絞める

 後部座席にゴミ袋と道具を投げ入れて運転席に座る。途中で買ったコーヒーを渡すと、陸は少しだけ困ったように笑って礼を言った。

「これからどうすんの?」

「まずゴミ片付けて、それからは決めてない。車で寝るかホテルに行くか」

「不健康だねー。ずっとそんな感じなの?」

「まあ……」


 都市とはいっても地方だから、夜は本当に人気が絶える。地図を調べて見通しの良い道路を飛ばしながら、横目で助手席の陸を見た。

 陸はぼんやりと窓の外に流れる景色を眺めている。道路の両脇に並ぶ建物はどれも明かりが消えていて、大して面白くもない眺めだと思う。


「……なんか、音楽でも流すか?」

 沈黙がまだ居心地悪く、スマートフォンを投げ渡すと、陸は目を瞬いた。

「俺が選んでいいの? ――うわ、映画音楽ばっかじゃん」

「あんま歌とか、詳しくない」

「俺も今の流行り知らねーな。おすすめ適当に流すね」

 スマートフォンから流れ出たのは広告か何かで聞いたことのある軽快な歌だった。明るい曲調はどこか浮ついていて、今の状況にまるでそぐわない。それでもずっと無言でいるよりははるかにましだと思った。


「なっちゃんって大学出てからずっとフリーターなの?」

 窓から目を離し、陸はそう言った。

「……いや、違うけど」

 一度就職したが向いていなかった。話したくないことを察したのか、それ以上追及してこない。

「俺は大学中退しちゃってさあ」

「それは聞いた」

「マジ? あ、親経由? 一応申し訳なかったんだよね、でもバカなとこだったし通うの面倒になっちゃって」


 陸くん大学辞めちゃったって、と母親が電話で言ってきたことを思い出す。あんたはそんなことしないでねと、言葉の裏でそう釘を刺された。


「……遊んで大学いるよりずっと良いだろ」

「はは、でもなっちゃんはちゃんと勉強した方じゃん。そんな感じする」

「適当なこと言うなよ……」

「えー、あんたも夏月なつきくん見習いなさいってすっげえうるさかったもん、親が」

 見習うところなんて一つも無い。いくら真面目に勉強したところで、一度道を外れてしまえばもう終わりだ。

 そんなことは言えず、「そうか」と曖昧な相槌を打った。


 その時、不意に歌が止まった。


 甲高い声が止むと、いきなり静寂が押し寄せてくる。無意識にハンドルを握る手に力が籠った。

 歌の代わりに低いバイブ音が聞こえて、「電話だ」と陸が呟いた。

「誰から」

「えー、中沢なかざわさん?って人」

 舌打ちを堪えて路肩に車を寄せる。中沢はさっきメッセージを送った相手だ。スマートフォンを受け取り、私だけ車から降りた。

 出る瞬間、どこか不安げな陸の顔が見えた。



 通話ボタンを押すと、いきなりノイズ音が聞こえて思わず耳から離した。

『中沢です。メッセージ見ました』

 ノイズに紛れてそんな声が聞こえて慌てて耳を寄せる。男か女か分からない柔らかな声だった。初めてこの人の声を聞いたなと、どうでもいいことをちらりと思う。

『例の家で知り合いに遭遇したというお話でしたが、その方は今どこに』

「……一応、一緒にいますが」

『家から出たんですね』

 責める色の無い声だったが、なぜか咎められているように感じた。


『仕方ありません。とりあえず市内からは出ないように。では……』

 それから奇妙な空白が空いて、私は急いで口を挟んだ。

「私は何をすればいいですか」

 仕事を切られるかも、という考えが浮かぶ。おそらく私は何かミスをしてしまったのだ。だが今、中沢から紹介される仕事が消えると困る。わけの分からない仕事ばかりでも、高い賃金を得られるのだ。


