花火

 先輩は大量の鼻血を出してぶっ倒れた。砂地にじわじわと広がる血は白昼夢じみていて、しばらく我を忘れていた。


 たぶん倒れていたのは数秒だったと思う。先輩はふらふらと自力で立ち上がると、シャツの袖で乱暴に顔の血を拭った。拭いきれなかった血でより広範囲に赤色が広がった。


「高野くん、明日の夜空いてる?」

 先輩が何事も無かったようにそう言うので、俺はティッシュを出そうとポケットに突っ込んだ手を出せなくなった。

「……まあ、夜は暇、ですけど」

「よし、そのまま空けといて」


 よろよろした足取りで公園を出ようとするので、俺は慌ててその背中に声を掛けた。

「どこ行くんですか」


 夜に、というより、これからどこへ行くつもりなのかという質問だった。ブランコの下には真っ黒な泥みたいなものがぐずぐずに溜まっていて、どう考えても今すぐ何らかの手当が必要だと思った。――それが意味のあることなのかは分からなかったが。

 でも先輩は、一瞬振り返って軽く笑った。

「海」



 ***



 堤防は真っ黒だった。街灯の無い海辺は暗いというよりも黒い。潮が寄せるたびにわずかに見える波の動きは重く、泥のようだった。

 近場の海は想像したような明るく楽しい「海」ではなく、ひたすら陰鬱だ。生臭い潮風が吹きつけて、前を歩く先輩のシャツがはためくのが見える。

「すげえ、風」

 振り返った先輩の髪が大きく煽られて額が見えた。ところどころ皮膚が変色しているように見えたが、今はよく分からない。夜であることに感謝した。

「なんか、思ってた海と違うんですけど」

「ははは、だって遠出めんどうじゃん!」

 意外と適当な人なんだなと思った。


 ここから砂浜に降りれるよと、先輩は堤防から続くコンクリートの階段を指差す。俺は露骨に眉をひそめた。

「砂浜って歩きにくいし靴の中に砂入るし最悪じゃないですか」

「そんなことあるかもしれないけど、いいから」

 先輩は勝手に降りていく。仕方なく後を追って砂浜に足を下ろすと、ずぶりとスニーカーが砂に嵌まる感触がした。


 数歩歩いただけで靴の中にじゃりじゃりとした感触が生まれる。先輩は気にしないのか、波打ち際まであっという間に辿り着いていた。

 夜だし海開き前なので他に人の姿は無い。寄せる波の音は思ったよりも静かに聞こえた。揺れる月の影とタールのような黒と、目に沁みる潮風に茫然とする。


 夜の海に来たのは初めてだった。


「先輩」

 呟くような声は聞こえなかったらしい。

「先輩!」


 振り返った先輩は、砂を跳ね散らしてこちらに来た。

「髪、ばっさばさになりそうだよな。てか、あんま海綺麗じゃない!」

 けたけた笑う先輩に釣られて口角を上げた。

「よく行くんですか、海」

「あー、どうだろ。みんなで行ったりしたけど、夜来たのは初めてかも。なんか怖いな、沈んだら上がってこれなそうで」

 その「みんな」に俺は入っていないよなとぼんやり思う。それが当然だったはずなのに、今こうしているのが不思議だった。


「沈んだら、藻が絡んで死体が上がってこないとか、聞きますよね」

「へえ」

 先輩は真っ黒な目で海を見る。

「ずっと海の底?」

「なんですかね」

「溺れるのは苦しそうだけど、海の底は見てみたいな」

 光の射さない水底に沈む。それは溺れるよりずっと苦しいだろうと思う。

「……そんなとこ、何も無いですよ」

 声が掠れた。先輩はちらりと俺を見て、「そうかもな」と笑った。



「高野くん、花火しよ、花火」

 先輩は思い出したようにそう言った。

「え、花火持ってませんよ、俺」

「用意しましたー、俺が」

 先輩がポケットから漁って出したのは、花火というより線香だった。


「……どっから持ってきたんですか」

