クローカー・クラウン
陽子
1:ピエロ
肝試し
帰りましょうよ、と俺は十三回目のセリフを吐いた。
「ここまで来たのに? 勿体ないだろ」
前を歩く先輩は振り返り、大袈裟に驚いた顔をした。どこがどう勿体ないのか分からなかったが、全く帰る気が無いのだということだけはよく分かった。
俺はぼんやりと空を仰ぐ。黒く塗りこめたような夜空は曇っていて、月が見えない。暗い道を等間隔に照らす街灯は頼りなく、先を行く先輩の輪郭は闇に溶けていた。懐中電灯を持ってくるべきだったと思う。
深夜二時、肝試しをするには理想的な時間だ。だからといって実行する必要は全く無いのだが、先輩はその気になってしまった。
そして残念ながら、きっかけを作ったのは俺だった。
夕方、ふらふらと俺のアパートを訪れた先輩は、いつものようにだらだらと取り留めもないことを喋ったり俺の本を読んだり好き勝手にくつろいでいた。課題をやっていたので正直邪魔だったが、追い出そうにも追い出せず、結局先輩のお喋りに付き合って課題は終わらなかった。
何を喋ったのかはほとんど覚えていない。気づけば俺のバイト先の話になっていた。大学近くのスーパーで品出しをやっているという何の面白みも無い話だったが、そのスーパーに関する妙な噂を聞いたのだ。それを何気なく話すと、先輩は予想外に食いついた。
別に、大した噂ではない。よくある怪談話で、曰く、夜八時には閉まるスーパーが時々夜中に営業していることがあるのだという。その時のスーパーは異界に繋がっていて、幽霊が買い物をしているのだ云々。
勤務先のそんな噂なんて知りたくなかった。自慢じゃないが、怖い話は苦手だ。ホラー映画を観たら三日は眠れなくなる。
たぶん、だからこそ誰かに話して「くだらない」と笑ってほしかったのだと思う。それなのに先輩は「くだらない」どころか「確かめよう」などと言い出した。本当に馬鹿だと思う。そう言い出す先輩も、それに付き合ってしまう俺もだ。
結局先輩を止められず、深夜に一駅先のスーパーに向かって歩く羽目になってしまった。のろのろ歩いて三十分、そろそろスーパーが見えても良い頃だ。
「絶対営業なんてしてませんよ。あれじゃないですか、店長ちょっとボケてる爺さんだから、消灯し忘れた時があったとかそういうオチじゃないですか」
往生際悪く言っていると、先輩は面倒くさそうに答えた。
「実際そんなところかもしれないけど、夜に散歩するの楽しくない?」
「散歩は昼間にしましょうよ。あ、部屋の鍵掛け忘れた気がするんで帰りませんか」
「
うるせえよ、と言いそうになって飲み込んだ。先輩にはどうしても強く出られない理由があった。
鬱々と夜道を歩く。暗いというだけで見慣れた場所がいきなり怖くなるのも不思議だと思う。抗うように携帯電話のライトを点けてみたが、大して意味は無かった。
「……先輩、怖くないんですか」
「俺は別に。高野くんがいるしね」
「なんかあったら先輩置いて逃げますよ」
「ははは、ひでえ」
何が可笑しかったのか、先輩は肩を揺らして笑う。
その笑い声がいきなり止まった。
先輩は振り返った。携帯のライトに照らされて青白い顔が浮かぶ。笑顔だったが、左目の下にある泣き黒子のせいで哀しそうにも見えた。
唐突に腕を掴まれた。痛むほど強い力だ。
「うわ、なに……」
「高野くん、マジで逃げんなよ」
平坦な声でそう言って、あれ、と先輩は指差した。
夜闇に赤のネオンが滲んでいる。その看板を掲げた店の中、煌々と白い光がガラス越しに漏れていて、寝静まった街でそこだけ異界のようだと思う。
深夜営業の店はこの辺りには無いし、そもそもあそこは俺のバイト先だ。爺さんが店長の、夜八時には閉まる地域密着型のスーパーだ。
先輩は立ち尽くす俺の背を叩いた。
「歩いてきた甲斐あったね」
「……ふざけんなよ」
小さく呻くと、先輩はまた発作のように笑った。
よく分かった。暗いことが怖いのではない。普段と違うということが、怖いのだ。
