先輩
「ごめん、ペン貸してくれない?」
隣に座っていた男に声を掛けられて、俺はそちらを見た。目が合うと申し訳なさそうに小さく笑う。
ボールペンしか無かったのでそれを渡すと、男は「ありがとう」と小声で囁いてきた。明るい茶髪から覗く耳にピアスが三つぶら下がっていて、痛くねえのかなとどうでもいいことを少し思う。
前方で教員がぼそぼそした声で喋っていることをぼんやり聞きながら窓の外を見る。春の空は白く曇って、生温いような微妙な気温だった。
やがて雑談が終わり、発表班を作りましょうかと少し張った声でそう言われた。近場に座っていた三、四人で適当にグループを決められ、ペンを貸した男ともグループが一緒になった。
学科の演習だったので、同じ学科でも学年はバラバラだ。とりあえず集まった四人で自己紹介をしようという流れになった。
二年の高野ですとだけ言うと、隣の男は俺が貸したペンをくるくる回しながら八重歯を見せて笑った。
人懐っこそうな、明るい笑顔だった。
「高野くん、よろしくね」
その人が同じ国文学科の三年生だということを、俺はその時初めて知った。
――でも、先輩が死んだと分かったのがいつのことだったか、正確には覚えていない。
出席だけは真面目にしていた先輩が一月連続で欠席し、教員もそれに全く触れなかった時、ぼんやりと聞いていた「同じ学科の三年が死んだ」という噂と繋がって、すとんと納得した。
それだけだった。そういえば貸したペンをまだ返してもらっていないなと思い出して、薄ぼんやりした喪失感を覚えて、終わりだ。俺が特別冷たいわけではないと思う。偶然発表班が同じになっただけで、友人と呼べるほど親しくはない相手の死はどうしようもなく現実味が無かった。きっと卒業する頃には忘れているだろう。
そう思っていたのに。
「何やってんすか……」
俺の部屋の前に座り込んでいる先輩を見つけて唖然とする。三日ぶりに遭った先輩は、焦点の合わない笑顔で俺を見上げた。
「あーおかえり、高野くん」
「じゃなくて、いつからいたんですか?」
「んー……分かんない。昼くらい?」
今は夜の十時だ。先輩はいまさら気づいたように夜空を見上げ「暗いな」と呟く。
鍵はポストに入れている。勝手に入れば良かったのにと言いそうになって、それは言ってはいけないような気がして口を閉じた。
とりあえず部屋に上げた。先輩のシャツは飛んだ血が染みついたままで変わっていない。
だが、右目に薄っすらと治りかけのような痣ができていた。
「またこけたんですか」
右目を指すと、先輩は口角を上げただけで答えなかった。
「そうだ、高野くん、飴あげる」
先輩がポケットから出した個包装の飴は少し溶けているように見えた。
「……盗んだんですか?」
「違えよ、持ってたことを今まで忘れてたの。いつか食べなよ」
いつか。まるで遠い先のことのように聞こえる言葉だと思う。
俺は浅く頷いて、安っぽいピンク色の飴を手の中で転がした。
「国文学科のくせに本少ないな」
勝手に俺の棚を漁って厚かましいことを言う先輩の痩せた背を眺める。
「……どこ行ってたんですか」
「うん?」
「三日来なかったから」
ここ一月ほとんど毎日、先輩は俺の部屋に来ている。三日も空いたのは初めてで、来ても困るのに来ないと不安になった。
先輩が小さく笑う声がした。
「適当にふらふらしてただけだよ。公園とか、あと映画館ね。駅前の潰れそうなとこ、深夜まで営業してるからタダ見してんの」
「すげー浮浪者っぽい……」
「当たってるから怒んないけど思っても言うなよ」
振り返った先輩はどう見ても生きている人間で、俺はまた自分の正気に自信が無くなる。
「先輩ってなんで……ここにいるんですか」
