づかないようにと言い含められていた。物心つく頃から、珊瑚は行事へ関与することを徹底的に避けるよう躾けられた。故に、こうして一人、静かに事が終わるのを待つのも、慣れていた。


「失礼、お嬢さん」


 不意に、珊瑚の背から聞き覚えのある声が聞こえた。同時に、珊瑚をすっぽりと覆う影があった。


「韮井さん」


 名を呼んだ珊瑚を、韮井は穏やかに微笑んだ。日に照らされる韮井の色素の薄い髪と皮膚は、透き通るようだった。


「時間があるなら、少しお付き合い頂けるか。何、珈琲一杯分だけだ。私も妻帯者だ、妙なことをするつもりは無い」


 韮井の言葉に、珊瑚は一度だけ下唇を噛んだ。血の味を舌先で覚えて、彼女は翡翠の瞳を見上げた。


「私、珈琲は苦手なんです。それでも、紅茶を頂けるなら」


 彼女がそう笑うと、韮井は「勿論」と口を引き攣らせて笑った。


 二人が腰を下ろしたのは、街の郊外にある喫茶店の、最奥の席だった。無愛想なマスターが珈琲と紅茶をそれぞれ机に置く。韮井は角砂糖の入ったポットを珊瑚の目の前へと移動させた。


「ホットケーキでも何でも頼むと良い。驕るよ。味は保証する。接客はクソだが」


 韮井はそう呟くと、おもむろに煙草を咥えた。躊躇の無い動作で熱を灯し、紫煙を潜らせる。僅かに珊瑚が咳き込むと、彼は目を丸くした。


「いや、すまない。九里香が平気だったので、お嬢さんも大丈夫だと」

「あ、いえ。大丈夫です。慣れていないだけで、疾患等があるわけではありません」


 それに。と、珊瑚は付け加えて、紅茶で唇を濡らした。


「九里香さんの吸っているものと、同じ匂いがします。そのような銘柄だったのですね。知りませんでした」


 珊瑚はそう言って、ティーカップを置いた。手持ち無沙汰になった彼女の手は、自身の首を撫でる。


「九里香は元気か」


 一口含んだだけの煙草を、灰皿に擦り付ける。一瞬だけ落ちた彼の表情に、珊瑚は息を飲む。同時に、僅かな腐敗臭が彼女の鼻を覆った。何処からともなく匂うそれは、韮井から、韮井の背から発せられていると理解した。そして、それが一種の威嚇であることも、珊瑚は間を置かずに解した。その理解に押されるようにして、珊瑚は口を開いた。


「……私にはわかりません」

「何故。夫婦で、一緒に住んでいるんだろう」


 一言で言えば、それは尋問だった。韮井の目は冷ややかだった。


「最近は、九里香さんと顔を合わせていません。私が起きる頃には玄関の戸を開ける音がして、台所に作り置きがしてあるんです。お弁当も作ってくれて、置いておいてくれて。それで、足りなければ学生食堂で食べろって、書き置きもあって」


 散発的に言葉が出る。まるで嘔吐剤でも飲まされたかのようだった。嘘をつく理由も無い。故に、ただ、出来事だけを吐く。珊瑚がそれを繰り返しているうち、韮井は大きく溜息を吐いた。


「アイツ、意外と繊細だからな……」


 独り言にしては大きく、韮井はそう呟いた。彼は数秒身体の動きを止めると、再びその視線を珊瑚に向けた。


「首の方は、もう大丈夫か」

「は、はい。その……強く絞められて、痕は少し残りましたが……もう殆ど薄れて、パッと見ただけではわかりません。病院で検査もしましたが、問題はありませんでした」


 首筋に触れていた手に、意識が戻る。珊瑚は訳もなく触れていたその皮膚から手を離して、膝に置いた。その様子を見ると、韮井はフッと小さく鼻で笑った。


「じゃあ、それを九里香に教えてやると良い。アレはお嬢さんを傷つけたことを、酷く気に病んでいるだけだ」


 そう言って韮井は眉を下げた。その挙動一つ一つが、何処か父親や年の離れた兄のような風貌を見せる。実際、九里香にとっての韮井はそういった人物なのだろうと、珊瑚は彼の動きを追って、思考を飲んだ。

