積み木
「高野くん!」
悲鳴に似た声が聞こえて、目を開けた。
途端に咳き込む。咳き込むたびに膝に冷たい水が掛かった。足元に腐った臭いを放つ水溜まりができていて、眩暈がした。
先輩は隣で俺の肩を擦っていた。霞む視界で、今いる場所がクラゲコーナーだと確認する。
「とりあえず出よう。ちょっとヤバい」
先輩の声は焦りで上ずっている。目を凝らしてそう言う先輩の顔を確認して、確かに本人だと思って、それでようやく力が抜けた。
緊張が解けた途端にへたり込みそうになった。周りの客が不審そうに見ているのが分かるので、かろうじて耐えた。
その後はろくに説明書きも水槽も見ず、先輩は俺を引っ張って足早に出口を目指した。
外は相変わらず小雨が降っていたが、水族館の中よりはよほど明るかった。近くの公園まで辿り着いたところで、先輩はようやく足を緩めた。
「ほんとに……焦った……高野くん、さっき息してなかったから」
「……俺が?」
「そうだよ。死ぬんじゃねえかと思った」
先輩の白い顔は、いつもよりずっと青ざめているように見えた。
俺は答えようもなくて口元を拭う。まだ水の腐臭が口の中に残っているような気がした。
「俺は……先輩探しに行こうとして、それで」
その先は言いたくなくて口を閉じる。代わりに、震える声を誤魔化すために笑った。
「あの水族館、曰く付きだったんですかね」
先輩は虚ろな目で振り返った。
「違うよ、俺のせいだよ」
淡々とした声に足が止まる。
先輩は俯いた。長めの前髪に遮られて、表情が見えない。
「たぶんだけど。きっと普通にさ、良くないんだよ。死人と一緒にいるってまずいだろ。だから高野くんの周りで変なことが起きんだよ。俺、時々、全然分かんないまま高野くんの部屋の前にいること、あるから」
怖いだろと言う先輩の目が揺れている。
何も言い返せなかった。俺にも心当たりは山ほどある。
「やっちゃ駄目だって思うんだけど、どうしても抑えられないんだよな。ごめんね、離れた方が良いんだけど、なんか駄目で」
「違いますよ」
狼狽えたまま、それ以上聞いていたくなくて遮った。
「そもそも先輩が戻ったの俺のせいじゃないですか。だからあれです、自業自得みたいな……」
「でも死ぬほどのことじゃないよ」
先輩は青ざめた顔で笑う。
「俺はどうせ死んでるからどんな目に遭っても別に怖くないけど、高野くん生きてるじゃん。しかも怖がりだし。でも俺はどうにもできないからさ、高野くんがなんかやってよ。お祓いとか」
先輩の右目の痣が前より濃くなっていることに気がついた。シャツから覗く首筋も手首も、細かい傷痕に覆われている。
「あっさり成仏するって言ったじゃないですか」
笑い話にしたくてそう言うと、先輩は付き合うように薄く笑う。
「そりゃ理想だけど。別にそんなに気使わなくていいんだよ。友達でもないのに」
そうだ。元々発表班が偶然被っただけで、本来なら先輩が死んだことなんてすぐに忘れるようなことだったのだ。
そう思っていたのに、もう遅かった。本当は嫌だった。卒業する頃には忘れているはずだった人間の死が、どうしようもなく手遅れになってから重みを増していくような気がした。先輩は死んでいる。死んでいるはずなのに、足も体温もある。普通に喋っている。
とうに死んだ人間に対して思い出を積み上げるという奇妙で虚しいことを、俺は一か月も続けている。
遅いですよと呟くと、先輩は呆れたように、それから苦しそうに顔を歪めて何か小さく囁いた。
また駄目か、と聞こえたような気がしたが、よく分からなかった。
「……疲れたな」
先輩がぽつりと呟いて、それでこの話は終わりになった。
「何か飲みますか?」
自販機を指差すと、先輩は苦笑した。
「俺、飲み食いできないよ」
そういえば、先輩が何か食べているところは見たことが無かった。
「味しないし、俺のそばに置いとくとなんか腐っちゃうんだよね。後輩にたかるのもあれだし、俺はいいよ」
俺は自分の分のコーラだけ買って、大人げなくブランコに座った先輩の元へ行く。他に人もいないので問題は無いだろうが、先輩の恰好は一見すると喧嘩直後のようで怖い。誰かに見られたら通報されるかもしれない。
でも、血染めのシャツを換えないんですかとは訊けなかった。たぶん換えられないのだと思う。
小雨は徐々に弱まって、雲の切れ間から陽が覗いていた。ブランコを囲う柵に腰を下ろしてペットボトルのキャップを開けると、吹き上がった泡で手が濡れた。先輩が発作のように笑う。
「なに、炭酸飲んだことないの?」
「ありますよ……」
「俺は炭酸苦手なんだよなあ。舌痛くなんない?」
他愛のない雑談をするうちに、さっきまで身体の底の方にこびりついていた恐怖が薄れてきた。
「先輩、他にやり残したことってないんですか」
問うと、先輩は虚を衝かれたように目を見開いた。
「え、なに、どうしたの」
「いや、水族館、あんまちゃんと見れなくて申し訳なかったんで……」
他にやりたいことがあるなら付き合おうかと思っただけだ。そう言いかけ、何だか偉そうだと思って言えなくなる。
黙った俺に対し、先輩は破顔した。
「高野くんって怖がりのわりに懲りないんだね」
「やっぱ無しで」
「なんでだよ、ちょっと褒めてるよ!」
焦ったようにそう言って、先輩は指折り数え始めた。
「やりたいことね、いっぱいあるよ。夏は海行きたいし、花火もやりたいし、旅行とか、あと古本屋好きなんだよね」
最後だけ親近感が湧いた。同時に、やっぱり先輩とは普通なら接点が無かっただろうと思う。
「全部やり切ったら、俺、どっか行けるかな。どうにかなるかな」
先輩は頼りなさげに呟く。きっと大丈夫です、とは言えなかった。
たぶん無理だろうとは、もっと言えないと思った。
「あ」
先輩はぽかんと口を開けた。
そしてそのまま、背中を丸めて顔を押さえる。動揺したように揺れる黒い瞳と、指の隙間から滴る赤い血が、くっきりと目に焼きつく。
だらだらと垂れる血は砂地に染み込んでいった。何が起こったのか分からず唖然としていた俺は、慌てて柵から降りて近づいた。
ブランコの鎖が揺れる。先輩はぐらぐらと首を揺すっている。顔を押さえる指の間から血が零れ飛んで、俺の服にも染みを作った。
「先輩、何やって――」
首を揺するのを止めようと掴んだ肩の薄さに驚く。同時に、首筋にあった痣が生々しい青紫に変わっているのに気づいた。
先輩の手が、俺の服を縋るように掴んだ。
鉄の臭いがした。鼻から止めどなく血が流れているのが見えた。そのせいで赤く染まった唇に既視感を覚える。なぜだろうと思って、アレに似ているのだと気づいた。
白い顔。涙。赤い唇。
「こう、のくん」
鼻腔に血が詰まっているのか、覚束ない口調で先輩は俺の名前を呼ぶ。
なぜか別人の声のように聞こえた。
先輩の肩がひどく震えて、信じられない量の血が溢れて落ちて、身体がブランコから滑り落ちる。
ガシャンと鎖が鳴って、それから不気味なほど静寂が満ちて、俺はただ途方に暮れて倒れた先輩の身体を見下ろしていた。
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