いきなり言葉になった問いは、微妙に的外れなような気もした。でも、この状況をどう言い表せばいいのか分からなかった。
先輩はゆっくりと目を瞬く。いつでも半分哀しそうな顔に、曖昧な笑みが浮かぶ。
「最初に来た時さあ、高野くん、普通に部屋に上げてくれたよね。馬鹿だなあと思ったけど嬉しかったよ」
先輩がいなくなって一か月が経った時、大学から帰る途中で俺は顔を白く塗りたくった妙な男に呼び止められた。
それは「名前を教えてください」と笑いながら言ってきた。痣のような赤のメイクで囲われた左目の下にはひび割れじみた涙のメイクが描かれていて、都市伝説の真似をしてふざけているのか、それとも本当に頭のおかしい人間なのだろうと思った。
無視して逃げても良かった。そうするべきだったのだ。
でも俺は、なんとなく、何の意味も無く、先輩の名前を答えた。
翌日、俺のアパートの前で途方に暮れたように立っている先輩を見つけた。
「――それは、俺が、悪いから」
異常だと分かっていた。それでも先輩が来るのを拒めないのは、結局この人がうろうろ彷徨ったままでいるのは俺のせいだからだ。
先輩は「どうだろう」と首を傾げる。
「単に俺が未練たらたらで成仏できないだけなのかもしれない」
「未練あるんですか」
「うーん、正直、化けて出るほどの心残りは無いかも」
「じゃあやっぱり俺のせいじゃないですか……」
先輩は喉を反らして笑う。その白さが目についた。
「高野くん、もしかして負い目感じてたの? 真面目だね」
そうだろうか。何度目か、途方に暮れる。
「映画タダ見できるから、まあ悪くないよ。高野くんと喋るのも楽しいし」
そんなに考えるなよと先輩は目を細める。
「考えても良いこと無いだろ。違う?」
違うはずだ。これはどうにかしないといけないことなのだ。お祓いに行ってもいい。成仏してくれと念じてもいい。とにかく、このままではいけないはずなのに。
先輩がいるということに慣れてしまっているのが、ひどく不安で、なのに居心地が良かった。
「俺、なんか、駄目なんですかね。だって先輩、幻覚だろ……」
俯いて手の中の飴を見る。視界の端、先輩が近づいてくるのが分かった。少し足を引きずっていることにようやく気づく。
いきなり、腕を掴まれた。
「そんなこと言うなよ」
突然のことに反応できず、身体が強張った。
蛍光灯の明かりで先輩の青白い顔に翳が落ちている。表情が分からない。
――生温い体温が皮膚から伝わってきた。
その温さが気持ち悪くて、腕を掴んでくる手を振り払う。先輩は手を軽く振った。火傷のような傷痕が、以前より色濃くなっているのが見えた。
先輩は顔を上げ、屈託なく笑った。
「ほら、体温あるんだよ」
「……ああ、そう……ですね」
「体温ある幻覚っておかしくない? 大体俺、高野くん以外にも見えるし」
俺が眉をひそめると、先輩は首を傾げて言った。
「極端に影の薄い人間みたいな感じなのかな。目の前で飛び跳ねたりすればわりと認識されるんだよな。まあ、すぐ忘れるみたいだけど」
「……じゃあ、なんで……」
言いかけてやめた。
それが本当なら、家族とか友人とか、他にもっと会いに行くべき人がいるはずだ。それなのに俺のところに入り浸る理由はなんなのかと考えて、三年が自殺したという噂をふと思い出して、何も言えなくなる。
「高野くんも、俺が来なくなったらすぐ忘れるかもな」
先輩が哀しい顔で薄っすらと笑うので、結局、俺はまた考えるのをやめた。
「こんなこと、簡単に忘れられませんよ」
「そりゃそっか。お化けと喋ってんだもんな」
可笑しそうに笑う先輩にどこか安堵して、やっぱり俺は正気じゃないのかもしれないと、そう思った。
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