我に返った時には部屋の外にいて、訝しそうな視線が自分に集まっていることに気がついた。

「大丈夫? すごいぼーっとしてたけど」

「……ああ、うん、大丈夫」

 劣化したガムテープを垂らしたドアは閉じていて、周囲を見てもどこにも兄の幻影は無かった。


 怪訝そうに僕を見ていた瀬名さんは、「ならいいけど」と呟いて先に階段を降りていく。今階段を降りたら踏み外しそうで、僕はその場にとどまったまま震える拳を握り込む。

 途端、手の中にわずかな痛みを感じた。

 手を開くと、金色のピンがあった。その先端が手のひらを刺して、薄っすら血が滲んでいる。


 久しぶり、悠貴、という声が耳元で蘇った。


 ピンを取り落とした。手がぶるぶる震えて、冷や汗が滲む。あんなのは幻覚だ。妙な話を聞いたから、妙な夢を見ただけだ。そう思いこもうとしても、声の鮮明さも懐かしさも冷たさも、あまりにも生々しかった。でも、兄が戻ってくるわけがない。そんなこと、あるはずがない。

 だって、僕は、兄に会いたいなどと思っていない。

 吐きそうだった。



 ***



 浅岡さんには悪いが、拾ったピンはアパートの廊下に置いてきた。気味が悪かったし、持っていたら何か良くないことでも起きるんじゃないかという疑念が拭えなかったのだ。


 どうにか帰り着いた家は予想通り無人で、リビングのテーブルに千円札が数枚置いてあるだけだった。スマホを確認すると父からは「今日は帰れない」という簡潔なメッセージが届いていて、いつも通りのことではあっても今日だけは帰っていてほしかったと柄にもなくそう思う。

 今から外に買い出しに行くには、暗すぎて無理だった。一番近くても片道三十分掛かるコンビニまで人通りの無い住宅街を歩かなければならない。その途中でまた「久しぶり」などと声を掛けられたら、今度こそ駄目になりそうだ。


 札を放ってソファに身を沈めると、それまで忙しなかった鼓動が少し落ち着いた。でも眠れる気はせず、映画を観てやり過ごそうかとぼんやり思う。

 自分が見たものが果たして幽霊だったのか、それとも別の何かなのか、よく分からなかった。幽霊と呼ぶには生々しく、現実だとすればあまりに異常だと思う。白昼夢でも見ていたというのが一番納得できた。


 ぐだぐだと答えの出ないことを考えながら、父の部屋までDVDを取りに行く気にもなれず、画面が点滅したスマホを手に取る。広瀬から大量にアパートの写真が送られてきていて、そのどれにも僕が見たものは映っていない。適当なスタンプを送ってメッセージアプリを閉じた。

 途端に、スマホが震えだす。


「うわ」


 驚いてスマホを落とした。カーペットに当たって跳ね返った機体を慌てて拾う。

 だが、拾い上げてすぐにまた投げ出した。

 液晶画面には『康貴こうき』と表示されていた。――兄の名前だ。


 震え続けるスマホは幻覚ではなかった。明るいリビングの中、一人でいることを急に意識する。

 兄のスマホなんてとっくに解約しているはずだ。だからこれは兄ではなく、同名の別人のはずだった。でも『康貴』という名前の知り合いは、兄以外いない。


 あり得ないことが起きていた。自分がとうにおかしくなっていることに気づいていないだけなのか、そうでないなら死人から電話が掛かっていることになる。そんなわけがない、何かの間違いだと思いながらも、どうしても通話ボタンを押せなかった。

 誰かが悪戯で登録名を『康貴』にしただけかもしれない。そう思いついて、わずかに呼吸が楽になる。

 だが、低く唸るような音は消えてくれなかった。


 もう電源を落としてしまおうとスマホに手を伸ばす。しかし触れる寸前、唐突に震えが止まった。

 さすがに諦めたのかと思って画面を見た時、息が止まりそうになった。


 なぜか通話中になっている。画面には触れていないのに。


『あー、悠貴、今家にいる?』


 緊張感も恐ろしさも何も無い、平坦な声が流れ出た。


『聞こえてる? なあ、大丈夫? なんで黙ってるの。悠貴?』


 困惑と訝しさの混じった声に心臓が跳ねた。静まり返ったリビングに響く機械音は、まるで兄のような喋り方で兄が言いそうなことを語っている。


『俺、もうちょっとで家着くからさ、チャイム鳴らすから開けてくれない? 鍵忘れちゃって』


 ――家に来るつもりなのか。


 弾かれたように立ち上がる。リビングから走って玄関に辿り着き、震える手でチェーンを掴んだところで出し抜けにチャイムが鳴った。

 あまりにもタイミングが良かった。ピンポンと、高らかに鳴った音は余韻をわずかに残して消える。

 ガチャガチャと耳障りなのは、僕の手が震えてチェーンがドアにぶつかっているからだ。チェーンを掛けるのももどかしく、リビングに駆け戻ってインターホンのモニタを見る。


 白い横顔が見えた。異常に画素が荒くてよく見えないが、誰かがドアの外にいるのは明らかだ。


 カーペットに投げ出したままのスマホはまだ通話中の表示が映っていて、平坦な声を垂れ流している。


『悠貴、いるよな? リビング明かり点いてるじゃん。鍵開けてよ』


 また急かすようにチャイムが鳴った。モニタの前から動けず、リビングからは見えない玄関を意識する。鍵は二重に掛かっているから、さすがに無理やり破られることは無いはずだ。


『なあ、何やってんの? てか、返事しろよ』


 声が一段低くなった。これはキレる兆候だと思って、この得体の知れない声の主が自分の中で兄に確定されているのを自覚した。

 チャイムがうるさい。絶え間なく嫌がらせじみて鳴らされる甲高い音に頭が痛くなる。兄の平坦な声は消えてくれない。


『悠貴。開けてよ。寒いから』


 ひう、と妙な音がして、自分が息を吸い込んだ音だと遅れて気づいた。


 ――悠貴、寒い。


 二年前、電話越しに聞いた声を思い出した。



 モニタを切って玄関に向かう。ぐらぐらと視界が揺れて壁に手を突く。猛烈な吐き気と眩暈で足元が覚束ない。

 チャイムは止んで、代わりに不気味なほど静かになった。それでもまだドアの向こうに兄がいることは、リビングに放置したスマホから途切れ途切れに何か音声が流れていることから分かった。


 玄関に降りる。靴下越しに石床の冷たさが伝わってくる。


 駄目だ、やめろと残った正気が引き留める。でも「寒い」と言ったあの声が耳にこびりついて離れない。

 鍵を開けたら引き返せないと分かっていた。


『悠貴、開けて』


 すぐそばで声がした。頭の中が真っ白になった。

 引き返せない。開けては駄目だ。そんな声が急速に小さくなる。



 気づけばドアを開けていた。


 湿気と熱気を孕んだ空気と淀んだ闇の中、玄関ポーチに男が立っている。

 その人は僕を見て、やっぱりいたじゃん、と肩をすくめて小さく笑った。人好きのしそうな笑顔はどこか造り物じみていて、眩暈がするほど兄そのものだと思う。


「……兄さん」


 無意識のうちにそう呟いて、愕然とした。


 兄みたいなその男は、八重歯を見せて笑い、頷いた。

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