傷痕
「高野、起きろよー。授業終わったぞ」
バサリと紙の束で叩かれた。呻きながら顔を上げると、隣で呆れ笑いを浮かべる
「顔やべーよ。寝不足?」
「……二時間しか寝てない」
「なんで? 課題?」
「肝試しやってた」
時川は唖然として俺を見た。
「高野が? お前もうちょっと真面目じゃなかった?」
「別に、先輩に連れてかれただけで……」
我に返って口を閉じた。
余計なことを言った。寝起きで惚けていたせいだ。時川は眉を寄せて俺を見る。
「高野って仲良い先輩いたんだ。俺以外友達いないと思ってた」
「俺をなんだと思ってんだよ」
「てか何で知り合ったの? 俺知ってる人かな」
「前に演習の発表班が被った。時川は知らないと思うけど」
一度も見なかったレジュメを片付け、適当に答えながら学食に向かう。時川はすぐに興味を失くしたのか、教職がしんどいだとか彼女に振られそうだとかどうでもいいことをペラペラ喋り出した。
連れ立って学食の列に並び、雑に相槌を打ちながら昨夜のことを思い返す。
俺の部屋に戻った時にはすでに三時近く、泊まっていくのかと思えば先輩はそのままどこかへ行ってしまった。そんな時間に一人で外をうろうろするのは男でも危ないのではないかと思ったが、そこまで心配する義理は無いと思って止めはしなかった。
それでも少しは気に掛かる。あの人なんで携帯持ってないんだと思いながら、自分の携帯電話を開いて何の通知も無い画面を見た。
「……でさ、国文の三年のさ、自殺らしいよ」
唐突に不穏な単語が飛び込んできて、俺は思わず目を見張って振り返った。
何か喋っていたのか、口を半開きにした時川と目が合う。時川は驚いたように目を瞬き、それから何かに気づいたように指差した。
「高野、前」
「……ああ」
空いていた列を詰める。さっきの声の主は時川ではない。なんとなく視線を巡らせて周囲を見たが、もう無意味な喧騒しか聞こえなかった。
「急に振り返るなよ、怖えって。俺変なこと言った?」
時川が不審そうに俺を見る。いや、と曖昧に目を伏せた。
「なんか変な話が聞こえて、驚いた」
「へえ? てか、やっぱり俺の話聞いてなかったな」
「悪い」
「別にいいけど、何が聞こえたんだよ」
「なんか……国文の三年が、自殺とかどうとか」
言いづらくて口籠ると、「ああ」と時川はあっさり頷いた。
「二か月くらい前の話だろ。同じ学科の三年が一人自殺したって。わりと噂になってたよ」
「へえ……」
自殺。全く、知らなかった。
「なんで自殺したんだ」
「知るわけないだろ。学祭の実行委員とかやってて目立つ人だったから噂になってたけど」
うちの大学の学祭は自由参加で、ほとんどサークルの祭りみたいなものだった。だからサークルに入っていない俺は内情をよく知らない。
「外から見たら分からなくても、なんか悩んでたんだろうなあ」
時川は微妙な顔でそう言った。よく知らない人の自殺の話題なんて楽しくはないだろう。
そのままその話は終わったが、自殺したって、という言葉がいつまでも身体の底の方にこびりついているような気がした。
***
時川と夕飯を食って、帰った頃には夜九時になっていた。
敷きっぱなしの布団を足で押しやり、折り畳み式のテーブルを広げる。中間レポートの締め切りがもうすぐなので、今日はそれを片付けてしまおうと思っていた。本当は昨日終わるはずだったのに、先輩のお喋りと突発的な肝試しで結局終わらなかったのだ。
だが、資料を読み始めてから十分ほどで扉を叩く音がした。
「……」
居留守を使うか一瞬迷い、さっきよりも切迫したノック音がして諦める。立ち上がりながら「誰ですか」と声を上げた。
「こうのくん、あけて―」
いつもよりくぐもった声だった。
ドアノブに手を掛けたまま動きを止める。
「先輩?」
一拍置いて、のろのろとした声が返ってきた。
「そー。ちょっと、まずいから、あけて」
「まずいって、何……」
「あけて」
おねがいだからとくぐもった声と共に、ガンガンとドアを叩く音が響く。ドアノブから震動が伝わってきた。
躊躇ったが、ドアスコープを覗いた。
真っ黒で、何も見えない。
「あけてよ、こうのくん」
ガンガンガン。これは苦情が来そうだなと思う。それでもノブを握った手が動かない。
どこか異様だった。
「ほんと、やばいんだって」
ガンガンガンガンガンガン。
「あけろよ」
ガンガンガンガンガンガンガンガンガン。
俺は絞り出すように返事をした。
「鍵、開いてますよ」
沈黙が落ちた。
当然入ってくるかと思ったが、先輩は不明瞭な声で笑った。
