2:アルルカン
アパート
高校最後の夏休みだし思い出作ろうよ、と浅岡さんに誘われた時、きっぱり断れば良かったと思う。
僕は眼前の廃墟じみたアパートを見上げ、前で騒ぐ連中に聞こえないほど小さく舌打ちした。
「
背後にいた瀬名さんが肩まで伸びた髪を揺らして笑う。少し笑顔を取り繕うと、瀬名さんは呆れたように目を細めた。
「馬鹿だよねえ、今時廃墟で肝試し?」
「……受験生にも息抜きは必要なんだよ」
「面倒だって顔に出てるよ。あ、浅岡ちゃんがいるから来たんだ」
瀬名さんは勘ぐるような調子でもなく、淡々とそう言った。事実そうだったから、僕は小さく頷いた。
一か月弱の夏休み、ほとんど夏期講習で潰された中で唯一まともなイベントがこれだった。高校の近くに有名な心霊スポットがあるからクラスの仲良い連中で行ってみようと、そんな馬鹿げたことを言いだしたのはたぶん広瀬だろう。
広瀬は男子バスケ部で、女子バスケ部の浅岡さんとは仲が良かった。ついでに浅岡さんと仲の良い僕にも声が掛かった。そういう連鎖で、この場には計五人のクラスメイトがいる。
午前中はもっと大勢で普通に遊んで、今は夜出歩いてもうるさく言われない奴らだけが残っていた。一応進学校の看板を掲げている高校の学生がこんなことでいいのかと思うが、結局残ってしまっているので僕も同類だ。
心霊スポットというのは古いアパートだった。学生街の片隅でひっそりと朽ちかけているそこは十年ほど前から無人らしく、特に封鎖もされずに放置されている。割れ目から雑草が生えた外壁とぼろぼろの屋根に覆われた二階建てで、外付けされた金属製の階段は錆びて、突然落ちてもおかしくなさそうだと思う。
心霊云々以前に危険だなあと他人事のように考えた。
階段の下、広瀬と浅岡さんともう一人、名前を思い出せない背の高い男子がいてこちらに手を振っていた。早く来いという合図だろう。僕はできるだけ楽しそうに、瀬名さんは退屈そうな表情を隠しもせずに近寄った。
「やっぱ、部屋は鍵掛かってるわ」
広瀬が眉をひそめて近くの部屋のノブを回す。ガチャガチャと金属音が鳴って、それは夜の街によく響いた。
「ね、あんまりうるさいと怒られるかも」
浅岡さんは言って、同意を求めるように僕を見上げる。僕は曖昧に頷いて、広瀬に向かって笑顔を向けた。
「広瀬、不法侵入で捕まるかもよ」
「捕まる時は一緒だろ。なあ、どっか入れねーかな。どうせたくさんアホな大学生とかが来てるだろ」
まるで自分たちはアホな大学生とは違うと言いたげな調子で少し笑えた。
「つーか、心霊スポットって一階じゃないでしょ」
瀬名さんが唐突にそう言って、広瀬は瞬きしながら振り返る。
「二階の角部屋だけって聞いたんだけど。うちら地元組だからさ、ね、榊」
サカキ。ようやく思い出した。図書委員で、たぶん瀬名さんと仲が良かったはずだ。意外な取り合わせだと思ったことだけ覚えている。
榊はゆっくりと首を傾げて答えた。静かな声だった。
「確か、そう。十年くらい前に、そこに住んでた学生が亡くなったんだって。それ以来変なものが出る」
こわあ、と浅岡さんは本気なのか冗談なのか分からない呟きを漏らす。
「なんで死んだの、その人」
僕が問うと、榊は少し驚いたように目を見張った。
「……自殺、みたいな噂は聞いたけど、よく知らない」
「じゃあその自殺したやつが出る?」
「いや、違ったはず……」
榊は瀬名さんを見た。瀬名さんは欠伸を途中で噛み殺し、涙目のまま角部屋を振り仰ぐ。
「なんだっけ、確か、見る人によってバラバラなんだよね、目撃情報」
バラバラ、と広瀬は釈然としないように眉を寄せた。浅岡さんは再び「こわ」と呟く。
「男だったり女だったり若かったり老人だったり。でも誰にしろ、見た人に関わりのある人が出るんだって。死んだおばあちゃんとか、そういうの」
