水槽
先輩が水族館に行きたいというので、付き添いで行くことになった。
男二人で水族館に行っても何も楽しくないと思うのだが、そう言うと先輩は真面目な顔で言った。
「あれからちょっと考えてみたんだよね。俺がうろうろしてるままだと高野くんは迷惑じゃん」
「はい」
「ちょっとは否定しろよ。――まあだから、どうやったら消えるのかなって。で、もしかしたら自覚してるより未練が強いのかもしれないし、やり残したなって思ってたことを全部やってみようかと」
「それが水族館?」
「大学の近くに小っちゃいとこあるじゃん。あそこの中どうなってんのか気になってたんだけど、結局行けないままだったから」
未練というには些細なやり残しだが、一人だと中に入れないという先輩に拝み倒されて折れた。
学校もバイトも無い日曜日、小雨が降る中家を出た。先輩と昼間に出掛けるのは、思えば初めてかもしれなかった。
「他にも何かやりたいことあるんですか?」
「えー、でも結構やったかも。誰もいない公園でブランコ乗るとか、一日映画館に籠るとか、あと肝試し一回やってみたかったんだよね」
「……前にスーパー行ったのそれだったんですか」
「そうそう」
悪びれなく頷かれると文句を言う気は失せた。
「今は普通に楽しいけど、やっぱ高野くん困らせたくないし、できるだけあっさり成仏したいよね」
こんなセリフを人生の中で聞くことになるとは思わず、少し笑ってしまった。
でもすぐに笑えなくなる。
――俺は本当は、先輩がいなくなるにはどうすればいいか、知っている。
***
薄汚れた白い外壁の水族館は今まで潰れていないのが不思議なほど人が少なかった。窓口でチケットを販売していた老人によると、来月閉館するらしい。
ようこそ、と水色の背景にイルカが跳ねている看板を指し、「イルカはもういないんだよね」と老人は教えてくれた。先輩が残念そうな顔をしたのが可笑しかった。
「君、あの大学の学生さん? 学生証持ってるなら半額だよ。前は学生さんもよく来てくれたんだけどね」
老人の言葉に俺は適当に相槌を打った。先輩は隣にいたが、老人の視線は全く先輩の方には向かなかった。
「お客さん、一人――だよね」
一瞬自信無さげに眉をひそめ、老人は問う。俺は少し迷い、先輩の方を指差した。
「いや、二人です」
先輩は目を見張った。老人も驚き、焦ったように盛んに首をひねる。
「あれ、そうだよね、申し訳ないね、気づかなくって。そっちのお兄ちゃん学生証持ってる?」
「……いや、俺は持ってなくて」
「まあいいや。ついでに半額にしとくよ。どうせ閉館するから」
金を払ってチケットを二枚受け取った。水族館の曇ったガラス戸を押し開けて中に入ると、青っぽい照明で視界が暗く沈む。
「……一人って言っちゃえば良かったのに。チケット代勿体なくない?」
「いいですよ、どうせ一枚分しか払わなくて良かったし」
答えると、先輩は奇妙な表情を浮かべた。
「あれだ、高野くんって良い人だよな。愛想無いけど」
息が詰まるような感覚がした。
「……気づくの遅いっすよ」
先輩は抑えた声で笑って、壁に掛けられた説明書きを熱心に読み始めた。
水族館に興味は無かったが、中学校の修学旅行ぶりだと思うと来れて良かったと思う。小さな水槽を泳ぐ魚の目はどこを見ているのか分からず、どう足掻いても意思疎通ができなそうだということに少し安堵した。
俺は先輩と違って説明書きを読まないという客としてはあまり良くない部類の人間なので、さっさと通路を先へ進んだ。ちらほらいる客は近所の老人か子供連ればかりで、若い客は少ない。だからなのか全体的に静かで、時折子供のはしゃぐ声とそれを窘める親の声が聞こえる程度だった。
狭い通路を抜けると少し広いコーナーがあった。円柱の水槽に浮いているのは全部クラゲだ。
漂うクラゲはまるで人とは隔たっていた。広がっては萎む傘のような部分の動きを目で追う。半透明の白さは、どこか幽霊のようだった。
