両全の来訪者④

 昼下がりの大水槽で、一人の男が溜息を吐いた。清涼な空気を舐めるようにして、彼は息を吸う。薄い唇から漏れ出る吐息の甘味に、周囲はチラチラと視線を送る。まち針の先が大量に触れるようなその感覚から逃れるために、男――――九里香は顔を伏せて立ち上がった。

 息を止めて、足早にトイレへ駆け込む。鏡の前で、再び空気を舐めた。水分の多いそれは、煙草とも違う苦味を伴っていた。


「何がどうなってる……」


 ぽつりと落ちた九里香の言葉は、彼の困惑を纏っていた。


 ――――九里香がこの「街」に戻ってきたのは、ほんの二時間ほど前のことである。

 さして変化の無い町並みの中を、自宅――――珊瑚の待つ家へ向かって歩いた。ただ、それだけだった。それだけだった筈だ。

 異常を感じたのは、駅を出てすぐのことだった。商店街の並び、通学路であるそこを覚えのある通りに歩いていた。

 歩く。歩く。歩く。

 ただそれだけで、視線が九里香の方へ向いた。

 熱を帯びた視線。小さなそれらが、足の先から毛先の一本までしゃぶりつくすかのように蠢く。皆、彼に触れたり、声をかけるわけではない。


 ――――見られている。ただ、俺を見ている。


 視認。観測。監視。九里香の脳内で、言葉が次々と継ぎ足されていく。

 家に着く頃には、吐き気が滲み出ていた。玄関の鍵に手をかける。戸を開けるよりも前に膝をついた。打ちっぱなしのコンクリートの冷たさで、僅かに胸の詰まりが取れた。


「珊瑚」


 小さく開けた戸の隙間から、九里香は声を上げた。だが、返事はなかった。彼は玄関の戸枠を掴んで、足に力を入れた。


「珊瑚、おい」


 くるくると、脳を回す。廊下にかけられたカレンダーを見る。今日が日曜日であり、珊瑚が休日であることは明白だった。


「仕事か?」


 ふと思い至った結論は、正解だったのだろう。玄関には彼女のスニーカーが無かった。その事実を飲み込んで、九里香はまた一つ、胸のつかえを落とす。一種の安堵のようなもので、脳の隙間が満ちた。

 小さな溜息で熱を吐く。僅かに冷静さを取り戻した彼の視線は、足下へ向いた。


 にゃーん。


 甲高い鳴き声で、九里香を見上げる二匹の猫。彼らはガラス玉のようなその瞳に、無機質な九里香の顔を映していた。


「飼い主が何処にいるか、聞いてないか、お前ら」


 三毛柄の「楓」の頬に指先を埋める。ハチワレ柄の「牡丹」は、そのふてぶてしい身体を九里香の足に纏わせた。

 返事を期待しているわけではなかった。花嫁でもないこの二匹に問うても、答えがわかる筈がない。それは、頭では理解していた。九里香は、廊下の板間にぎしりと音を立てて体重を置いた。


「クリカ」


 ふと、声がした。背後からだった。振り向き際、振り袖の女と喪服の男がいた。思わず、もう一度、九里香は視線を戻した。そこでは、やはり、二匹の猫が静かに九里香を見ていた。息を吸った。煮焦がす思考を冷ます。半分無意識に、彼は首を振って、廊下を一歩、歩いた。


「クリカ」


 また、声がした。今度こそ、それが現実だと理解した。その声に九里香は覚えが無かった。覚えが無いというのに、懐かしさだけは存在していた。


「サンゴを探しているね」


 玄関の外に、一人の男が立っていた。金色の瞳のそれは、九里香だけを見ていた。鋭い眼光に、覚えがあった。それは、鳥類のそれと同じだった。否、そんなことよりも、九里香には、より鮮明な記憶があった。


「俺の顔」


 ――――何故。

 声を、疑問を、上げようとした。九里香がそれを止めたのは、視線の先で、その自分の顔が、疲れたように笑ったからだった。自分は決して浮かべることの無い、穏やかで、親心に近しい何かを伴った顔。