「じゃあ自殺した人関係無いのかよ」
「そうだよ。だから榊は変なものが出るって言ったんじゃん」
広瀬は不服そうだったが、浅岡さんは朗らかに笑った。
「え、じゃあ全然怖くなくない? 死んだ人に会えるって映画みたい」
瀬名さんは失笑した。
「普通はさ、知ってる人の幽霊でも怖いって」
浅岡ちゃん面白いよねと侮蔑にも取れることを言う。浅岡さんは「そうかな」と首を傾げただけだった。
「でも、そういう噂あるなら色んな人が押しかけそうだけど」
僕が言うと、榊がかぶりを振った。
「地元だと、ここはマジで近寄るなって言われてるから」
「……へえ?」
表情に乏しい顔で見つめられると、冗談かどうか分からなかった。
「なんかね、本当に良くないとか色々噂あるんだよ。ここに入って何か見ちゃった人が頭おかしくなって自殺したとか、家族皆殺しとか、色々」
「やば……」
瀬名さんの言葉に広瀬の顔が引き攣った。帰る流れになるかと思い、駄目押しのように口を開く。
「じゃあやっぱ入らない方が良いんじゃないの。瀬名さんも榊くんも、そんな噂知ってるのに、嫌じゃない?」
「別に?」
瀬名さんは退屈そうな顔をしたわりに、僕の言葉をばっさり切った。
「あたしも榊も気にしないし、肝試しは怖い思いしなきゃ意味無いって」
思わず眉間に皺を寄せると、瀬名さんは歯を見せて笑った。
「とりあえず、二階上がる? 部屋も、たぶん開いてるよ」
あそこだけ鍵掛からないんだってと、とどめを刺すようにそう言った。
錆びた階段が悲鳴じみて軋む。帰りたい気持ち八割、ここで帰っても面白くないという気持ち一割、あとはよく分からない義務感と惰性で足を動かした。
怖いね、と後ろから囁いてくる浅岡さんはどこか楽しそうだ。また舌打ちしそうになるのを堪え、前を行く榊のシャツの皺を眺めた。
夜の十時、地方都市だと街灯しか無いせいで真っ暗だ。スマホライトが交錯して、錆びたドアが見えた。
他のドアと違い、角部屋のドアノブだけガムテープで固定されていた。立ち入り禁止、と手書きの紙が貼りだされていて、真面目なのか手抜きなのか判断に迷う。
僕はスマホを掲げてドア横の窓を照らした。ガラスはひび割れていて、何か黒っぽい汚れが線を引いて残っている。
「うわっ、マジでノブ回った」
広瀬が声を上げ、気味悪そうにドアノブから手を離す。ガムテープは劣化しているのか、少しノブを捻るとぺリぺリ剥がれていった。
「どうする? 本当に入る?」
榊が静かに問う。広瀬は言葉を詰まらせ、僕は目を伏せ、浅岡さんの弾む声だけ耳を突く。
「入らなきゃ勿体ないよ。ね、瀬名さん」
「あー、まあ、あたしはどっちでも。浅岡ちゃん入りたいなら行くよ」
「白崎くんも行こうよ」
袖を引っ張られると無視するわけにもいかなくなった。僕が一つ頷くと、広瀬は諦めたようにノブを掴む。
「じゃ、一応言い出したの俺だし、俺が開けるから。なんか……いても、置いて逃げるなよ」
逃げないよと苦笑まじりに答えれば、広瀬は少し安堵したように表情を緩めた。
ドアはギシギシと音を立てて開いた。埃と黴臭い空気が溢れて淀む。
部屋は思ったよりも狭かった。家具は全て撤去されていて、黄ばんだ壁紙とあちこちに貼られた「立ち入り禁止」の紙が見える。古いものから新しいものまで、つい最近貼られたようなものもあった。
床に落ちた紙を土足で踏み、広瀬は気味悪そうに「なんだよこれ」と呟く。何重にも細い線を重ねて太く手書きされた「立ち入り禁止」は、まるで小さな虫が寄り集まっているようで不気味だった。
「やば、誰が貼ってんだろ、これ」
瀬名さんは物怖じせずに玄関に落ちていた紙を拾う。
「悪戯じゃない? 雰囲気あるねえ」