先輩が追いつくのを待とうと、隅にあった小さなソファに座った。円柱の水槽が立ち並ぶ青い空間は海の底に似ていて、また息苦しくなる。
――良い人だよな。
ひどい勘違いだ。
俺のせいでこんなことになっているのに、先輩はなぜ責めないのだろう。自殺した、という言葉が重石のように頭に残って忘れられない。
ぐるぐるとどうしようもない考えが出口を失って停滞する。
こんなことをしても、先輩は成仏なんてできない。分かっているのに言い出せないでいる。怖いからだ。
溜息をついて立ち上がった。先輩はまだ来ない。さっさと合流してしまおうと、順路の看板の矢印に遡って歩き出した。
いつの間にか他の客の姿が見えなくなっていた。薄暗い通路に非常灯が点々と道しるべのように輝いている。
それでも順路の矢印を逆に通り過ぎるたび、一段と視界が暗くなるような気がした。まだ先輩はいない。誰ともすれ違わないまま、また矢印を通り過ぎて、もう足元が見えないほど暗い。
どこにも人がいない。――暗すぎる。
来た時、これほど通路は長かっただろうか。
不安が掠めて足取りが重くなった。
顔を上げても非常灯の明かりと延々と続く狭い通路しか見えなかった。通路の先は闇に呑まれて、振り返ってもそれは同じだ。クラゲの漂う水槽はどこにも無い。
「どこだよ、ここ……」
発した声は闇に呑まれた。恐怖と焦燥で上手く息が吸えない。
先輩はどこへ行った。
逃げるように走り出した。通路を逆走していけば絶対に先輩がいるはずだ、そのはずだと言い聞かせて走る。他にどうしようもなかった。止まってしまえば通路の向こうから何かが追いついてきそうな気がした。
やがて、通路の先に青い光が見えた。
それに向かって走っていくと、唐突に広いホールに出た。
青いのは、巨大な水槽を照らす照明の色だった。壁一面に広がる水槽には魚もイソギンチャクの類も無く、ただ大量の水だけが詰まっている。
無人のホールと空っぽの水槽。一体何が起きているのか分からず、単純に体力が尽きて足を止める。
ぜいぜいと息を切らしながらホールを見回して、どこからか低い呻き声が聞こえた。
声が聞こえる方に向かう。水槽の裏側には一面ガラス張りの通路があって、海中のように床にも壁にも天井にも青い水が満ちている。
その床に、何かを引きずったような赤黒い跡が伸びていた。
ゆらめく青い水の影と、赤黒い線。途切れがちな呻き声は通路の先から聞こえているが、暗くてよく見えない。
引き返すべきではないかと、まとまらない思考が頭を巡る。それでも足を踏み出した。
ゆらゆらと動く水の影で遠近感が狂う。
「先輩……」
通路の先、うずくまる背が見えた。
血に染まったシャツと生々しい傷に覆われた肌が見えた。髪は血で固まって、丸まった背は小刻みに震えている。震えるたびに足元に血がぱたぱたと落ちて、青に満ちた空間に赤い染みが点々と散る。
近づいていくと、傷口に小さな白いものが蠢いているのが見えて、それが蛆だと遅れて気づいた。
「先輩、帰りましょう……」
声が掠れた。ぬるりと唇の上を温かいものが滑って、無意識に拭った手の甲に血が付く。鼻血だ。
「もう手遅れだよ」
普段の先輩からは想像もつかないほど陰惨な声だった。俺は近づこうとした足を止めて、ただ震える背を見つめる。ぼたぼたと先輩の足元に血溜まりが広がっていく。
光がゆらめくせいか身体が揺れているような錯覚が起きた。視界が傾いて、不意に立っていられなくなって膝をつく。
帰りましょうと、呂律が回らないまま呟いて、床に倒れ込んだ。
青い水が視界いっぱいに広がった。立ち上がれない。徐々に周囲が霞んで意識が朦朧として、もう駄目かもしれないとふと思う。
狭まった視界の端、汚れたスニーカーが近づいてくるのが見えた。
先輩、と呟いて、手を伸ばそうとした。
ここから連れて帰らないと、二度と会えないような気がした。
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