***
先輩に半ば引きずられるようにしてスーパーの正面入り口に辿り着く。ガラス越しに見える店内は明るく、昼間と変わらない。閉店後にショーケースを覆うはずのカバーもなぜか無くなっていて、客の姿が見えないことを除けば営業しているように見えた。
「うわー、やばいね。本物だ」
なぜか機嫌の良い先輩の横で、俺は眉間に皺を寄せる。逃げようにも、さっきから先輩が俺の腕を掴んで離してくれない。バイトが閉店作業をサボったのだと、それだけのことだと信じたかった。
「……じゃあ、もう帰りましょう」
「なんで?」
「なんでって……見たから終わりですよ。これ以上何するんですか?」
「中に入ろうよ」
「それ死ぬやつじゃないですか。って、ちょっと、先輩!」
先輩は細身のわりに凄い力で俺を引っ張る。抵抗しようかと思ったが、正面の自動ドアが開くわけがないと思い至った。閉店作業を忘れても、ドアの施錠だけはさすがに忘れないはずだ。
だが、前に立つと、自動ドアはあっさり開いた。
「マジか……」
自覚するほど血の気が引いた。先輩は朗らかに笑いながら、「これはもう入るしかないよ」と全く筋の通らない譫言をのたまった。
「ホラーで最初に死ぬアホ大学生みたいなこと言わないでください……」
「じゃあ俺だけ入るから高野くんそこで待ってて。戻んなかったら先帰っていいよ」
「何言って……おい!」
先輩はあっさり自動ドアを通ってスーパーに入った。入店すると鳴る、気の抜けるような明るい電子音が耳を突く。
俺は入り口で足踏みしたまま中に入れなかった。先輩は物珍しそうに周囲を眺め、俺を見て笑う。染めた茶髪が白々とした照明で色が飛んだように映った。
「なんだっけ、異界に繋がってるんだっけ?」
「ちょっと、マジで、戻った方が――」
「俺、お菓子コーナー見てくるね」
小学生じみた妄言を吐いて先輩は陳列棚の向こうに行ってしまった。
唖然とした。一瞬、本当に見捨てて帰ろうかと思う。これで先輩が異界とやらに行ってしまっても自己責任だ。俺のせいじゃない。
でも、と思う。それ以上に俺が先輩に掛けた迷惑を思い出して躊躇う。友人と呼ぶほど親しくなくとも、ここで見捨てられるほど浅い付き合いではなかった。
「ほんと……あの人クソだ……」
呟いても応える相手はいない。どうにか先輩の姿を確認できないかと無理に背伸びをしたが、連なる陳列棚の向こうは見通せなかった。先輩、と何度呼びかけても返事は無く、電話を掛けたくても先輩は携帯を持っていない。
異界に繋がる。幽霊が買い物をしている。馬鹿ばかしいほど安っぽい怪談だったのに、なぜ今こんなことになっているのだろう。
五分経ち、十分経ち、先輩はなおも戻ってこない。何度目か、爪先立ちで店内を覗こうとした時、ぐらりと体勢を崩した。
踏鞴を踏んで咄嗟に開きっぱなしの自動ドアに手を突く。転ぶことはなかったが、勢い余って左足が中に入ってしまった。
馬鹿にするように、明るく電子音が鳴った。
「……嘘だろ」
境界線を踏み越えてしまった左足を茫然と見つめ、呻く。
さっさと帰ってしまえば良かった。こんなろくでもないことに律儀に付き合う必要なんて無かった。ここで待っていても先輩が戻る気配は無い。大体、本人が言っていたのだから先に帰ってもいいはずだ。
言い訳と後悔がぐるぐると巡る。それでも俺は、結局諦めた。
さすがに見捨てて帰るのは後味が悪い。一歩入ってしまったのだからもう同じだ。さっさと先輩を見つけて引きずってでも帰ろうと腹を括った。
念のために自動ドアが勝手に閉じないよう近くにあったカートを挟み、お菓子コーナーに足を向ける。無人だからか、やたらと足音が大きく響いた。
野菜や果物が並ぶコーナーを足早に通り過ぎ、日用品、雑貨、飲料と奥に進む。すぐにお菓子コーナーに辿り着いたが、先輩の姿は無かった。
――どこに行ったのだろう。