 もしも自分に、実の父か母が居れば、こんな顔をしているのか。

 九里香の脳内に、不純物が浮く。それを振り切るようにして、九里香は再び首を振った。その揺れる視界の中で、確かにあのオオタカの姿を見た。


「サンゴもクリカを探しているんだよ」


 濁った声。「は」と、九里香は返事を置いた。だが、目の前のオオタカは何も言わない。一転して、彼は眉間に皺を寄せた。その視線の先に、九里香はいなかった。九里香は、オオタカの視線を辿る。自らの背後、猫がいるそこに目を置いた。


「だからみんなクリカを見ている」


 にゃあ。と、猫は鳴いた。その隙間に、言葉があった。可愛らしい赤い口を開いて、二匹の猫が、鳴いていた。


「見ているよ」

「見ているんだ」

「サンゴがそうしてほしいと思っているから」

「サンゴの望みだ私たちはそうしよう」

「そうしようそうしよう」


 にゃあにゃあにゃあ。にゃあにゃあ。


 二匹の猫が、掛け合う。丸い瞳が、九里香を嘲笑うようにしてころころ回る。


「そうしようそうしようそうしようそうしようそうしようそうしようそうしよう」

「そうしようそうしようそうしようそうしようそうしようそうしようそうしよう」


 にゃあにゃあ。


 色とりどりの振り袖を広げた女が、喪服を着て正座した男が、笑う。珊瑚と、自らと同じ顔をしたその二匹の「猫」を、九里香は苦虫を潰した顔で睨んだ。


「そうしようそうしようそうしようそうしようそうしようそうしようそうしよう」

「そうしようそうしようそうしようそうしようそうしようそうしようそうしよう」


 ケラケラケラケラ。きゃらきゃらきゃらきゃら。


 乾いた笑いで喉を鳴らす猫たちを見下ろして、九里香は下唇を噛んだ。彼に、その言葉を理解する時間は無かった。


「珊瑚は何処だ」


 開口一番、九里香から出た言葉は、ただそれだけだった。


 何故、猫が喋るのか。何故この猫たちはおそらく怪異――――神の分身でありながら、白無垢でも紋付き袴でもないのか。何故、自分と珊瑚の顔が模倣されているのか。この猫たちは、珊瑚の何を知っているのか。


 ――――珊瑚が望んだ、とはなんだ。


 疑問はあった。だが、それを問いただす時間が無いことは、九里香も理解していた。彼の中で何よりも先に浮かんだのは、ただ一人で怪異の前に立つ珊瑚だった。


 九里香の問いに、猫たちは眉を顰めた。二匹は一つ目を合わせると、渋々といった様子で長い舌を伸ばした。


「サンゴは新しい私たちがいっぱいいるところに行った」


 ハチワレ柄の猫が、欠伸を一つかいた。


「私たちを水に閉じ込めるところ」


 三毛猫が、「にゃあ」と鳴いた。


 二匹の猫は、丸い瞳と三角形の耳を九里香に向けていた。獣の姿で、彼らは人の言葉を鳴いた。


「新しい私たちがまた産まれたからね」


 顔を洗う三毛猫は、嬉しそうにゴロゴロと喉を鳴らす。彼女は目を細めて、再び九里香へ長い舌先を延ばした。その隣で、ハチワレ柄が上下する。身体を伸ばす白黒猫は、つまらなさそうに廊下の板に腹の皮を置いた。


 にゃあにゃあ。にゃあにゃあ。


 重なる二匹の声は、子供のようだった。悪戯の過ぎる子供が、無邪気さを盾にするが如く、二匹は揃って九里香を見上げる。


「また罰してやらないと。サンゴがそうして欲しいって、言ったからね」


 それを、どちらが言ったかはわからなかった。だが、その言葉を耳にしてすぐ、九里香は玄関の外へ足を向けていた。目を丸くするオオタカを押しのけて、彼は着の身着のまま、砂利道を走ろうとしていた。


「今度は邪魔するなよ?」


 猫が、鳴いた。その言葉に、水族館へ向かう九里香が、気付くことは無かった。

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現代異類「破婚」譚 棺之夜幟 @yotaka_storys

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