両全の来訪者③

 落ち着いたジャズの響きを耳に置いて、珊瑚はフッと小さく息を吐いた。水族館からは少し離れた路地。その中にある小さな喫茶店は、以前韮井と共に入った店だった。愛想の無いあの若店主は、珊瑚を見るとすぐに奥のテーブル席へと案内した。珊瑚が席に腰を落とせば、無言のまま珈琲が置かれた。


「あ、あの、私、珈琲は頼んでいません」


 珊瑚がそう断ると、店主は「あぁ」と僅かに目線を落とした。


「そういや紅茶派だったな、アンタ。すぐに持ってくる。それはサービスだ。残しても良い。気にするな、金は取らない」

「サービス?」

「そう、サービス」


 いまいち噛み合わない会話を置いて、店主の男は厨房へと戻っていった。珊瑚はまた小さく息を吐いた。どうにもリズムが整わない。水の代わりに置かれた熱い珈琲を、珊瑚は僅かに舐める。慣れない苦味が口の先を濁す。乾いた喉のまま、彼女はまた溜息を吐いた。

 珈琲と煙草の香りに包まれて、珊瑚は紙面に視線を落とす。榊刑事が言っていた通り、瀬川には文書作成の才能があるらしい。表計算ソフトで作られたらしいそのリストは、目の通りの良いものだった。


「……コハクオナジマイマイ……これですね」


 同じ紙上に並べられた十数種の名前から、その一つを取り出す。珊瑚の脳内にあったその種の名は、確かに恋の矢を持つ名だった。

 名が分かればどうということはない。すぐにでも祓いに移れる。昼間に子どもを攫うというのなら、昼間の水族館で待ち伏せをすれば良い。

 それにしても。と、珊瑚はもう一度紙面に目を向けた。そこに書かれた名は、全て雌雄同体のナメクジかカタツムリばかりだった。それそのものについては、何も不思議なことは無い。珊瑚が瀬川にリストにしろと頼んだのだから、間違ってはいない。ただ、珊瑚の中で引っかかったのは、ある一点だった。


「何でそんなにカタツムリばっかりいるんだ?」


 ふと、珊瑚の頭上から、男の声があった。急ぎ、その声の先を見る。そこで無表情に佇んでいたのは、あの愛想の無い店主だった。


「な、な……の、覗き見はマナー違反ですよ。しかも、客の持ち物を……」


 珊瑚がそう言うと、店主は「かもな」と肩をすくめた。彼は流れるようにしてティーポットとカップをテーブルの上に置いた。態度の一つも変えず、彼は徐ろに珊瑚の前の席へ腰を落とした。


「な、あの、え?」


 混乱ばかりの珊瑚を見て、店主はハァと大きく溜息を吐いた。彼は珊瑚の視線の先、テーブルの上を指先で小さく叩くと、口を開いた。


「店は閉めた。アンタ、祓い屋だろう。一般客が来ると面倒になるんじゃないか」

「祓い屋なのは事実ですが……」


 珊瑚が声を荒げようとしたそのとき、カランカランと音が鳴った。その音は、店主が閉めたと言った、店の入り口からだった。


「常磐! 仕事だ! いるか!」


 その声には聞き覚えがあった。水族館でも聞いた、穏やかだが圧のある声。珊瑚は声の主の目を見た。視線を交わした先、丸く目を見開いていたのは榊刑事だった。


「お嬢ちゃん? 何でここに」

「榊さんこそ、何故この店に……」


 互いの眉間に皺が寄るのを見て、困惑を募らせる。そんな二人の間に漂う濁った空気を吸い込んで、店主の男は溜息を吐いた。


「とりあえず、いつもの珈琲くらいは頼んでくれませんかね、榊さん。ここは喫茶店だ」


 店主の男はその言葉と共に、また厨房へと向かった。「わかった」とだけ呟く榊刑事は、困ったように眉を下げたまま、珊瑚の前に腰を落とした。榊刑事と珊瑚の間には、再び沈黙が流れた。その無音が終わったのは、店主の男がなみなみと珈琲の入ったサーバーをテーブルの上に置いた時だった。


「……一杯分しか金は払わないぞ」

「良いですよ。残りは俺の分です」


 あのな。と置いて、榊刑事は慣れた手つきで空のカップに珈琲を落としていく。目の前にいる無愛想な若店主と、いつもであれば粗暴ながらも穏やかな刑事である二人の関係が、珊瑚には見えなかった。


「あの……お二人は一体どんなご関係なのでしょうか」


 珊瑚がそう問うと、慌てたように榊刑事は「えっとだな」と言葉を零した。それを拾い上げるようにして口を開いたのは、あの若店主だった。


「何も難しい話じゃない。怪異専門の刑事と、そいつに首輪かけられた祓い屋だ。舌触りが悪いなら協力関係とでも言っておいた方が良いか?」


 なあ。と、店主の男は目線を榊刑事に落とした。深い溜息を吐いて、榊刑事は珊瑚へ視線を向けた。


「こいつは……『これ』は常磐。ワケあって俺はこいつの監視役もやっている。だが何処でもこの界隈は人手不足でな。花嫁以外の事件なんかには前から付き合わせてたんだ。まあまあ腕も勘も良いものを持ってるんで………今回の事件で警備に呼んだ祓い屋ってのは、こいつだよ」