そう広いスーパーではないので、結局一周してしまった。それでも先輩は見つからない。
二周目は棚の間も縫うように進んで確かめた。不安がゆっくりと凝っていくのを強いて無視する。
再び飲料コーナーまで来た時、棚の向こうから足音が聞こえた。
先輩かと思ったのは一瞬だけだ。足音は軽く、子供のもののように聞こえた。トントントンと、俺が歩くとついてくる。俺が止まると止まる。
棚を挟んで向こう、俺の動きを真似している何かがいる。
次がお菓子コーナーだ。このまま飲料コーナーを抜けて次の棚の通路を確認すればいい。そう思うのに、ついてくる足音がその気を挫いた。
右に進んでも左に進んでも、足音は執拗についてくる。さっきは確かに誰もいなかったはずなのに。
俺は動けなくなった。動かない間は、足音は聞こえない。ただ自分の荒い呼吸が耳を突く。
棚の向こうにいるのが何か、考えたくない。それでも嫌な想像ばかり浮かんだ。陳列棚を抜ければ、向こうも棚の間の通路を抜けるだろう。その後どうすればいい。入り口まで走って逃げたとして、もし追いかけてきたら――。
どうしようもなく立ち尽くした時、不意に上からくすくすと小さな笑い声が聞こえた。
視線を上げる。棚の上、誰かが顔を覗かせている。
真っ黒い目で俺を見つめている。
背が高すぎると思った。
再び笑い声が聞こえて、ああ、もう駄目だとどこか冷静にそう思う。
「――おい、高野くん!」
いきなり腕を引っ張られて我に返った。
「なんで入ってんの? 出るよ!」
先輩だった。
珍しく焦ったような顔で俺の腕を引き、走り出す。乱れた茶髪と青白い肌と冷たい手と、それは確かに探していた先輩だ。引きずられるように走りながら、背後から無数の足音が追いかけてくるのを感じた。
スーパーの入り口には俺が噛ませたカートがまだちゃんとあって、自動ドアは何度も閉じようとしてはカートに阻まれていた。
先輩がカートを蹴飛ばし、できた隙間からまろぶように外に出る。自動ドアはそのまま閉まって、閉じた途端にドンドンと内側からドアを叩く音が響いた。
カートは少し遠くで横転していた。外に出た途端に膝から力が抜けてうずくまる。先輩は髪を掻き、気まずそうに俺を見下ろした。
「馬鹿だなあ、先帰れって言ったじゃん……」
「――は?」
目を見張って先輩を仰ぎ見る。先輩は目を逸らし、「あーあ」と小さく笑った。
「ドアやば……」
振り返って後悔した。
自動ドアのガラスには白く曇った手形が大量に押しつけられて、瞬きの間に消えてゆく。
「――なんすか、あれ」
頭の芯が痺れたようだった。呂律が回らないまま呟くと、先輩は半笑いで首を傾げる。
「さあ……お客さんいっぱいいるからかな」
どういうことだ。
「お客さんって……いました?」
「え? うん」
「いっぱい?」
「いっぱい。高野くんだってさっき――」
俺の表情を見て、先輩は言葉を止めた。
「……まあ、うん、あれだよね、良かったね出られて!」
あまりにも雑な誤魔化しだったが、俺は追及しないことにした。嫌なことを言われそうだからだ。
「……もう勘弁してください」
「え、俺のせい? あー……、なんかごめんな。帰ろっか」
力なく頷き、のろのろと立ち上がる。安堵のせいか面白いほど膝が震えて、歩き出すまでには少し時間が掛かった。
「てか先輩、どこにいたんですか……全然見つからなかったのに」
「普通に中にいたよ。もう気にすんなって」
あっさりとそう言う先輩を見つめる。
「――先輩、帰る気ありました?」
間が空いた。
先輩はゆっくりと首を傾げ、八重歯を見せて笑う。泣き黒子が一緒に歪む。
「もちろん」
それ以上訊けなくて、俺は逃げるように俯いた。
「……俺、もうここのバイト辞めます」
「はは、それが良いんじゃない」
先輩はけたけた笑って他人事のようにそう言った。
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