白無垢に抱かれる者⑦

 呼吸を止める。それに意味が無いことくらいは、九里香にもわかっていた。だがそれでも、反射的に、自分から発せられる音の全てを止めなくてはならないと認識していた。心臓の音がうるさい。

 瞬きをする度に、その白いシルエットは大きく膨らんでいった。否、物理的に膨らんでいるのではない。少しずつ、だが確実に、女は九里香たちとの距離を狭めている。


 失敗した。二回も。


 もう、無理だ。九里香の頭にそんな言葉が浮かんだ。一度失敗した時の、あの珊瑚の姿を思い出せば、後が無いことはわかっていた。彼女の腐っていく傷を撫でた指先。その弾力を失った柔らかさが、脳内で再生された。

 今、自分が抱えている少女は、本当に息をしているのか。本当は痛みに呻くことも出来ないほど、身体が腐っているのではないか。

 それを確かめるられる程、九里香の鼻は機能していなかった。濃く甘い花の香りで、嗅覚は麻痺している。吐き気を催すほどのそれが、九里香から声をも奪っていた。


 立つ。立って、立て。立て。動け。走れ。


 自らの足を叩いて、九里香は頭で唱えた。しかし、足がすくんで動かない。いや、そうではない。足が重い。多分、痛みもある。疲労と火傷が重なっている。九里香は己の状況をそう推察した。そうしたところで何も状況を打開することは出来ない。それはわかっている。けれど、逃亡を選択した時点で、冷淡に興奮する九里香の脳は次々に周囲の情報をかき集めていた。


 背後数メートル先に階段がある。そこまで行けば。いや、だが身体が限界で動かない。あの女の狙いは自分。それなら、珊瑚だけでも。


 頭だけがよく動いた。九里香は肩に頭を置く珊瑚へ目をやった。「なあ」と声を震わせる。出来るだけ穏やかであるようにと、精一杯表情を作った。

 珊瑚と、目が合った。いつの間にかその丸い目を見開いていた彼女は、視線が合った瞬間、パッと歯を見せて笑った。


「大丈夫ですよ、九里香さん」


 そう言って、珊瑚は九里香の肩へ手を置いた。足に力の入らない九里香と反して、彼女はしっかりとその細い両足で立ち上がっていた。


「私は貴女の名を知っている」


 そう言葉にした先には、あの白無垢の女がいた。女は白い顔にただ微笑みを湛えて、九里香たちの前に佇んでいた。手を伸ばすわけでもなく、声を発するわけでもない。ただ二人を穏やかに見つめていた。


「けれど、貴女を暴くことはしません。九里香さんも、もう大丈夫。貴女も心配しなくて良いんですよ」


 珊瑚はそう言って、女と目を合わせた。否、合っていたかはわからない。けれど珊瑚と白無垢の女には確かに意思が通じ合っていた。女は一つ頭を下げると、口角を上げた。そしてもう一度、深く頭を下げる。頭を上げる一瞬、角隠しの中の黒い目が見えた。眼球と呼ぶには黒く、何処に焦点があるのかもわからないそれは、けれど確かに九里香を見ていた。


「彼女は……いつか『蝶』となる彼女は、貴方に恩返しがしたかっただけなのですよ。だから、彼女を暴く必要はありません。彼女は自ら権利を放棄しています。そのうち人知れず元の姿に戻り、一つの生命として朽ちるでしょう」


 白い背を見ながら、珊瑚は言う。彼女の言葉で、九里香はその白無垢の名を頭に浮かべた。ハナミズキの香る女――――『アゲハモドキ』は、静かに暗闇の中にその白さを溶かしていった。


「腹脚と尾脚……所謂、芋虫という形態において、胸から延びる三対の足の他に、腹の部分にも足があるんです。蝶や蛾の仲間は多くが四対の腹脚と一対の尾脚を持ちます。ですが蜂の仲間であるハバチ類はこの腹脚が多いんです。白無垢の裾と、そこから延びる腕の数が違っていたので、おそらく似たお二方が、同時に九里香さんを追いかけていたのだとは、予測していました」


 そう言って、珊瑚は九里香の前へ手を伸ばす。立てと言われているのだと気付いて、九里香はその手を取った。動かなかった足が動く。二人は並んで廊下を歩いた。懐中電灯を揺らして、深夜の大学内を歩く。正門付近まで行けば、九里香の強ばっていた口元も実に滑らかに動いた。


「クルミマルハバチの方は暴いて、もう一つの方は自分から引いていったってことは……これで解決ってことか」


 願望を織り交ぜた口で、九里香は乾燥した笑みを浮かべた。気分が高揚していることは明らかだった。

 そんな彼に「水を差すようですが」と、珊瑚が言葉を吐いた。


「やっぱり結婚しましょう、九里香さん」


 彼女は画面の割れたスマホを片手に、そう呟いた。画面から辛うじて読み取れたのは、瀬田教授という、メッセージの送信先だけだった。


「何でだよ。今日中にあの女をどうにか出来れば、結婚しなくても良いって言ったのはお前だろ」


 九里香が声を荒げても、珊瑚の微笑みが絶えることは無かった。


「彼女達は昆虫。しかも幼虫です。『求愛給餌』などしません」


 その一言を置いた時、彼女は静かに表情を落とした。虚無という文字を浮かべたような珊瑚の顔を見て、九里香は一瞬息を止めた。彼女に何か言い返すことなど、許されてはいなかった。