浅岡さんも瀬名さんが拾った紙を覗き込む。広瀬が助けを求めるようにこちらを見たので、仕方なく部屋の中に踏み込んだ。
靴のまま部屋の中に上がることに一瞬罪悪感を覚える。広瀬はふらふらとスマホライトを揺らし、出鱈目に周囲を照らしていた。
「眩しいからこっち向けないでよ。なんかいた?」
「いねえけど、そこ、変な染みあるんだよ」
白い光に浮かんだ壁、歪んだ楕円形の大きな褐色の染みがあった。液垂れのように染みの痕は床まで伸びている。
「なんの染みだろうな……」
広瀬はわずかに声を震わせてそう言う。
染みは、どことなく、人の形に似ていると思う。壁に背を預けて誰かが座っていたような、そんな形だ。
「うわあ、怖いね」
隣に来た浅岡さんが囁くように言って、瀬名さんは少し強張った笑顔を作った。
「記念に写真撮る? 心霊写真撮れるかもよ」
「そうだよな、せっかくだし……」
「え、この染みと撮るの? 怖いっていうか、なんか趣味悪くない?」
「じゃあ立ち入り禁止の紙だけ撮っとくか? あれも十分ヤバいだろ」
三人が勝手なことを喋っている間、僕は黙って染みを見つめていた。榊も隣で茫洋と染みを眺めている。
「……この染みは、なんか、曰くとかあるの」
沈黙を埋めるように問うと、榊は曖昧に首を傾げた。
「俺は聞いたことない、けど。白崎くんってこういうの興味あるんだ」
「いや別に……思い出作り、みたいな?」
榊は微妙に口角を上げた。
「本当は俺、何回か入ったことあるんだ」
「え、ここに?」
「うん。でも何もいなかったよ」
僕が呆気に取られているのを、榊は可笑しそうに見ていた。
「……それは、なんで」
「会いたい人がいたから。でもなんか、駄目だった」
条件とかあるのかな、と榊は淡々と言う。反応しづらくて、言葉に詰まった。
「……すごい、ね。なんか見ちゃったら、ヤバいんだろ」
「らしいけど、白崎くんはいないの」
死んじゃったけど会いたい人、と密やかな声が聞こえた。
僕は一瞬黙って、いないよ、とだけ答えた。
部屋の不気味さにも慣れて飽きたのか、さっさと写真撮って帰ろうと広瀬が言い出した。適当に室内の写真を撮って、でも狭いからすぐ終わり、何もいなかったなあと分かりきっていたことを言い合いながら部屋を出る。
別に、何か出ることを期待していたわけではない。ほんの少し、非日常な感じを味わえればそれで良かったのだ。実際に不気味なものも見れたわけだし、馬鹿な高校生の安直な肝試しの結果としてはまずまずではないかと思う。
ぞろぞろと連なって狭い玄関を通る。僕は最後尾で、誰かが何か忘れ物でもしていたら嫌だなあとふと思う。
思った途端に、背後から声がした。
「落ちてたよ」
その声があまりに自然だったので、自分の後ろに人はいないはずだとか、でも声にとても聞き覚えがあることだとか、そういう異常に気づくのが遅れた。
振り返って、金色のピンを持っている白い手が見えた。浅岡さんがよく付けているやつだと思い、遅れて、これは誰の手だという当然の疑問が頭を過ぎる。
視線を上げると、真っ白な顔があった。
弧を描く目と唇、左目下で歪む黒子。穏和で、でもどこか機械的な笑顔は、ひどく見慣れたものだった。
「久しぶり、
うわべだけは嬉しそうに、でも底に隠しきれない冷ややかさの滲んだ声に、思考が止まる。
知らないうちに息が止まっていた。押しつけられたピン、その金属の冷たさに怯んで身体が動かない。真っ黒い目が瞬きもせず僕を見つめている。
――ありえない。
混乱が頭の中で渦巻いて、出口を見失う。
抑揚のない喋り方も、穏やかな笑い方も、一見優しそうなのに情の薄さの滲む声も、全部、二年前に死んだ兄そのものだった。
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