砕け散る

 シンクに流れた赤い筋が目に焼きついて消えない。先輩は一体どこへ行ったのだろう。あの怪我は本当に転んだだけなのか。

 疑問が渦巻いて上手く眠れなかった。何度か寝返りを打った時、不意に微かな音が聞こえた気がした。


 ――パキン。


 共用廊下の方からだ。このアパートには防音などという機能は無いので、隣の部屋の音も外の音もある程度聞こえてしまう。他の住人が何かしているのかと思って最初は気にならなかったが、その音は俺の部屋の前にずっと留まり続けた。


 ――パキン、パキン、パキン。


 植木鉢のことを思い出した。


 共用廊下に置かれていた陶器の植木鉢。誰かが何かを育てようとして諦めたのか、黒い土だけ半分ほど入って、何も植えられないまま放置されている。俺がここを借りてからずっとだ。


 誰かが、陶器を丹念に砕いているような音だと思った。


 硬質な音に混じって、キュ、キュ、と何かが擦れるような音も聞こえた。ドアの前を往復するように、遠ざかったり近づいたりする。スニーカーのゴム底が、コンクリートの床に擦れているところを想像する。誰かが俺の部屋の前をうろついて、何かを砕いている。

 妄想に近い想像が嫌な方向に行きそうになった。音を遮断しようと耳を塞いでも、指の隙間から執拗に聞こえてくる。どうしても消えてくれない。


 何でもないということを確認しないかぎり眠れそうになかった。諦めて立ち上がり、慎重に玄関まで行って錆びたドアに額をつける。ドアスコープに片目を当てると、丸く切り取られた世界が覗く。

 歪んで暗く、よく見えなかった。誰もいないのかと少し安堵した瞬間、死角からいきなり何かが映り込んで息を呑む。


 人だと思った。顔までは見えない。白っぽい肌の色だけ妙に浮いている。それがドアを挟んで向こうにじっと佇んでいる。

 混乱した。一体誰なのか見極めようとしても、顔の白さばかり印象に残って目鼻立ちが分からない。

 何かおかしいと、どこかでそう思う。


 白い顔は横向きで俯いているようだった。さっきまで絶えず鳴っていた硬い音は消え、代わりに不気味なほどの静寂が落ちる。

 気づけば息を止めていた。


 横顔。おそらく左向きだ。左――。


 不意に、白い顔の中に、ぽつりと黒い点が見えた。


 涙みたいだと思って、遅れて、それが黒子だと気がついた。


「せんぱい」


 無意識に呟く。

 いくら安アパートでも聞こえないほどの囁きだったのに、ドアスコープの中で、それは顔を上げてこちらを見た。

 白い。目鼻立ちが分からない。それでも視線は感じる。真っ直ぐに俺を見ている。


 ――パキン。


 頭の中で何かが砕けた。

 気絶するように、暗闇に呑まれる。



 ***



 猛烈な吐き気で目が覚めて、そのまま顔を横に向けてえずいた。


 唾液と胃液が糸を引いて落ちる。玄関で倒れていたようで、無理な体勢で眠ったせいか身体のあちこちが強張っていた。呻きまじりに手を突いて身を起こす。

 カーテン越しに陽が射していた。半ば這うように布団のそばに放り出していた携帯を取って時間を見ると、もう二限が終わっていた。

「……クソ」

 舌打ちしても時間は戻らない。まだ気持ち悪さの残る頭を叩き、眉間を押さえた。


 なぜ玄関で眠っていたのか覚えていない。そもそも、昨日何をしたのか記憶が曖昧だった。酔ってはいなかったはずなのに。


 気になったが、三限に遅刻しない方が優先だった。さっさと身支度して部屋を出て、出た瞬間に何かを踏んだ。

 部屋の前に小さな白い破片が散乱していた。


 あまりにも原型を留めていないので、それがあの植木鉢だと気づくのは遅れた。

 茫然として足をどけると、赤黒く汚れた破片が現れた。

「なんだよこれ……」

 拾い上げ、その汚れがまるで血痕のように見えて取り落とす。床にも黒い染みが広がっていて、靄がかった頭の中でふと先輩のことを思い出した。


 散乱する白い欠片が折れた歯のように見えて、俺は急いでアパートを出た。




「まだレポートやってんの?」

 肩越しに覗き込んできた時川は、俺の顔を見て目を瞬いた。

「なんか前より顔色悪くない?」

「別に……お前もう出した?」

 時川も同じ講義を取っていたので聞くと、腹の立つ笑顔で頷かれた。

「俺提出物だけは遅れないから。高野、テーマ何にした?」

 答えないうちに勝手にレポートを覗かれる。「身近な都市伝説の変容」と読み上げ、時川は「あれか」と呟いた。

「先生が一回ちょっと言ってたやつだろ。地域の不審者が都市伝説になったってやつ。昔、ピエロの恰好してここら辺うろついてた男がいて、それが色々盛られて都市伝説になったみたいな」

 時川の言う通り、この街にはそういう都市伝説があった。


 二、三十年前、ピエロのように顔面白塗りに涙のメイクをして街をうろつき、学生を捕まえてはスピリチュアルな話を滔々と語って聞かせるという、いわゆる「地域の困った人」がいたらしい。何かのカルトにハマっていたそうで、死者は心の中にいるだとか念じれば蘇ってくるのだとかそういう荒唐無稽な話を繰り返していたそうだ。

 その人がいなくなってから、噂に尾鰭も背鰭も大量につき、出来上がったのがピエロの都市伝説だった――と、噂の伝播について云々という講義で教授が身近な例としてそんな話をしてくれた。


 その話には大抵、「死人しにんピエロ」という題が付いている。ローカルな都市伝説だが、大学周辺では未だによく噂される話だった。

 内容には様々なパターンがあるが、大筋としては、「日暮れに一人で歩いているとピエロの恰好をした男に声を掛けられる。名前を教えてくれと言われるが、この時自分の名前を答えてはいけない。答えると連れて行かれてしまうから。また、無視してもいけない。答えるまで付いてくるから。出遭ってしまったら架空の名前を答えるか、あるいは――」


「なんだっけ、死人の名前を答えるとんだよな」


 時川の言葉に我に返った。


「――ああ、うん、そう」

「都合良いよな。つーか、架空の名前が死人の名前だったらどうすんの。色々ガバガバだよ」

「都市伝説なんてそんなもんだろ。雰囲気があればいいし」

「まあ、一人で歩いてる時にピエロがいたら怖いけどさ。てかなんでこれ選んだの? 資料少ないしめんどくね?」

「……いや」

 俺は曖昧に笑った。


 まさか、それらしいものに遭ってしまったからだとは、言えなかった。

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