『あなたは、指示通り動いて、ください。すぐメール、を――送り、ます』

 平坦な声が途切れがちになり、それからノイズが増した。

『でないと――』


 いきなり、ザー、という音が溢れて中沢の声が塗り潰された。


 耳が痛くなってスマートフォンを離す。通話はいつの間にか切れていて、茫然と画面を見ていると、メールが届いたという通知が表示された。

 メールはひどく簡潔に終わっていた。私は何度かその文章を辿って、自分の読み違いではないことを思い知ってから、メールを消した。




「なっちゃんすごい仏頂面だけど、別れ話だった?」

 車に戻ると茶化すような声が聞こえて、思わず溜息をついた。

「……仕事の電話」

 再び車を出す気になれず、ダッシュボードに突っ込んでいた煙草を取った。窓を開けると一匹だけ鳴いている蝉の声が聞こえた。


「煙草吸ってたんだ」

「うん。……お前は吸うっけ」

「俺はあんまり。あ、嫌いとかじゃないけど」

 横を見ると困ったような笑顔が見えた。薄暗い車内、その顔にどこか違和感を覚えて目を細める。


 車内灯を点けると陸は眩しそうに、半ば嫌がるように顔を背けた。項垂れて顔を隠すように手で覆う。

「陸、お前、その顔」

「明かり消してよ」

 強張ったような声を無視して肩を掴む。薄い肩は怯えるように小さく震えた。

「顔、見せろ」


 オレンジ色の車内灯に照らされて、変色した皮膚が見えた。


 抵抗するように手を振り払われる。ろくに力は入っていなかったが、私は肩を掴む手を離してしまった。

 左の頬のあたり、薄っすらと火傷痕のように変色している気がした。陸は項垂れてこちらを見ない。運転席からは右側の顔しか見えず、そこに異変は無かった。


 気まずくなって車内灯を消し、持ったままだった煙草を咥えた。煙を窓の外に追い払いながら、ふと、火事のことを思い出す。

 隣を見ると、陸は子供のように膝を抱えて顔を埋めていた。何かから自分の身を守っているようだと思う。


「……お前、怖いのか、煙草」

 ほとんど思いつきだったが、たぶん当たっているだろうなと思った。しばらく間があって、くぐもった声が聞こえた。

「別に、大丈夫……」

 まだ残っている煙草と膝を抱えた陸を見比べて、私は煙草を缶コーヒーの中に捨てた。


 陸は顔を上げて、「マジで大丈夫だよ」と焦ったような声を上げた。

「煙が苦手なだけだし、気にしないでいいって! てか勝手について来たやつのことそんな気にすんなよ……」

 言い募る陸の顔は薄暗くてよく見えない。でもやはり左の頬に引き攣れたようなケロイドがあって、それを無視することはできなかった。



「焼け死ぬのって、苦しいか」

 呟くと、陸は苦笑いを浮かべた。

 私はハンドルに下がるお守りを撫でる。交通安全。どこかに車ごと突っ込めば自分も死ぬかもしれない。

「苦しいよ。でも火事で死ぬ時は火傷よりほとんど窒息とか中毒らしいけど」

 車の排気ガス――は、確実性が無いと聞いたことがある。

「一酸化炭素中毒か」

「そう。身体だけ動かなくなって、そのままゆっくり死ぬ」

 近くに海があるはずだ。でも陸は泳げたかもしれない。泳げたかどうかも忘れてしまった。

「ゆっくり死ぬのは、怖いな……」

 ナイフ。カッターナイフしか持っていない。どこを傷つければ人は死ぬのだろう。


 そういえば、ゴミ袋の中に、太いロープが入っているなと思い出した。


 隣を見ると、陸は表情を歪めた。泣き笑いのような顔だった。

「楽に死にたいよね……」

 それは難しいかもしれないと思った。


 手順を考える。どこか人目につかない場所に車を停めて、自分の物を間違えてゴミ袋に入れてしまったとか言い訳をして、気づかれないようにロープを取り出して、助手席の背後から首を絞める。

 絞め殺したら中沢に電話をする。それで私の後始末は終わりだ。あとはあっちでやってくれるだろう。


 簡単な作業だと思うのに、泣き笑いのような顔を見ていると、どうしても言葉が出てこなくなった。


 陸はもう、ずっと前に、火事に巻き込まれて死んでいるはずなのに。

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