 そんな一挙手一投足を観察する珊瑚の視線を、韮井は苦く笑って見せた。


「九里香が、結婚を約束した女性がいると主張していることは、もう知っているね」


 韮井はそう零して、ジャケットの懐に手を入れた。彼の唐突な問いに、珊瑚は慌てて口を開く。


「はい。ですので、私との結婚は一時的であるという条件です。その女性と再会すれば、その方と結婚するのだと」

「随分わがままを言ったもんだな、あの馬鹿」


 肩をすくめる韮井は、嘲笑を含んだ口でそう呟く。だが、珊瑚は重たい息のまま、口角を上げて見せた。


「良いのです。私との結婚は時間稼ぎ。怪異からの、いえ、全てからの求婚を退けるために必要なことでした」


 珊瑚はそう言って、目を瞑った。そして、数秒の思考の後、再び小さく息を吐いた。


「そも、九里香さんは、そういうお生まれなのでしょう? あの方には、『神を欲情させる性質』が染みついている。おそらく、そのために生まれ……ご本人の言葉を借りるなら、『飼育』されてきたのでしょう」

「……九里香から聞いたのか」

「全てのことをお聞きしたわけではありません。自分は飼育されていたのだと、本人からは、それだけ。ですが、あれだけのヒトと怪異に愛される方など、異常です。何か原因がある筈です。九里香さんの出生が特殊であると言うなら、そこに原因があると見るのが妥当でしょう」


 それだけのことですよ。と、珊瑚は繰り返した。そんな彼女を、韮井は目を丸くして見つめる。そして、一拍を置いた後、彼は小さく手を叩いた。珊瑚がそれを拍手だと理解したのは、彼が翡翠の瞳を細めた時だった。


「良いじゃないか。知識が無いにしてはよく考察している。概ねそのように考えて貰って構わない。それだけ理解した妻がいるんだ。幸せ者だな、アイツは」


 そう言って、韮井は珈琲に口をつけた。冷め始めたそれを喉に通して、カップを置く。背筋を正した彼は、真っ直ぐに珊瑚を見ていた。


「私が言うのも何だがね。九里香を末永くよろしく頼むよ。アレは意外と、寂しがり屋だからな」


 赤く燃えるような髪を揺らして、韮井は深く頭を下げた。珊瑚は咄嗟に、「いえ」だとか「あの」だとかまき散らしながら、大きく息を吸った。


「ですから、私は一時的な配偶者です。九里香さんが約束した方と再会するまでの、対症療法なんです。それに、九里香さんがこの街を出れば、私と結婚したままである必要はありません。大学院博士課程までここに残るとしても、それでも数年だけです。用が済んだら出て行けば良い。いつか、九里香さんは私を必要としなくなります」


 自分でも何を言っているのかと、口を押さえそうになる。だが、何故だか、珊瑚の舌は止まらなかった。形だけでも一言「はい」とだけ答えておけば良いものを、彼女は捲し立てるように、何か言い訳でもするように、頭の中に浮かんだ言葉の羅列をテーブルの上に落としていった。


「私は、九里香さんがこの街で生きる間だけ、お守りするだけなんです。結婚なんてものは、その手段に過ぎません」


 だから。そう置いて、珊瑚は震える唇で笑った。


「私のような卑しい人間に、頭を下げないでください。私はどうせ、すぐに一人になるんです。夢を……抱かせないでください」


 お願いします。


 その言葉を飲み込んで、珊瑚は息を止めた。彼女の歪む表情を、韮井は感情を削いだような顔で見ていた。暫くの沈黙が走る。それを先に破ったのは、韮井だった。彼は溜息を大きく吐いて、眉間に皺を寄せた。


「何が卑しい人間だ。貴女は誰より尊い女性だろう。それを貶めたのは誰だ? あのお飾りの宮司か? それとも貴女の師を、父親を気取る祓い屋か?」


 混乱に、混乱を塗り重ねる。韮井が何を言っているのか、珊瑚にはわからなかった。何か、理解の差異があった。否、正確に言えばそれは、違う立ち位置にあるが故の、視点の差異だろう。


「も、申し訳ございません……何をおっしゃっているのか、私にはわかりません」


 ただそれだけを、珊瑚は唱えた。フリーズする脳が、自動的にそう吐いた。固まる彼女に、韮井は「あぁ」と声を漏らして、頭を掻き毟った。


「気にするな。私怨を多分に含む話だ」


 それより。と、韮井は改めて背を正した。彼は空のカップを持って、僅かに揺すった。それに中身が無いことを思い出して、そのまま口を付けることも無く再びテーブルの上に手を置いた。


