エラー

 構内にあるベンチにぼんやり座っていると、図書館から出てきた時川と目が合った。

 時川は微妙な顔で俺を見て、それから言いにくそうにぼそぼそと喋る。

「お前……マジで病院行けば? 痩せたよな」

「夏はいつもこうだから」

 そっか、と時川はぎこちなく呟き、俺の隣に腰を下ろす。久しぶりに会ったような気がすると思い、俺が一週間近く大学を休んだからだと気がついた。気圧のせいか、最近ずっと体調が悪い。


「そういや高野、レポート間に合った?」

「一応。資料っつってもほぼ噂話しか無くて面倒だった」

「やっぱりな。てかさ、あの都市伝説続きあるの知ってた?」

「続き?」

 横目で見ると、時川は特に興味は無さそうな口ぶりで説明した。


「死人が戻ってきたとしてさ、そっから先は幸せに暮らしましたーだと怖くないじゃん。だからなのか知らないけど、死人はどんどんおかしくなっちゃうんだって」

 突然暴力を振るいだしたり、一日中黙ったり、支離滅裂なことを口走ったり。

「それでみんな、これなら戻ってこなくて良かったのにって後悔する」

 上手くいくわけないもんな、と時川は曖昧に笑う。

「でもそれを解決する方法が一つある。知ってるか?」


 時川と目が合った。探るような視線に目を逸らす。

 俺は一つ頷いて、立ち上がった。

「レポート書いたんだから、知ってるよ」

「そりゃそうか。結構ひどいよな、あれ」

 それに返事はしなかった。時川は曖昧な笑みを消して、俺を真っ直ぐに見る。

「てか、高野さあ……やっぱ変だよ」

「何が?」

「いやー上手く言えないけど、勘?」

「なんだそれ」

 小さく笑うと、時川はそれ以上何も言わなかった。




 講義が終わって帰ろうとした時、階段の踊り場にある掲示板に貼られたポスターが目に入った。いつのだよ、と言いたくなるような黄ばんだサークル勧誘のチラシから、来週行われる学会の報せまで様々なものが貼りだされている。

 その中に、秋に行われる学祭のポスターもあった。

 学祭のスローガンに加えて、実行委員が笑顔で集合している写真がプリントされている。画素の荒い写真を眺め、端から顔を辿った。知らない人ばかりだった。


 その中で一人だけ、見覚えのある人がいた。


 明るい茶髪に作り慣れたような笑顔。右耳には鈍い色の何かがくっついていて、たぶんピアスだろうと思う。隣の人と肩を組んで、中央寄りの位置に立っている。

 写真の中の先輩は、まるで別人のように見えた。

 なぜだろう。この時はまだ、生きていたからだろうか。


 しばらく写真の前から動けず、誰かが階段を下ってくる足音で我に返った。急いで掲示板から離れ、残りの階段を駆け下りる。

 嫌なことを考えそうになって、今すぐ階段から落ちて頭を打って全部忘れてしまえたらいいのにと思う。

 でも、実行することはできなかった。



 ***



 先輩とは一週間近く会っていなかった。なぜだろうと思っても、こちらから連絡を取る手段が無い。もしかしたら希望通り成仏したのかもしれない。

 そう思ってから、自分の思考の呑気さと異常さに気づいて茫然とする。


 でも、最初に遭った時も突然だった。なら別れる時も突然なのかもしれない。このまま先輩は現れないまま、俺はゆっくりと忘れていく。それが正しいのだろうし、一番ましな結末だ。



 分かっていたのに、部屋の前にうずくまっている先輩を見つけた時、恐怖や忌避よりまっさきに安堵を感じてしまった。



 先輩はもう駄目になりかけているようだった。

 時川の言葉を思い出す。――上手くいくわけないもんな。


 ぐらぐら首を揺らしながら膝を抱えてうずくまっていた先輩は、俺を見てもたぶん一瞬誰だか認識できていなかった。焦点の合わない目は底が抜けたように黒く、溺れた人はこんな目をするのかもしれないと思う。


 身体の生傷は以前見た時より増えていて、右腕は元の肌の色が少なく見えるほど痣で変色していた。先輩は乾いた血のこびりついた唇で笑顔を作り、隠すように右腕を背中に回す。

