飴玉

 先輩が来なくなって二週間が過ぎた。

 どこまで遠くに行ったのだろうと時々考える。でも、今はもう、あの人がいないことには慣れた。二週間もあれば、一か月と少しの妙な付き合いなんて薄れてしまう。


 ドアを開けても様子のおかしい先輩がうずくまっていることは無くなった。階段を降りると住人が勝手に置いたプランターが並んでいる。

 ぼんやりとそれを眺めて通り過ぎ、ふと先輩がそこに立っていた時のことを思い出した。



 最初に先輩と会った時のことだ。アパートの前で途方に暮れたように立っている男を見つけて、よく似てる人がいるなと思って、少し嫌な気分になったことを覚えている。

 でもそれは間違いだった。


 目が合った時、それがよく似た他人ではなく、死んだはずの先輩だと分かってしまった。


「高野くん、だったよな」

 自信無さげにそう言って、先輩は困ったように笑っていた。

「どうしよう。俺のこと、分かる? 見えてるよな?」

 なんでここに、と俺は混乱したまま口走っていた。死んだはずじゃ、と言いそうになって、それが勘違いだったのかもしれないと思い直した。一か月欠席しているだけで、ただの病欠かもしれないのだ。

 でも先輩は、自らその逃げ道を潰した。


「高野くん、俺の名前言っただろ」


 なんでそんなことしたんだよと、先輩は泣き笑いのような顔でそう言った。



 戻ってきてしまった死人を消す方法は一つだけ――もう一度、死なせるしかない。

 それがあの都市伝説の結末だ。名前を言えば死人が戻ってくる。でもピエロの用意した死人は出来損ないだから、時間が経つと壊れてしまう。歪んでしまったら、殺すしかない。

 俺も先輩も分かっていた。でもどうしてもできなかった。できるわけがなかった。よく知らない相手を殺すことだってできないし、よく知ってしまった後ならなおさらだ。


 せめてあの時、最初に遭った時に殺すべきだった。プランターの前に突っ立っていた先輩を、殴ってでも何でもいいから殺してしまえば良かった。まだその方が可能性はあった。

 何度か考える。殴れば血が出るのだろうか。死体は残るのか。それとも煙のように消えてしまうのか。何度考えても、殺した先を想像できない。

 俺はもう、あのおかしくなった先輩を見ても、どうしても殺せない。だから、いなくなってくれて良かった。それで良かったと思う。


 俺はアパートの前から逃げるように立ち去った。





 大学の近くまで行くと、前に先輩と行った水族館が閉館していることを知った。いないイルカが描かれた看板は撤去され、窓口も封鎖されている。ぼんやりそれを眺めていると、唐突に大学に行く気を失った。

 近くの公園は親子連れが多く、結局駅まで戻ることにした。駅前の繁華街は学生と会社員と職業不明の派手な身なりをした人が入り混じっている。


 することも無くガードレールに凭れて人の流れを見つめる。

 どこか、憑き物が落ちたような気分だった。あの先輩が本当にいたのか、それとも全て俺の妄想だったのか、もうよく分からない。妄想だったらやばいな、と他人事のように思う。


 不意に明るい茶髪の男が目の前を通り過ぎて、一瞬腰を浮かす。でもすぐに先輩ではないと気づいて、少し上げた手を下ろした。

 下ろした手が足に当たって、ポケットに何か硬いものが入っていることに気がついた。

 ポケットに入れた指先が何かを探り当てる。引っ張り出すと、安っぽいピンク色の飴玉だった。先輩に貰ったものだと思い出す。いつ買ったのか分からないようなものを人にあげるなよとぼんやり思い、ふと目を見張る。


 先輩に貰った飴は、確かにここにある。


 手が震えるせいで袋を開けるのにもたつく。中の飴は体温のせいか少し溶けて粘ついていた。幻ではない。

 手の中に転がった飴を見て、一瞬躊躇う。それでも口の中に放り込むと、砂糖の甘さで舌が痺れそうになった。

 甘すぎて不味い。ピンクだからイチゴ味なのかもしれないが、不健康そうな人工甘味料の味しかしなかった。いつまでも舐めていたくなくて噛み砕くと、砕けた飴の鋭利な欠片が舌を傷つけて痛んだ。血の味が滲む。

 疼くような痛みで、これが妄想ではないと分かった。

 あの人は本当にいたのだ。



「馬鹿だよなあ、本当に」



 呆れたような声が、背後、道路の方から聞こえた。



「死人から貰ったものは食っちゃ駄目だろ」



 振り返っても、行き交う自動車の流れしか見えなかった。



 茫然として、でもすぐ我に返って立ち上がる。

 あれは先輩の声だ。


 慌てて視線を巡らせ、道路の向こうの歩道、血に染まったシャツの背が見えたような気がした。

 心臓が早鐘を打つ。同時に横断歩道が青信号に変わるのが見えた。

 まるでいざなわれているようだと思う。青信号を見つめても、それを渡る決心はつかない。茫然としているうちに急かすように青色が明滅して、ようやく一歩踏み出した。

 踏み出してしまえば躊躇が消えて、全力で駆け出した。


 久しぶりの全力疾走はかなりきつかった。喉も肺もすぐに痛んで、足が縺れそうになる。歩道には人が多すぎて、揺れる視界では人の判別などつかなかった。

 さっきシャツの背が見えたあたりを探す。先輩は見つからなかったが、代わりに足跡を見つけた。

 黒っぽい染みと、何かを引きずったような痕。それはふらふらと蛇行しながら続いて、雑居ビルの隙間の路地に続いている。


 息を整えながら路地に入った。細い道は緩く下り坂になっていて、昼間なのに人気も無くどこか薄暗い。


 その先、下り坂を片足を引きずりながら歩く後ろ姿が見えた。


 血に染まって襤褸切れのようになったシャツと、毒々しいほど鮮やかに変色した肌が見えた。先輩、と呟くと、その人は半分だけ振り返る。

 変色した肌がぼこぼこと歪に凹んでいた。額は切れて血を流し、無数の傷痕で相貌は判然としない。


 でも、左目下の黒子と哀しそうな笑い方だけは変わらなかった。

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