両全の来訪者②
スマホを耳に当てる。それはこの数日、珊瑚が何度も行ってきた行動だった。
『おかけになった電話は現在、電源が入っていないか、電波の届かない場所にあるため……』
幾度となく聞いたその文言を、彼女は溜息と共に切り落とした。目線を置いた画面には、九里香の名と、通話切断の単語が浮いていた。
否、浮くように漂うのは珊瑚の意識の方だった。水族館の廊下をうろつきながら、時間を潰す。榊刑事には「すぐに帰れ」と言われたモノの、どうしてもその通りにすることは出来なかった。
どうせ、瀬川さんのリストを待たねばならないし。
理由を付けて、廊下を右往左往する。狭くは無い水族館のオフィス廊下は、薄く敷かれたカーペットのおかげで足音が気にならない。忙しなく動く彼女を止める声もしなかった。
いつもであれば九里香が声をかけてくる。一人で何処か歩いて行こうものなら、文句を垂れて後ろをついて来た。
「珊瑚さん?」
ふと、背後から声が聞こえた。反射的に振り向いた。振り向く途中で、それが九里香では無いことを理解していた。声に覚えは薄かったが、その顔に確かな記憶があった。
「三谷さんじゃないですか。何故ここに?」
珊瑚が名を呼ぶと、三谷はフッと小さく笑った。穏やかな声色で「仕事に」と落とす。その言葉に珊瑚が首を傾げれば、彼は鼻を鳴らしてまた口を開いた。
「仕事の打ち合わせに。以前から観葉植物とか、水草とか……展示用の植物を卸してるんです。ついでにデザインと設置、点検も。この辺りの園芸店で水生植物を取り扱えるのは私くらいしかいないので」
「そうだったのですね。ということは、展示されている植物は全て三谷さんが手がけていたんですか。とても美しい展示です。楽しませて頂いています」
背を伸ばして、珊瑚は鼻息荒くそう呟いた。好奇心旺盛な中学生男子にも似た彼女の態度に、三谷は再びフッと口元を緩めた。
「珊瑚さんは? 今日は九里香君とは一緒じゃないんですね」
一瞬、空気が凍った。そう感じたのは珊瑚だけかもしれない。緩んだままの頬を湛える三谷に、悪意も罪悪感も無い。そんな彼に嘘を吐くことは憚られた。しかし、事実をそのまま話すこともまた、珊瑚の口には難しかった。
「事件が起きたと警察の方からお呼び出しされまして」
ただその事実だけを、珊瑚はその場に置いた。言外に、九里香のことは聞いてくれるなと、口を閉じた。
「あぁ……あの、死体の山みたいなことが、ここでも起きてるってことですか? それは、何というか……」
三谷の眉間に皺が寄る。穏やかだった表情が一転して、険しいそれに転じた。
「驚かせてしまったようでしたら申し訳ございません。ですが、今回も三谷さんには危害が及ぶことは無いと思いますので、安心してください」
精神が、揺れる。言い繕わなければならないという強迫観念が、珊瑚の口を動かす。潤滑油を得たかのように、彼女の舌は回る。それに驚きでもしたか、三谷は口ごもりつつも「いえ」と置いた。
「いや、驚いたというか、恐ろしいというか……」
「恐ろしいというのはわかります。この街の誰もが生贄になる可能性を持っているというのは……誰でも恐ろしいと思うものです」
「というよりも、不思議ですね」
三谷のその言葉に、珊瑚の口が止まる。
「不思議?」
再び首を傾げる。何を言っているのか。と、珊瑚は無言で目を見開いた。丸い彼女の瞳には、困惑にも似た表情を浮かべる三谷がいた。
「普通、ヒトが死んだとか、いなくなったとか、そういうことが頻発したら、もっと焦るでしょう。ましてや水族館です。安全であることは大前提。そこでヒトがいなくなるとか、死ぬだとかという事件が起きるなら、こんなに穏やかでいられる筈がない」
眉間の皺が深まる。穏やかさを失う三谷を見たのは、珊瑚にとって初めての経験だった。怒りとも違う、不安とも異なった表情。それは思考を回している時の九里香や韮井にも似ていた。九里香と同じ中性的な容貌をしているからか、その表情の鋭さは、一種の畏怖を感じ取れる程だった。
「以前珊瑚さんにご説明頂いたことを踏まえると、この街には生贄を大量に欲する神がいるということですが」
彼の言葉に、珊瑚は自然と「はい」と相槌を打っていた。言葉を交わしているが、対話ではなかった。三谷の認識している事項を、珊瑚が確認する。どちらかと言えば、義務的な指向が強かった。
