泥沼

 万一のことを考えて電車に乗るのは諦め、一駅分のろのろ歩いてアパートに帰った時には陽が傾き始めていた。


 ふらつく先輩を布団に座らせてタオルを渡す。血か膿かよく分からない染みができて、新しく布団を買わないといけないと思う。

「……とりあえず、俺は夕飯買って来るんで、本とか読んで適当にしててください」

「あー汚すかも」

 先輩はざっくり切れた手のひらを振って笑う。生々しい傷口に目を逸らした。

「別にいいですよ。本はまた買えばいいし」

 そう言うと、先輩は奇妙な表情を浮かべた。

「……そっか。ありがとう」



 陽が傾いて道は赤く染まっている。血をぶち撒けたようだと思い、大量に血を吐いた先輩を思い出して息を吐く。

 これからどうすればいいのだろうと、答えの出ない問いをぐるぐると考えた。

 先輩を殺すことはできない。見捨てることもできない。停滞したまま、このまま俺は死人と暮らし続けるのだろうか。そんなことは無理に決まっているのに。


 何とかなると、本気で信じているわけではなかった。でももう抜け出せなかった。ゆっくりと足元から沈んで、気づいた時にはもう抜けられなくなっている、今の状況は泥沼のようだと思う。



 例のスーパーではなくまた別の少し遠いスーパーまで行き、夕飯を買った。大手スーパーだからか品揃えが良く、花火コーナーが設けられている。夏は花火だと、楽しげなポップ体の字が踊っていた。

 いつもなら見向きもしないが、一番派手そうで楽しそうなものを手に取った。値段を見て思わず顔をしかめたが、手に提げたカゴに押し込む。


 もうできることなどほとんど無い。だからせめてこれくらいはやらなければと、贖罪に似た義務感があった。

 近くに雑貨のコーナーもあって、荷造り用のロープも売っていた。それを見て一瞬足が止まる。


 本当は、何度か実際に殺そうとしたこともあった。丈夫そうなロープを買って、どこを絞めればいいのかネットで検索して、背を向けて本を読んでいる先輩に近づいた。

 でもそこで終わりだ。それ以上身体が動かせない。先輩も気づいているはずなのに、俺が諦めてロープを仕舞ってから振り返る。そして何事も無かったように、何かくだらないことを言って笑う。


 何度も後悔した。先輩の名前を言わなければ良かった。たぶんこれからも、先輩を見つけなければ良かったと何度も後悔するだろう。

 でも見捨てるよりはずっとましだった。




 帰る頃にはすっかり陽が落ちていた。ガサガサと花火でかさばったビニール袋が足にぶつかる。

 アパートが見えてきて歩調を緩めた。何気なく仰ぎ見ると、二階の角、俺の部屋の窓から光が漏れているのが見えた。


 ふと、まだ先輩はいるだろうかと不安になる。勝手にどこかへ行きそうだと思い、窓の向こうに影が差して少し安堵した。


 ガタンと音がした。俺の部屋の中からだ。窓に差した人影は逆光でよく見えず、ただ黒い。


 安堵が溶けるように消えて、足が止まった。窓を仰ぎ見たまま動けなくなる。

 人影はべたりと手と顔を窓に張りつけた。遠いのに、不思議と真っ黒い目だけはよく見えた。


 心臓が跳ねる。見上げたまま、あれが果たして先輩なのか、それとも別の何かなのか混乱した頭で考える。


 ――逃げた方が良い。

 今までで一番、おかしい。


 窓ガラスに押し当てられた手のひらがずるずると下がり、赤黒い線が引かれた。張りついた顔は虚ろに宙を見つめていたが、俺が無意識にビニール袋を落とした途端、視線がこちらを向いた。


 袋から飛び出した花火の鮮やかな色がコンクリートに散らばる。


 砕けた歯が見えた気がした。こうのくん、と口が動いて、そして、哀しそうに笑う。

 正気なのかと一瞬思い、でも、いきなり音を立てて窓に頭をぶつけたのを見て、もう駄目だと思った。


 窓が震えて耳障りな音が鳴る。それ以上見る勇気が無くて目を逸らした。なのに音は絶えない。いつまでもガンガンと音が鳴って、次第に肉が潰れるような柔らかく水っぽい音が混ざる。


 ゆっくりと後ずさる。足の下で花火が潰れる。どこかに逃げなければと思って、俺も先輩と同じように行き場が無いと気がついた。

 とうに境界線は越えてしまったから、もうやり直しなんてできない。


 唐突に音は止んで、顔を上げると、窓に張りついた身体が力尽きたように下に沈んでいくのが見えた。

 完全に見えなくなる寸前、割れた額と血に濡れた頬が目に焼きつく。



 ようやく呪縛が解けたように身体が動いた。


 しゃがんで、投げ出された花火を袋に押し込む。機械的に手を動かしながら、花火の鮮やかな色に、以前、砂浜に突き立った墓標のような線香を思い出した。

 うずくまって口元を押さえる。吐き気がする。手の震えが止まらなくて、ガサガサとビニールの擦れる音がうるさい。

 視線だけ上げると、窓に長く引いた赤黒い線が残っているのが見えた。


 ――帰らないと、と思う。


 こういうことがあると、それを覚悟していたはずだ。分かっていたはずなのに、やっぱりどうしようもなく怖くて、足が動かない。どうか動いてくれと、ひたすら念じた。


 膝が震えた。コンクリートに手を突いて立ち上がり、ゆっくりとアパートの階段に足をかける。古い階段は軋んで、それに被さるようにまた上の方からガタンと音がした。


 何とかなる、と自分に言い聞かせるように呟く。何度も、何度も。


 一歩上がるたびに上からガタンガタンと何かが落ちるような音は大きくなって、何か考えようとしても音に塗り潰されて分からなくなった。

 あと数段で階段が終わる。


 強いて上を見ないようにして、音も意識しないようにして、ただひたすら足を前に出して、ようやく部屋の前に辿り着いた。

 ノブを掴むとひどく冷たくて、ガタンという音ともにわずかな震えが伝わってきた。


 この中にいるのが先輩なのか化け物なのか、開けてみるまでは分からない。窓に残る赤黒い汚れと、沈んでいく血に濡れた顔がちらつく。それを押さえ込むようにビニール袋を強く握りしめた。


 もうとっくに手遅れで、いずれ終わりが来ると分かっていた。先輩は半分壊れていて、生きていた頃とはもう別物だ。また俺の首を絞めようとするかもしれない。今度こそ正気に戻らず、何か取り返しのつかないことが起きるかもしれない。そうなった時にどうするのか、俺はまだ答えを出せないままだ。



 でも、きっとまだ、今日はまだ大丈夫だと祈るようにそう思って、ノブを掴む手に力を籠めた。

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