貞潔な翼①

 酷く、身体が重い。目を瞑ってから時間が経った覚えが無い。だが、壁にかけられた古びた時計を見れば、針は確かに早朝七時を示していた。

 頭がすっきりした。そう感じるほど深く眠ったのは、玉依九里香にとっておよそ数年ぶりのことだった。


「おはようございます、九里香さん。よく眠れましたか」


 部屋の襖を開けて、少女――――玉依珊瑚がそう笑った。彼女の足下で身体をくねらせる二匹の猫は、横たわる九里香に向かってにゃあにゃあと甲高い声を上げた。


「あぁ、今日もよく眠れた。朝飯だろ、ちょっと待ってくれ」


 九里香はそう言って、本に埋もれた布団を持ち上げる。子供のように腹を鳴らす珊瑚を横目に、彼は粛々と手足を動かした。


 その日、九里香と珊瑚が朝を迎えたのは、街の外れにある多都川神社の一角。曰く、玉依家の別邸であるというそこは、珊瑚が父親から与えられたという屋敷らしい。内部には、孤独を感じるほど広々とした廊下と、生活感の無い、大量の本で埋められた部屋が複数並んでいた。より正確にその屋敷を表現すれば、「本が住んでいるところにヒトが僅かに住まわせて貰っている」と、そんな印象を抱くような空間であった。

 人間が住むには墨臭い部屋の一つに、九里香は居住者として身を置いてから一週間が経とうとしていた。


「私、九里香さんから同居したいと言い出すとは思いませんでした」


 屋敷の居間、茶碗を片手にそう呟くのは家主の珊瑚だった。僅か二分で味噌汁の碗を空にし、茶碗に詰め込んだ白米の半分を胃に納めた彼女は、機嫌良く九里香の目を見ていた。


「役所に届け出を出してる手前、いつまでも別居状態じゃ体裁が保てないだろ。それに、長く瀬田先生たちに迷惑かけるわけにもいかないし」


 そう言って、九里香は珊瑚の空の碗へ、二杯目の味噌汁を注いだ。


「マンションは追い出されちゃったんでしたっけ」

「あのな、だから、俺から引き払ったんだって……」

「似たようなものでしょう。損害賠償だとかの話にならなかっただけマンション側もかなり譲歩したんじゃないですか。実際、須藤さんの死体が降り注いだのは九里香さんが原因というのに間違いはなかったわけですし」


 ねえ。と、珊瑚は九里香の足下へ目を向けた。彼女の言葉に、ハチワレ猫がにゃあと鳴く。もう一匹の三毛猫は尻尾だけをゆらゆらと揺らしていた。


「まあ、私はどちらでも構いません。毎日三食手作りの美味しいお料理という贅沢をいただけるのですから」


 意気揚々と、彼女はそう言って空の茶碗をちゃぶ台の上に置いた。そんな彼女を見て、九里香は苦々しく眉間に皺を寄せた。


「……そりゃ光栄だ。専業主夫にでもなるか、俺」

「それも良いですね。掃除とかお任せしても良いでしょうか。あぁ、でも、書籍の整理だけは私も一緒にさせてくださいね。蔵とかに鎌倉時代のやつとかもあるので」


 どうにも、この珊瑚という少女には、嫌味というものが通用しないらしい。

 こいつはそれくらいが丁度良いか。と、九里香は僅かに頬を緩ませながら溜息を吐いた。


「あ、ついでにお聞き頂きたいのですが、九里香さん」


 大皿に乗せたウィンナーを一つ飲み込んで、珊瑚が再び口を開いた。


「今日、神社の宮司さんに結婚のご挨拶に行きたいんです。ついてきていただけますか」

「急だな。まあ、今日は何も予定の無い日だから構わないが」


 九里香がそう応えると、珊瑚は「良かったです」と微笑んだ。そんな彼女は九里香に空の茶碗を差し出すと、再び頬を緩ませた。


「とりあえず、まずはこちらのおかわりを頂いてから、で」

「……帰り、スーパー寄って帰るか」


 はい。と、珊瑚は丸い瞳を細めて笑った。



 花の都の守り神『多都川媛』――――そう書かれた看板の前、九里香は一人、缶コーヒーを啜っていた。


「お待たせしました、九里香さん」


 駆け足で社務所から飛び出したのは、珊瑚だった。


「今朝の神饌のお下がりを頂きました。このお煎餅、美味しいんですよ」


 そうか。と、九里香はそう零して、缶の中身を飲み干した。

 二時間ほど前に顔を合わせた、多都川神社の宮司とその妻は、珊瑚と親族であったらしい。彼らは珊瑚を飼い猫のように可愛がる様子を見せつけた後、「この娘をよろしく」とだけ言って、九里香を社務所の外へと放り出したのだ。概ね、いきなり結婚などとは何事かと、珊瑚に詰め寄っていたのだろう。僅かに疲労を漂わせる珊瑚を横目に見て、九里香は文句の出そうな口を閉じた。