それが本当に先輩の声なのか、わずかに自信が無くなった。
「はは、やべえ、ちぃとまんない……」
頭の中で変換する。――血。
堪らず、ノブをひねった。
ドアはあっさり開いた。
足元に、先輩がうずくまっている。
共用廊下には蛾や甲虫の死骸が埃まみれになって落ちて、誰かが置いた陶器の植木鉢が転がっていた。古い蛍光灯が瞬いて、項垂れる先輩の妙な柄シャツの背を照らす。
擦り切れたスニーカーの足元、黒っぽい水溜まりができている。それが血溜まりだと気づいて、俺は息を呑んだ。
「先輩――立てますか」
「あー……」
呻くような声しか返ってこない。しゃがみ込んで顔を覗くと、真っ赤に濡れた口元が見えた。
鉄錆の匂いがする。どこから出血しているのか分からない。先輩は薄目を明けて俺を見る。
「くち」
「……口?」
先輩は口を開けて笑顔を作った。
歯が何本か欠けていた。口腔から血が溢れている。口の中を切ったのかもしれない。
とりあえず部屋に上げ、タオルを持ってきて口元にあてがった。改めて見ると、髪にも粘ついた血が付いて固まりかけている。頬に張りついた髪を邪魔そうに除け、先輩は眉を下げて申し訳なさそうに言う。
「いや、ごめんね」
タオルで押さえているせいでさらに不明瞭になり、おえんえ、としか聞こえなかった。それでも意味は伝わったので、かぶりを振る。
「別にいいけど、何やったんすか? 喧嘩?」
「んー……」
先輩は茫洋と宙を見る。答えたくないのだろう。
先輩の服は柄シャツではなかった。無地に血が飛んで妙な模様に見えただけだ。
痛み止めを探していると、先輩は眉間に皺を寄せながら声を上げた。
「あー水道、かりていい?」
「どうぞ……」
「あ、あと手ぇかして」
言われるままに引っ張り起こす。一瞬、介護のようだと思う。
先輩は口に溜まった血を吐いた。水道水で洗われていく血の流れに白い欠片が取り残される。
欠けた歯だった。
シンクに幾筋か赤い線が残った。それを丹念に洗い流しながら、先輩は苦笑いに似た表情を浮かべた。
「ほんと、ごめんね。びっくりした?」
「まあ……てか、怪我、口だけですか」
「ほかは、うん、大したことない。はは、しゃべりづらー」
普通に笑っているつもりなのかもしれないが、黒子のせいか泣き笑いに見えた。動揺が伝わらないように目を伏せる。
「痛み止めとか、いりますか」
「うん。あ、でも飲み込めねー、かも」
俺は棚から出した痛み止めの錠剤を小さく砕いた。先輩は痛そうに眉をひそめてそれを飲み下す。一回腹を押さえていたから、腹にも何か怪我をしているのかもしれない。
嫌なことを考えた。昨日の夜、俺が泊めなかったからこうなったのだろうか。
その考えを読んだように、先輩は言った。
「さっきね、こけたんだよ。けっこう、派手に」
「……顔から地面に突っ込んだんですか」
「おまけでガードレールもあったんだよね」
最悪だよと笑う。どう返せばいいのか分からず、とりあえず隅にあった扇風機のスイッチを押した。羽根の回る音が沈黙を埋める。
黴臭い空気が撹拌されて埃が飛んだ。ぼんやりと扇風機を見つめる先輩の髪が風に煽られ、縺れる。
「先輩」
先輩は横目で俺を見る。シャツの襟から、痩せた首筋が覗いている。そこに薄く痣が見えた。
聞こうと思っていたことが何か、よく分からなくなった。
結局、少しだけ笑って誤魔化す。
「……祟りじゃないですか」
「あー、やっぱ、そうなのかな。カートも蹴っちゃったし」
罰当たりな人だと思うと笑えたが、俺もスーパーに入った時点で同罪だと思い出し真顔になる。
「これから足元に気をつけます、俺」
先輩は肩を揺らして笑って、そうして立ち上がった。
「じゃあ帰るね。痛み止めありがと」
「……どっか行くんですか」
訊いたのは、一応心配だったからだ。先輩は目を細めて笑う。
「泊めてくれるの?」
「……」
「ははは、めっちゃ嫌そー。嘘うそ、じょうだん」
「あんた何しに来たんですか……」
痛み止めだけ貰いに来たのだろうか。呆れて問うと、先輩は困ったように眉を下げた。
「なんか、よくわかんないんだよ。いつの間にか?」
「は?」
俺が言葉の意味を飲み込めない間に、先輩はドアを開ける。温い風が吹き込んできた。
暗闇に先輩の青白い顔が溶ける。ひらひらと振る手のひらに変色した部分があったように見えた。
――火傷の痕?
「またね」
俺は曖昧に頷いて、遠ざかる足音が完全に絶えてから、扉を閉めた。
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