 少し使いかけなのか、先端が灰になっているものばかりだ。先輩は目を細めて笑った。

「墓地にたくさんあるじゃん」

「冒涜ですよそれ……」

「一本ずつ貰ったからバレねえよ。俺の成仏にも協力してくださいって頭下げたし」

 そういう問題なのか分からなかったが、先輩は罪悪感も無く灰になった部分をぽきぽき折る。


「俺、祟られたくないんですけど」

「大丈夫、ライターも俺が用意した。これは拾ったやつね」

 開き直る先輩を見て、もう何を言っても遅いと分かった。

 あとでどこの墓地か聞き出して墓参りしなければと思う。本気で祟られると思っているわけではなかったが、線香を供えた人に対して失礼だった。


「だから高野くんは真面目なんだよな」

 俺が渋い顔をしていると、先輩は考えを読んだようにそう言った。

「別に……てか、花火やりたかったなら言ってくれれば買いましたよ」

「そっか、やさしーね。俺あんま他人に優しくできないからさあ」

 先輩はしゃがんで線香を砂浜に突き立てる。

「死んだやつならなおさらだけど。高野くん変わってるよな」

「いや、普通の感覚じゃないですか」

「そうかなあ」

 ライターは安物らしく、なかなか火がつかなかった。何度もガチガチと音が鳴り、急にオレンジ色の火が灯る。


 砂浜に長さもバラバラに刺さった線香は墓標のようだった。白い煙が立ち上って、潮の臭いに混じって墓場の匂いが漂う。

 しばらく無言で、煙の動きを目で追った。


「……こんなんじゃ駄目か」


 先輩は虚ろに呟いて自分の手のひらを見つめる。手のひらは火傷のせいか皮膚が爛れていた。袖から覗く腕にも痣と擦り傷が大量に生まれて、剥がれかけた瘡蓋から薄っすらと血が滲んでいる。


 俺は先輩の向かいに腰を下ろした。湿った砂の感触が気持ち悪い。

 たなびく煙の向こうで、右目に青黒い痣を作った先輩の顔が見える。


「――先輩って、どうやって死んだんですか」


 あまりに小さい声だったので聞こえていないかと思った。

 でも先輩はあっさりと答えた。

「車にね、轢かれた」

 答えを聞いて、質問したことを後悔した。


「飛び出したんだよ。最悪だろ。死ぬときに他人巻き込んじゃった」

 あっけらかんと笑う顔を直視できない。

「でもさ、なんか急に、今死ねるかもって思ったんだよね。だったらすぐやんないと、また逃すかもしれないから」

 上手く息が吐けない。

「どうせなら海に行けば良かった。溺れて死んだら、まだマシだったかも。今こんな、傷だらけでさあ」

 声に自嘲が混じる。


 顔を上げると、先輩は泣き笑いのような表情を浮かべていた。


「怖いよな」


 怖くないと言えば嘘になるので、答えなかった。


 俺は黙って先輩の顔を見て、潮風で乱れた髪から覗く耳に目を留める。

「すみません、ライター貸してください」

「ん? うん」

 投げ渡されたライターで火を点ける。拍子に火花が散って指先を焦がした。ほんの一瞬痛み、ライターを取り落としそうになる。

「あ、花火っぽい」

 呟く先輩の方に火を向ける。橙色の明かりに血の気の無い先輩の顔が照らされる。

「なに?」

 怪訝そうに問われたが、答えず目を凝らした。ゆらゆらと陰影のできる肌、痣のできた右目と欠けた歯、左目の下にある泣き黒子。


 先輩の顔を、ペンを貸した時の顔を思い出そうとする。


 耳元に違和感を覚えた。もっとよく見ようとした時、ライターを奪われる。

「なんか怖いからやめろよ」

 先輩はどこか不安そうに言って、「帰ろうか」と線香を引き抜いて立ち上がった。


 俺は上手く答えられずに目を伏せる。


 先輩の耳には、ピアスも、ピアス穴も存在しなかった。

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