 初めて見る榊刑事の粗暴な態度に、珊瑚は目を見開いた。彼はあの穏やかな、けれども僅かばかり無鉄砲さを兼ね備えた、あの榊という警察官であったか。そんな思考を一度落とす。そうして彼女ははただ「そうですか」とだけ呟いて、彼女は紅茶を啜った。渋さに目が覚める。珊瑚はフッと口先で息を吐いて、その唇を開いた。


「それでは丁度良かったです。先程、瀬川さんから頂いた資料を読みまして、花嫁の正体がわかりました。『祓い』を進めましょう」


 珊瑚がそう言うと、「は」と榊刑事が声を上げた。


「もう? 随分と早いじゃないか」

「おおよその見当は付いていましたので。加えて、瀬川さんにご用意頂いたリストが役に立ちました。水族館内で飼育されている陸生貝類のうち、恋矢を持つ種は一種……コハクオナジマイマイだけです」


 ふむ。と、榊刑事は鼻を鳴らす。珊瑚の丸い瞳を見て、彼は小さく首を傾げて見せた。


「……俺にはそのカタツムリについて知識は無いが、本当にその名前で良いんだよな」


 重複する問いに、珊瑚は眉間に皺を寄せた。

 何故今になって、そんな疑いを持つのか。

 一瞬の苛立ちを、珊瑚は息と共に飲み込んだ。妙だ、とは思った。彼女が知る限り、榊刑事がここまで不安を露わにするのは初めてのことだった。常磐がいるせいか、とも考えたが、あの粗暴ながらも信頼があるだろう二人の仲が、珊瑚への不安に転換される意味は見いだすことが出来なかった。


「状況からして、コハクオナジマイマイで間違っているとは思えません」


 捲し立てるようにして、珊瑚はそう唱えた。靄の晴れない頭の中を抑え付ける。無駄な情報が数多、彼女の中に乱立していく。それらを吐き捨てるために、珊瑚は『説得』を続けた。


「昼間に思春期前の子どもを攫っているというのが花嫁としてイレギュラーではありますが、それ以外は特に問題ありません。水族館以外で被害が出ていないという時点で、野生動物でないことは明らかです。早速ですが、すぐにでも水族館を巡回しましょう。あの手の花嫁は何度でも殺します。早く止めないと」


 珊瑚がそう言うと、榊刑事は頭を掻き毟った。煮え切らない態度に、珊瑚は「だから」と声を荒げた。


「何を渋っているのですか、榊さん」


 問いを吐く。丸い瞳に、榊刑事はついぞ、折れた意識で溜息を吐いた。


「……お嬢ちゃん、その勢いだと、今回の祓いは一人でやるつもりだろ」

「それの何処に問題があるのですか。私が正体を暴けば、それで終わりです。九里香さんはいつも囮として同行して頂いていました。今回の花嫁は番う相手の条件として子どもを求めています。今回の事件において九里香さんは不要な筈です。九里香さんは中性的な見た目ですが、身体はしっかり成人男性のそれですし……」


 捲し立てる珊瑚と、僅かに狼狽えるような榊刑事の間で、ふと「あのさあ」と声を上げる者がいた。無表情の下地に、僅かな不快感を示す常磐は、ギリギリと僅かに歯を摺り鳴らすと、獣のような瞳で珊瑚へ視線を向けた。


「あのさあ、珊瑚さんだっけ? 珊瑚さんさあ、誰もその『九里香』っていう奴の名前は出してないだろ。何かあんの、そいつ」


 首を傾げる常磐に、苛立ちは無かった。ただ、彼の威圧にも近しい声は、珊瑚から声を奪った。


「前に韮井さんと一緒に珈琲啜ってた奴が九里香って呼ばれてたっけ、珊瑚さんも韮井さんと一緒に来てたし、こっち界隈の人なのはわかるけど……何、彼氏?」


 常磐がそう問うと、珊瑚はハッと息を吸って、喉を鳴らした。


「違います!」


 その反応に、常磐と榊刑事は目を丸くした。榊刑事が「お嬢ちゃん」と諫めようとすると、常磐は被せるようにまた溜息を吐いた。


「じゃあ、その九里香って奴の代わりっていうか、珊瑚さんの補助役は、俺でも良いってことだな」


 そういうことじゃないの。と、常磐は榊刑事を見た。


「話を聞いてる限り、榊さんが懸念してるのは、珊瑚ちゃんを手伝う奴がいないってところだろ。で、つい最近まで九里香って奴がそれをやってた。その九里香が今はいない。じゃあ、俺がそのポジションにいれば問題無いんじゃない? 俺、意外とやれる方だってのは、榊さんも知ってるでしょ」


 そう言って、常磐は「どうよ」と僅かに口角を上げた。再び口を開こうとする榊刑事を抑え付けるようにして、珊瑚は紅潮した頬を湛えて口を開いた。


「良いと思います。元々、私が花嫁の正体を調べている間、常盤さんには水族館の巡回をお願いする予定だったわけですし。何も問題は無いと思います」


 ねえ。と、珊瑚と常磐は、共に榊刑事を見た。そんな二人に、彼は数秒考えるフリをして、また髪を掻き毟った。

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