「ごめん」

 青ざめた顔で先輩は呟いた。

「やっぱり、無理だった……」

 先輩が喋るたびに血の臭いがすることには、気づかないふりをした。



 外に放置しておくわけにもいかず部屋に上げ、救急箱を探す。その間、先輩は所在無さげに立っていた。

「痛み止めって効いてました?」

「……いや、正直、効かない」

「消毒とか絆創膏は」

「キリ無いからいいよ。手当してほしくて来たわけじゃねえし」

 手を止めて振り返った。先輩は俺の方をじっと見つめていた。


「高野くん、分かってんだろ」


 何が、と聞き返した声は掠れた。探し出した絆創膏の箱が軽い音を立てて落ちる。


「俺たぶんもう駄目だよ。なんか最近、頭ン中ごちゃごちゃして、わけ分かんなくなるんだよ」

 蛍光灯の白い光が明滅する。先輩の蒼白な顔がゆっくり歪む。

「本当はもう来ないつもりだったのに、気づいたらここまで来てたし。やっぱ俺さあ、なんかヤバいんじゃないかな。もう、よく、前のことが思い出せないし……」


 乾いた舌が口腔に張りつく。何度か喉を鳴らして、俺はようやく声を発した。

「ボールペン、覚えてますか」

「……は?」

「同じ講義、取ってた時の……」

 先輩は不思議そうな顔で俺を見ただけだった。


 俺の愕然とした顔に何か察したのか、先輩は顔を引き攣らせ、片手で顔を覆う。

「いや、ごめん。ごめん、思い出すから、本当に、」

 ごめんと繰り返す声の調子が徐々におかしくなる。どんどん平坦になって、囁きのように小さくなって、ぶつぶつと途切れてはまた繰り返す。


 俺は一歩下がった。すぐ後ろが棚だった。ぶつかった拍子に、先輩が読んでは適当に積んで戻した本がバサバサ落ちる。


 ごめんごめんと呻くような声はまだ続いている。顔を押さえた手の下から、ぼたぼたと黒っぽい液体が落ちた。畳に染みついて歪な模様を描く。乱れた髪は血で固まって、その下から覗く目は虚ろに彷徨い、やがて俺の方を向く。

 まずいな、と思った。そのまま思考が停止して、俺は棚に背中を押しつけたまま動けなくなる。


 怖かった。怖くて、喉が痙攣して、声が出ない。片足を引きずりながら近づいてくる先輩を突き飛ばすこともできなかった。

 先輩の手のひらの皮膚は焼け爛れて、焦げた臭いが鼻を突く。首に触れられて、絞められると思った。

 間近に、沼のような黒い目があった。


 温い体温と火傷から染み出した血と膿で滑った感触がする。喉元に親指が押しつけられた。ゆっくりと蛍光灯が瞬いて陰影を作る。金縛りのように身体が動かない。

 でも、そこからいつまで経っても首に触れる手に力が篭らなかった。氷のように動きを止めたまま、鼻からも口からも濁った赤黒い液体を垂れ流して、先輩は俺を見る。


 焦点が合う。彷徨う視線が俺を捉える。先輩はぎこちなく表情を作る。


「高野くん、知ってるよな」


 どうすればいいか分かってたよな、と脅すように先輩は俺を睨む。たどたどしい声に縋るような色があった。喉に掛かった手がぶるぶる震えている。

 頼むよ、と囁く声に空気が混じる。ひゅうひゅうと喘鳴のような音がした。先輩は唐突に痙攣するように咳き込んで、耐え切れなくなったように腕を下ろす。やんわりと締まっていた喉が解放され、急に呼吸が楽になった。


「マジで、最悪だ……」

 先輩はうずくまって頭を抱えている。声には苛立ちと諦観が混じっていて、聞いていたくなかった。

 最悪なこの状況を作ったのは俺だ。


「ごめん、なさい」

 何を言えばいいのか分からなくて、でも謝っても意味が無いことは分かっていた。

「ごめんなさい。俺は……」

 あの時、先輩の名前を答えたことに意味など無かったのだ。戻ってくるなど思いもしなかった。


 先輩は顔を上げた。青黒い痣に覆われ、右目は半分塞がっている。髪が焦げたような臭いがした。

「こんな、怪我ばっかで、化け物っぽいよな……」

 そう言う表情は引き攣っていて、笑顔なのか分からなかった。黙っていると、先輩は「笑えよ」と力なく呟く。

「冗談だよ。んな顔されても困るんだよ」

「……笑えないですよそれ」

 無理やり口角を上げると、先輩も今度はましな笑顔を作った。


「……俺、もう、どっか行くよ。できるだけ遠いとこに行ってみる」

 先輩はそう言って、ふらふら立ち上がった。

「今度こそ、戻ってこないから」

 何か言わなければと思った。でもそれより先に、先輩は扉を開ける。温い風が吹き込む。出かかった言葉が消えて、俺は突っ立ったまま動けずにいた。

「じゃあね」

 蒼白で傷だらけの顔は、薄暗がりに消えた。足音が徐々に遠くなる。


 ――これなら戻ってこなくて良かったのに。


 時川はそう言った。死人が戻ってきても、上手くいくわけがないと。

 でも俺はまだ、そう思えなかった。

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