「そもそも、そんな神様がいるのだとして、何故この街にはこんなにヒトが住んでいるんでしょう」
「何故ヒトが住んでいるのか、ですか。それは、神がいるとかいないとか関係があるのでしょうか。もっと別の、政治だとか、そういう根本的な仕組みの部分が関係すると思うのですが」
「勿論、それも大きな事だと思います。ですが、神だとかそういう怪奇的な類いを知らない人間からすれば、ヒトが行方不明になる街……それは、高い犯罪率や治安の悪化が著しいという見方になります。ましてやこの街には巨大な大学があって、他地域から越してきた学生も多いんです。治安の悪い地域に、自分の娘息子を住まわせたい親はいません。しっかりと行方不明者が多いという事実を理解しているなら、進学を避けるはずです」
だと言うのに。そう置いて、三谷は腰を壁に預けた。溜息交じりに腕を組む姿は、やはりどこか九里香の動きと似ていた。
「それでもこの街にある学校の偏差値は軒並み高いですし、志望者も多く定員割れを起こしたという話は聞きません。それだけこの地域に来ても良い……或いは『住みたい』と考えるヒトが多くいるということです」
そう唱えた口を、三谷は手で覆った。指先で唇を拭う。珊瑚はその動きに覚えがあった。口寂しい、煙草を数時間吸っていない時の九里香の癖。その動きと、そっくり同じだった。
「つまりですね、多分ですが……貴女の言うこの街の神という存在は、ヒトを集める能力もあるのではないか、と考えられるんです。いや、それそのものが能力であると言うよりも、もっと素晴らしい御利益があるのではないでしょうか」
黙り込む珊瑚を置いて、三谷は続ける。視点が違う。珊瑚はそう思った。花嫁や花婿を退治する。それだけを考えてきた珊瑚にとって、根本的な『神』に対する言及を耳にするのは、初めてのことだった。
「貴女が言う神は……多都川媛は、生贄を欲する以上に、何かこの街の人々に利益を与えている。そうでなければ、そもそも、ヒトが集まるだとかそういう以前に、神と信仰との関係は成り立たない筈です。利益が無ければ神が生まれる筈がないんですよ」
「り、利益ですか……」
ようやく出た珊瑚の応答を聞いて、三谷はふと口を止めた。眉間の皺がほぐれる。穏やかな表情に戻った彼は、言葉を選ぶようにして「ふむ」と鼻を鳴らした。そうして整えた口元で、三谷は再び唱える。
「もたらされる利益があるから畏れ祀る。神とヒトとはそういう関係です。水という資源生活に欠かせない資源があるからかつてヒトは川に集まった。反して川は氾濫し命を奪うこともある。けれどその側面を鑑みても水という利益は代えがたいもの。だからヒトは川を崇める。そうやって川はいずれ神になる」
神とはそういうものです。と、三谷は再び置いた。妙に熱が籠もっている。反して、珊瑚の目はどうにも冷めていた。三谷の言葉に、違和感があったからかもしれない。その違和感の出所がわからないまま、三谷の言葉は過ぎていった。
「ですが、この街の神は生贄を欲するばかりで利益については何も伝わっていません。守り神と言いますが、何を守っているのか、貴女ですら知らないようです」
穏やかな微笑みを置いて、三谷はそう呟いた。その目は、何処か粘度を持っていた。纏わり付くような視線。一瞬のそれに、珊瑚は背を撫でられるようだった。
「……三谷さんは、植物について学んでいたと聞きますが、こういった史学なども嗜んでいらっしゃったのですか?」
珊瑚がそう問うと、三谷は目尻を落として、暖かに唱えた。
「趣味で少々。それに、以前、珊瑚さんから説明を受けてから、また少し勉強しました」
三谷の言葉に、珊瑚は「そうですか」としか返すことが出来なかった。
「珊瑚さん! リスト出来ました!」
僅かな沈黙を取り消すようにして、聞き覚えのある声が廊下に響いた。瀬川の気力に満ちた若々しい声が、珊瑚の背中を叩いた。
「あ、あぁ……瀬川さん、ありがとうございます。これで正体を絞り込めます」
一瞬の呼吸を置いて、珊瑚は瀬川から二枚の紙を受け取る。鼓動が落ち着いていくのが、手に取るようにわかった。
「……些か、話しすぎましたね。それじゃ、私はこれで」
珊瑚と瀬川を見比べるようにして、三谷はそう笑った。躊躇無く背を向けた彼に、瀬川は「お疲れ様でした」とだけ呟いた。
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