「九里香の言う女性は……いないものと思った方が良い。おそらく、既に亡くなっている」


 韮井の言葉に、珊瑚は意識を取り戻した。問いを作る口に、生気が宿る。丸い目で、彼女は韮井の顔を覗き込んだ。


「正体をご存じなんですか?」

「個人名の特定には至っていない。だが、どのような末路を辿ったのかはおおよそ推察できる」


 末路。珊瑚が反芻すると、韮井は僅かに口角を落とした。


「九里香が言っている女性……当時は少女だっただろうが……その少女は、おそらく飼育されていたアイツを世話していたのだろう。九里香がいた団体、夜咲家では、そういった少年少女は使い捨ての道具に過ぎなかった」


 道具という単語に、珊瑚は言葉を飲み込んだ。反射的に吐き出そうとしたそれを、胃に収める。韮井の言う先にあるのは、確かに死なのだろう。ヒトという生き物に対して無機物的単語を使う時は、大抵そのヒトは碌な目にあっていない。


「これくらい、九里香だって理解している筈だ。だが、目を逸らしている。それが失った幼少の時間を埋める、唯一の手立てだったからだ」


 けれど。韮井はそう置いて、再び頭を掻き毟った。珊瑚には、その癖に既視感があった。何か考えて言葉を出そうと言うとき、迷いがある時。そんな時には、九里香も同じように冷淡な表情で頭皮に爪を立てていた。


「いつかは現実を見なければならない。私は、君との結婚が、九里香にとってその大きな一歩になっていると、確信している」


 韮井のその言葉に、珊瑚は数秒の無言を置いた。思考は巡っていた。言いたいことはあった。だが、珊瑚はその全てを飲み込んで、小さく頷いて見せた。




 珊瑚が帰宅した頃、日は既に傾いていたが、夜には至っていなかった。所謂、黄昏時と呼ばれる中で、屋敷は赤く染まっていた。


「ただいま戻りました」


 そう言って、珊瑚は玄関の戸を開けた。二匹の猫が鳴く声が聞こえた。その声は酷くのんびりとしていた。違和感があった。いつもであれば、にゃんにゃんにゃんと騒がしい彼らが、異様に静かだと思った。

 玄関の戸を閉めようと、一歩、中に入った時だった。ぎい、ぎい、ぎい。と、覚えのある鳥の声が聞こえた。ふと足下を見ると、金色の瞳が薄暗い玄関先で輝いていた。


「どうかなさったんですか」


 珊瑚はそう問いを置いて、オオタカを抱きかかえた。すると、『彼』は僅かに暴れて、珊瑚の腕の中から飛び降りる。そのまま翼を拡げて飛んだり跳ねたりを繰り返して、屋敷の奥へと進んでいった。


「ま、待ってください。九里香さんに怒られちゃいますよ」


 靴を脱ぎ捨てて、珊瑚は彼を追った。大量の本の隙間を縫うようにして歩く。気付けば、足下には二匹の猫も付いていた。一羽と二匹に導かれるままに、珊瑚は屋敷の台所へと辿り着いた。


「九里香さん?」


 ヒトの気配の無いそこで、珊瑚はその名を唱える。あの冷淡な表情をした青年は、冷えた台所に立ってはいなかった。いつもなら、彼はこの時間、この場所で、夕食を準備していた。だというのに、彼はいなかった。


 嫌な予感がする。とても、とても良くないことが、起きている気がする。


 珊瑚はそんな思考を抱えながら、深く息を吸った。落ち着けと、自らの脳に訴える。

 僅かに冷えた大脳が、状況の処理を始める。余剰を得た視覚が、台所の電灯へと向く。珊瑚は部屋の隅にあったスイッチを押した。一瞬の点滅を経て、空間に明るさが満ちる。

 そして、珊瑚は視界の中に一枚の紙切れを見た。


 台所の中央、テーブルの上には、一枚の書き置きがあった。


 ――――数日、実家に帰ります。


 サインペンで書かれたメモと、その近くで冷えたコロッケを、珊瑚はただ眺めるしかなかった。




第四章:孤独の神より〈了〉

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