化け物
塗り潰されたような黒い目が俺を見て、ぽかんと開いた口から「なんで」という言葉が漏れた。
ゆっくりと近づくと、金臭さが鼻腔を突いた。目を逸らしたくなるのを堪えて先輩の傷痕を辿る。
先輩はこんなに傷だらけになって死んだのだろうか。車の前に自分から飛び出したと言っていた。この人をそうさせたのは、一体何だったのだろう。
もう分からないし、それ以上踏み込む気も無かった。いなくなって助かったと思っていた。
一度死んだはずの人を勝手に戻したのに、俺はどうしてもその責任を取りたくなかった。怖いからだ。
正気を失い、本当に化物のように歪んでいく先輩の姿を見たくなかった。
「先輩、帰りましょう」
腕を掴んだら痛いかもしれないと思って、中途半端に手を浮かせたまま俺は呟いた。先輩は目を瞬き、横を向いたまま困ったように笑う。
「なんだよそれ。やっと殺してくれんの?」
「すみません、俺やっぱ、人を殺すのは無理です」
「だろうな。だから、どっか行くって、言ったのに」
途切れがちな声が萎むように消える。
「なんで来るんだよ……」
咄嗟に答えが出てこなかった。視界の端、路地に人が入ってくるのが見える。
誰かに見咎められる前に、先輩の背中を押して路地を抜けた。
項垂れて歩く先輩を半ば抱えるように歩く。片足が奇妙に捻じれていて、一人ではろくに歩けていなかったからだ。周囲には酔っ払いを抱えているように見えるのか、それとも先輩の姿が見えなかったのか、通報されることは無かった。
「全然、遠いとこにいないじゃないですか」
言うと、先輩は呻くような声を漏らした。
「遠くに行けねえんだよ。電車とか乗っても、気づいたら戻ってる」
項垂れているせいで表情は分からない。そうですか、と呟くように言って、そのまま黙って足を進めた。
真っ昼間の明るい陽気の下で先輩の姿を見ると、より鮮明に傷が見えて残酷だった。強いて視界に入れないようにして、その気遣いが合っているのか分からないまま歩く。行く当ても無く、ただ人のいない方へと向かっていた。
閑散とした道を通ると、静かな分、喘鳴のような呼吸がさっきより大きく聞こえた。咳き込むたびに痙攣するように腕が震えて、俺の肩を打つ。
「本当さあ……何で、来たんだよ。無理なら、どっか行けよ。俺が高野くん殺すかもしれないのに」
抑揚を欠いた声は本気だった。
喉に何か詰まったような気分のまま、俺は呟いた。
「分かってます。俺のせいで」
「違うよ」
先輩は強張った声で遮った。
「違う。高野くんがどう思ってんのか知らないけど、俺は別に、いいんだよ。責任とかいいから、さっさと逃げてほしかったんだよ。じゃないと、またおかしくなって、マジで殺すかもしれない」
首を絞めてきた時の先輩の表情を思い出す。
「でも、先輩、ずっと一人でどうするんですか」
声が震えそうになって、何度か喉を鳴らした。
「行き場無いんでしょう。そんなの辛いじゃないですか……」
一瞬間があって、はは、と乾いた笑い声が隣から聞こえた。
「反論できねー……え、そんな理由で来たの?」
黙っていると、先輩は掠れた声で笑う。
「マジかよ。本当に馬鹿じゃん。放っときゃいいのに」
「そんなこと、普通できませんよ……」
「普通は放っとけばいいんだって。高野くんのやってることってさ、ほぼ意味無いよ」
あっさりそう言い放たれて反論できなかった。
「まあ、俺は助かるけどね」
取って付けたような言葉がただのフォローなのか本心なのか、まだよく分からない。でも確かに少し報われたような気持ちになって、嫌だなと思う。
先輩は小さく息を吐いて、淡々と言った。
「これからどうするの。結構もう、取り返しつかないよ」
砕いて飲み込んだ飴の甘さを思い出す。確かにもう手遅れだ。
「さっさと殺しとけば良かったのになあ」
そんなわけがないとは言えなくて、俺は曖昧に笑って誤魔化した。
「……他になんか、やり方があるかもしれませんよ」
「それマジで言ってる?」
「はい」
自分で選んでしまった手前、そう答えるしかなかった。
ややあって、呆れたような笑い声が聞こえた。
「後悔すると思うけどなあ。俺、絶対またおかしくなる。化物みたいになるかも」
そんなことは分かっている。だから俺は、先輩がいなくなって安心していたのだ。
でも、一か月と少しの間積み上げたものは、簡単に消えなかった。それは二週間で薄れても、完全には消えずに残ってしまった。
「きっと、何とかなります」
俺は、何の根拠も無く、そう呟いた。
少しの沈黙があって、そうだと良いなと、縋るような声が聞こえた。
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