「それじゃ、食料の買い出しをして帰りましょうか。いえ、その前にお昼ですかね。驕りますよ」


 珊瑚がそう言ってすぐ、九里香は再び肯定を零そうとした。だがその前に、視界に見知った顔を見つけて、彼はそちらへ目を向けた。


「……三谷さん?」


 九里香の視線の先、ひょろりと長い体躯のその男もまた、九里香へと視線を向けた。


「おや、九里香くん。お久しぶりです」


 中性的な甘い声を鳴らしながら、その男は二人の前へと歩き出した。目の前まで迫った男を見上げると、珊瑚は一言「この方は」と九里香に尋ねた。


「花屋の三谷さんだ。バイト先で世話になってる」


 九里香がそう言うと、男――――三谷は膝を曲げて珊瑚と目線を合わせた。一歩だけ身を引いた珊瑚へ、三谷は「ハハッ」と声を上げて笑った。


「こんにちは。三谷京平と言います」

「玉依珊瑚と言います」

「玉依珊瑚……タマサンゴ、龍の珠ですね。愛らしくも神聖な名前だ」


 子供をあやすように声をうわずらせて、三谷はそう呟く。その言葉選びが嬉しかったのだろう。珊瑚は「父に付けて貰った名前なんです」と心底少女のように笑った。そんな珊瑚の様子を眺める三谷の顔を、九里香は覗き込んだ。


「ところで三谷さんは何で神社に」

「仕事ですよ。境内の木が一部変色しているらしくて、様子を見に。九里香くんは」

「俺は珊瑚と……その、神主さんに結婚の挨拶をしに」


 結婚。そう呟いて、三谷は目を丸くする。九里香が三谷の驚く姿を見るのは初めてのことだった。「失敬」と咳払いする彼を見て、九里香は「今度説明します」と苦く口を歪めた。


「あ、あの、三谷さんの仕事っていうのは、その、花屋さんってお話ですけど、なんで神社の境内の木について様子を見に?」


 気まずさをごまかす九里香達の間に、そう言って珊瑚が割り込む。その目はいつかの水族館で見たような、好奇心に輝いていた。


「あぁ、私は花屋と言っても、植物は全般扱えるので……そうだ、珊瑚さんはご結婚なさっているということは、少なくとも成人されてますよね」

「はい、しっかり結婚可能年齢の十九歳です」

「……少なくとも大学生ですね。一緒に来ますか。学生さんの学びの機会ということで」


 一瞬の熟考を差し入れて、三谷は珊瑚にそう言って微笑んだ。二人のやりとりを見ていた九里香は、自分に拒否権がないことくらいは理解していた。


 そうして三人が向かった先は、神社の拝殿よりずっと先の、山の奥。獣道も無い木々の隙間を歩いた。格好を付けて革靴などで来なくて良かったと、九里香は脳の奥で自分への僅かな賞賛を叫び散らしていた。


「木の変色が見られるって……こんなに奥まで神主が見て回ってるんですね」


 気を紛らわせようと、九里香はそう言葉を吐いた。その問いに、三谷は歩みを止めることもなく答えを置いた。


「いえ、この辺りは基本的に人の立ち入りが無い場所です。神主さん達もあまりここまでは足が向くことはありません」

「じゃあ何で変色があると……」

「大学で、研究室の後輩が、ドローン撮影で病変の観測を行う実地試験をしているんです。それで、実際に異変が見つかったので、私が行くことに」


 なるほど興味深いです。と、声を上げたのは珊瑚の方だった。


「境内の森の極一部の木が枯れ始めているということですから、丑の刻参りによる損傷などもありえますが……今のところは人間が侵入している足跡などは見られませんね」


 淡々と珊瑚はそう呟く。「そうですね」と穏やかに相づちを打つ三谷の様子は、何処か教師や大学教授のそれに似ていた。こういった学術的な側面で会話をするのであれば、珊瑚と三谷は良いパートナーなのだろう。何処か子供らしさが抜けない、精神性を幼い頃に置いてきてしまったような珊瑚を、これほど穏やかに御している人間は、九里香が知る限りで三谷くらいのものだった。