「つまり、須藤さんを殺したのは彼女達ではありません」

「じゃあ、須藤を殺した奴はまだ他にいるのか?」

「そうなります。貴方を狙う怪異は他にもいるということです。少なくとももう一種類。いえ、九里香さん自身の性質を考えれば、何種類の怪異が貴方を狙っているのかわかりません」


 淡々と、ただ冷静に、珊瑚は言う。そこには感情が無かった。どちらかと言えば、事務手続きを行う時のそれと似ていた。


「九里香さんは気になりませんか」


 何を。と、九里香が訪ねると、珊瑚は僅かに口ごもった。何度か頭を揺らして、語彙を探しているようだった。


「何故この街では、生物と呼ばれるもの全てに人間と婚姻を結ぶ権利が与えられるのか」


 数秒の後、ようやく発したのはそんな言葉だった。それを皮切りに、珊瑚は続けた。


「この街そのものが、『異類婚姻譚』という怪異現象を生み出している」


 単発的な表現をぽろぽろと口端から零していく。彼女はふわふわと何度か考え込んで、また口を開いた。

「より正確に言えば、この街のある『神』が原因です」


 神。その単語を聞くのは九里香も初めてでは無い。確かに珊瑚は昼間も同じようなことを言っていた。

「神ってのは、どういうことだ」


 九里香がそう訪ねると、珊瑚は眉を下げて彼を見上げた。言葉が難しい。言外にそう言っているようだった。


「……その『神』はこの街の生物に怪異として――――自らの分身的存在の一つとしての姿を与え、人間と結婚させるんです。そうすることで、『彼女』は『神に身を捧げた人間』という『生け贄』を集めている」


 精一杯言葉を選んだのだろう。だが、彼女の言う全てを理解するには、九里香には経験が足りなかった。訝しげな彼を見て、珊瑚はまた口を閉じた。再び口を開いた時、彼女は確かに溜息を吐いていた。


「かつてこの街がまだ名前も無い集落だった頃、彼女は……いえ、その頃はまだ性別すら存在しなかったかもしれません。が、その神は、何か事がある度に、生け贄を捧げられていたのです」


 まるで物語を語るかのようにして、珊瑚は続けた。


「故に、彼女には常に生け贄が捧げられる……神へ身を捧ぐ人間がいることが、当たり前になってしまった」


 そう言って、彼女はスマホのライトを九里香に向けた。否、その光の先には、大学の掲示板があった。

 九里香の背後に貼られていたいくつものコピー用紙。錆びた鉄枠いっぱいに納められたその全てに、『探しています』という文言があった。それぞれの下で笑顔を作る顔の一部には、覚えがあった。


 それは、入学式で声をかけてきた女の顔。

 それは、就職が決まったと喜びを露わにしていた同期の顔。

 それは、自らを先輩と言って親しみを向けてきた後輩の顔。


 記憶を辿る。九里香が過ごした大学三年間と、約一ヶ月。その間に何人が消えたか。いくつの情報提供をしたか。


「だからこの街では、若者がいなくなるんです。皆さん、結婚適齢期ですからね」


 酷く冷淡に、珊瑚はそう呟いた。そこに僅かな嘲笑を含んでいたのは、九里香でもわかった。


「皆さん、生け贄として彼女の元へ隠されてしまったのでしょう。あるいは須藤さんのように繁殖行動の一つに巻き込まれ、死んでいる」


 須藤千晶の死。忘れかけていた現実を、珊瑚が唱える。九里香が唾を飲み込んだ頃、珊瑚は再び彼と視線を合わせた。


「九里香さん、私は貴方を、あんな醜悪な女の生け贄になど、絶対にしたくありません」


 そう言って、彼女は笑った。「何故」と声を上げるよりも前に、珊瑚は口を開いた。


「だから私と、結婚していただけませんか」


 今度こそ否定させまいと、珊瑚は強く喉を張った。彼女の意思は堅い。それくらいは今までにも九里香はわかっていた。けれど、出来る限り、否定したかった。


「私に、貴方を、玉依九里香として守らせてください」


 だから、何故お前は、俺を。


 そう言いかけて、九里香は口を閉じた。


 玉依珊瑚という人間の秘密を暴きたいのなら、己も秘密を晒さねばならない。


 お互い様だろうと、九里香の理性がそう囁いた。

 目を瞑る。九里香は息を吐いた。溜息の混じった深呼吸をした。


「俺には昔、結婚を約束した女性がいるんだ」

「そうですか」

「……そいつと再会するまでの間、で、良いな」


 九里香がそう言うと、珊瑚は僅かに頬をほころばせた。彼女の丸い目が赤い三日月の形を見せる。


 ――――すまない、美しい人。貴女との約束を守れない俺を、どうか。


 どうか、殺してはくれないだろうか。


 諦観を目に浮かべる九里香と、仄かで柔らかな微笑みを浮かべる珊瑚。

 大学正門前、二人を照らしたのは瀬田の車のヘッドライトだった。




第一章:白無垢に抱かれる者〈了〉

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