両全の来訪者

両全の来訪者 プロローグ

 一人で食卓に座ることそのものには、抵抗も不安もなかった。珊瑚の孤独は日常であった。親しい友人がいようとも、可愛がってくれる祖父母がいようとも、その生活に彼ら彼女らが入り込むことは殆ど無かった。唯一家族と呼んでも良いだろう父親でさえ、彼女とは距離を取った。故に、九里香という成年が、毎日同じ時間、同じ表情で彼女の日々の中にあったという事実が、神饌で、確かに豊かなモノだった。しかしそれを実感できたのが、当の九里香本人を損なってからのことであったのは、珊瑚自身も予想していなかった。


 ――――父様の時は、こうは思わなかったのに。


 何故。と、頭を揺らしても、答えを得ることは出来なかった。足下でいつも通り餌をねだる二匹の猫を見て、珊瑚はなんとかその精神の揺れを抑え付けた。


 ――――冷静に。穏やかに。隙を見せてはならない。


 怪異というモノは、感性の怪物なのだから。


 父がそう言ったのは、珊瑚が齢七の頃だった。それが感情的な彼女への警句であったのは、珊瑚自身も理解していた。


 息を吸う。戻す。チューニング。九里香と出会う前の、ただにこやかなだけの、中身をがらんどうの、それに戻す。


 ようやく無音が脳を支配しきった頃、耳に叩きつけるような電子音が鳴り響いた。卓上で震えるスマホに目をやった。その画面に、珊瑚の求める文字列は無かった。


「はい、珊瑚です。如何されましたか、瀬川さん」


 電波の向こう、そこにいるだろう青年の名を唱える。焦っているらしい息が小さく安堵を含むそれに替わった。


「良かった。繋がった……九里香君に電話しても繋がらなくて……」

「……九里香さんは今、ご実家に戻られておりまして」


 実家。と、瀬川は反芻する。


「では、お仕事を頼むのは、難しいでしょうか。聞くところ、珊瑚さんもお仕事が立て続けてあったようですし」


 瀬川の言う仕事という言葉がなんなのか、理解は出来ていた。故に、珊瑚の口は反射で動いていた。


「出来ます。何があったんですか?」


 一種の強がりにも似ていた。語気を強める珊瑚に、瀬川は「えっ」と声を漏らした。


「だ、大丈夫ですか珊瑚さん……」

「大丈夫です。元々、九里香さんと結婚する前は、一人で行ってきたわけですから」


 そうだ。そも、そういうものなのだ。九里香という青年が来てからだ。一人では対処できないイレギュラーに遭遇し始めたのは。


「そ、そうですか……それでは、水族館に来て頂けますか、珊瑚さん」


 気圧された瀬川がそう言うと、珊瑚は穏やかな声色でただ「はい」とだけ笑った。




「それで、何があったのかお聞きしてもよろしいでしょうか、瀬川さん」


 水族館の裏口に入ってすぐ、珊瑚はそう呟いた。一瞬の躊躇いの後、瀬川は彼女に背を向けたまま焦りに近しい息を吐いた。


「榊刑事からは、何も聞いていらっしゃらないんですか」


 彼の返答に、珊瑚は「は」と小さく口を開いた。その様子が不思議であったらしい。瀬川は首を横に振って、僅かに眉を下げた。


「死体が出たんです。館内で、何度も身体を刺された死体が、複数」


 彼がそう言葉に出す頃には、二人は会議室の扉を潜っていた。そこへ足を踏み入れた時、一番に目が合ったのは、部屋の中央で目を丸くする榊刑事だった。


「既に榊刑事が捜査に加わってくださっていたのですが……何の進展も無いまま、三人のお客様が亡くなっておりまして」


 瀬川の言葉が萎れていくのを横に置きながら、珊瑚は僅かに榊刑事を睨んだ。視線を交わす中で、榊刑事はばつの悪そうに頭を掻くばかりだった。


「あの、それで」

「大丈夫です、瀬川さん。犯人の正体についてはおおよそ見当がついています。水族館の運営が止まっていないところを見ると、刺し傷の状況から人間の仕業ではないとの判断でしょう。明らかな怪異事件。だから榊さんがいらっしゃって、事件自体を表に出さないようにしていらっしゃる」


 そうでしょう?

 と、珊瑚は言葉を飲み込んで、榊刑事の前に立った。彼女の微笑みに嘲笑が含まれていると理解出来たのは、榊刑事だけだった。


「悪いね、瀬川さん。少しお嬢ちゃんと二人きりにしてくれないか。どうも俺にはお説教が必要らしい」


 彼がそう言うと、瀬川は「わかりました」とだけ呟いて、困った顔のまま会議室の扉を閉めた。数秒の沈黙が落ちる。溜息と共に口を開いたのは珊瑚だった。


「何故私を呼ばなかったのですか、榊刑事。この街で怪異事件があれば、まず私に連絡するのが先でしょう。何故三人も亡くなるまで私を呼ばなかったんです」


 珊瑚の言葉を浴びる榊刑事は、肩をすくめて見せた。僅かに息を吐いた後、彼は咳払いに続いて舌を回した。


「木葉家のお姫様と、多都川神社の事件について、韮井から聞いてたんだ。お嬢ちゃんの旦那が実家に帰ってるってこともな」

「韮井先生とお知り合いだったのですか」

「まあな。アイツが学生で俺が新米だった頃に一回、怪異事件でかち合ったんだよ。相変わらずよくわからん野郎だが……あぁ、気にしないでくれ。本題に戻ろう」


 榊刑事はそう言って、また頭に手を置いた。彼は言葉を選ぶようにして、人差し指でこめかみを数度叩いた。


「お嬢ちゃんの怪異祓いは、お嬢ちゃんだけでも出来る。だから九里香の坊主がいなくてもどうにかなる。そりゃ知ってるさ、お嬢ちゃんとは坊主よりも長い付き合いだ。だからこそな、お嬢ちゃんの様子がおかしいことだってわかるんだぜ」


 彼の言葉の一つ一つは、既に一人の警察官としてのそれではなかった。珊瑚からすれば、親しい友人か、親戚のそれに近い。心配をされているのだとは、珊瑚にも理解は出来た。彼女はクマの出来た目を擦って、眉間に皺を寄せた。


「それでも、です。師である父がこの街に帰らない今、私がこの街の怪異を抑える必要があります。お願いですから、いつも通りに接してください。努力しますから、私も」


 辿々しい言葉を連ねていく。この疲労が異常であることは、珊瑚自身が一番よくわかっていた。それでも、彼女の中に植え付けられた『責任感』は、彼女に事件を放っておくという自由を与えなかった。


「仕方が無い」


 榊刑事がそう呟いたのは、珊瑚から言葉が消えて数秒後のことだった。


「今回は、保護者面くらいはさせてもらうからな。何、九里香の坊主が帰ってくるまでの話だ。鬱陶しくても我慢してくれよ」


 そう言って、彼は鞄の中にしまい込んでいた紙束を机に広げた。スマホの画面をタップすると、会議室の扉が開いた。その隙間には、困ったように眉を下げる瀬川の顔があった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る