 少しずつ境内の山中を進む中、暫くして三谷が「目的地が近い」と言ってスマホの画面を見た。立ち止まって彼の指示を待つ中でも、珊瑚は三谷の周囲をぐるぐると回っていた。まるで餌をねだる猫のようだと、九里香は僅かに頬を緩ませた。


「九里香さん、九里香さん」


 ふと、珊瑚が甲高い声で九里香の名を呼んだ。彼女は這っていた地面から何かを摘まむと、それを握りしめて九里香の前へと差し出した。


「こちら、アシナガヌメリですよ。やりました。たくさんあります」


 鼻息荒く珊瑚はそう言って、数本の細長いキノコを九里香の手に握らせた。ぬるりと薄い粘液を感じて、九里香の背筋に嫌な汗が伝った。だが、よくよく見てみれば、それは何処かナメコやシメジとも似ていた。数秒で慣れた手先の感覚が、九里香に平常心を取り戻させた。


「あしなが……キノコか?」

「窒素を多く含む動物の糞尿などの近くに生えやすいキノコです」

「珍しいのか」

「いえ、特に珍しいキノコではありません。ですが食用に向き美味だそうです。今日の夕食用にいくらか採っていきますか」

「……お前、自分でさっきなんて言ったか覚えてないのか?」

「動物の死体の近くにも生えるので、今回はそれかもしれませんよ」

「どっちにしろ嫌だよ」


 二人のそんなやりとりを「フフッ」と笑う声が聞こえた。


「素人がキノコ採りするのはあんまりおすすめしないですよ。それに、この辺りは神域の一部です。神様の持ち物を持ち出すのは、あまり善いこととは思えませんね」


 でしょう。と、スマホをポケットに戻した三谷はそう笑った。「すみません」と僅かに萎れる珊瑚に、三谷は再び微笑んだ。


「何だか嫌な臭いもしますし、出来る限りこの辺りの土や植物には触れない方が良いでしょう。目的地はすぐ近くです。しっかり仕事の解説をしますから、わくわくしながらついてきてください」


 三谷の指示は冷静だが、冷淡では無い。「上手く言うものだ」と、九里香は足取りの軽い珊瑚の背後を歩いた。


 数分、湿った地面の上を歩く。地面をちらりと見れば、先程珊瑚が見せたあのキノコが目についた。三谷の言うことは確かだった。鼻をくすぐるような、甘い香りと、思わず吐き出したくなるような苦みを含んだ匂いが混ざって、三人の鼻から嗅覚を奪おうとしていた。


 ――――俺は、この匂いを知っている。


 ふと、九里香の中に記憶が走った。黒で塗りつぶされた視界。だが、確かにこの強烈な匂いを覚えている。それが何から発せられるのかなど、視覚がはっきりしないのだからわかるわけが無い。

 だが、少しずつ慣れてきた鼻腔は、それがいつぞやお夏、三角コーナーに放置した豚肩ロースの厚切り肉を思い起こさせた。妙な実感を持って、それが、その匂いのもとが何であるかを、九里香は理解した。


「……三谷さん、スマホを」


 貸してください。そう言いかけて、九里香は口を閉じた。

 一番後ろを歩いていた九里香が、『そこ』に辿り着いたとき、三谷は既にその電子機器を耳に当てていた。片手で珊瑚の目を覆い、三谷は「ええ」だとか「はい」だとか、そんな短い返答だけをスマホのマイクに向けていた。

 数秒経って、三谷がスマホをポケットに戻した。振り返った彼は、眉間に皺を寄せていた。


「九里香くん」


 彼が九里香の名を呼んだことに、意味は無い。だが、そこに謝罪が含まれていることは、何となく九里香自身にも理解出来ていた。

 しかし、そんなことよりも、珍しく不安を顔に出す三谷よりも、ずっと、九里香の目を奪うものがあった。


 枯れかけの木々を彩るように落ちる白い塊。それらは隙間に緑の輝きを放つ赤を伴って、千切れた断面から白い骨を露出させる。


 ――――俺はこの惨状を知っている。


 半分に割られた女の顔を見下ろして、九里香はそう脳内で呟いた。彼の中から引きずり出された三つ目の記憶は、あの日抱えた須藤の顔のぬくもりだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る