騙る

 なんか前より物少なくなったな、とソファに座ってDVDのパッケージを眺めながら兄は言った。

「俺の物どうしたの? リビングに置いてたじゃん、色々」

「父さんが捨てた」

 落ち着くためにインスタントのコーヒーを淹れて、ついでに兄の分も淹れる。兄用のマグカップは戸棚の奥で薄っすら埃を被っていたので、一度水で濯いだ。


 マグカップを渡すと、兄はソファの前のローテーブルに置く。ちゃんと砂糖二杯入れたよと言うと、兄は少し口角を上げた。

「よく覚えてたね。……いつ捨てたの、俺の物」

「わりと、すぐ」

「お前ら本当、情無いよなあ。俺の部屋、もしかしてもう跡形も無い感じ?」

「跡形くらいはあるけど、半分物置きになってる」

 小さく声を立てて笑う兄を遠巻きに眺めながらコーヒーを啜ると、ひどく苦かった。


「……兄貴、なんでっつうか、いや、なんでなんだけど」

 苦さに狼狽え、波紋を起こす黒い液面を見つめる。

「なんで……てか、死んだ、よね」

 リビングの隅に置かれている小さな仏壇は、まさに今ここにいる兄のためのものだ。そもそも二年前、火葬までされているのを自分の目で見ている。どう考えても幻のはずなのに、ソファに凭れる兄はまるで実在しているように見えた。

「そうだね、死んだよね」

 兄は他人事のように言って、ひらひら白い手を振った。ほんの少し馬鹿にしたような調子が懐かしいと思ってしまう。


「じゃあ、幽霊とか? あれ、ホラー映画、みたいな感じの」

「足あるけどね」

 揚げ足を取ってはぐらかすのはこの人の常套手段だ。

「じゃなくてさ、何なの、お前」

「兄に向かってお前って何だよ」

「いいから答えてよ。普通に、意味、分かんないから……」


 どう見ても生きている時の兄そのものなせいか、恐怖は希薄だった。当たり前のように言い合いをしているのがただ不思議で、どこか麻痺したように恐れも怯えも感じない。

 異常だと思うのに自分の身体が動かなかった。


「お前が心霊スポットなんか行く馬鹿だからだろ」


 兄は愛想の良い笑みを浮かべたまま振り返って、その笑顔のままで突き刺すように真っ当なことを言った。

 弟にお前って言うのは良いのかよ、という言葉は呑み込んで、さっきより細かく小波立つコーヒーの液面を見た。


「……マジで、兄貴なの」

「そう見えるだろ」

「見える、けどさ。ありえないだろ。あんなん、嘘じゃん。心霊現象とか、そういうのって」

「じゃあ初めて経験できたな。おめでとう」

「ふざけないでよ……」

 悪い夢を見ている。何度目を擦っても、兄の亡霊は目の前から消えてくれない。


「もう少し嬉しそうにしろよ、悠貴」

 親しみを込めた声音の底に冷たさが淀む。この人は一度死んだくらいじゃ変わらないなあと、茫然とそう思った。

「父さん、どうせ今日は帰って来ないだろ。映画観る? 悠貴これ好きだよな。ああ、ゲームしてもいいけど、俺下手だから」

 その、こっちが茫然としている間にさっさと話を進めていく速度が嫌だった。


 家族の中で兄だけは要領が良くて、だから要領の悪い僕や父のことを面倒に思って、大学に上がったらすぐに一人暮らしを始めて実家に寄りつきもしなくなった。そのくせごく稀に帰って来た時はするっと溶け込んで、いつの間にか主導権を握っている。小学生の頃に出て行った母親の記憶は薄いが、たぶん兄は母と似ているのだろうと思う。

 兄の要領の良さや人当たりの良さを真似してみても、本物には敵わない。自分の中の停滞した時間が無理やり動かされるようで、ひどく疲れる。その感覚を久しぶりに思い出して、窒息するような苦しさを覚えた。


「いや、僕はもう、寝るから……」

「どうせ眠れないだろ」

 見透かすように細まった目に足が止まる。

「別に……てか、いつまでいるんだよ」

「家にいてなんか悪いか?」

「いや、父さん帰って来たら……てか、僕以外も、その、兄貴のこと見えるの?」

「どうだろうね。見えるんじゃない? ほら」

 ソファから身を乗り出し、兄は僕の手を掴んだ。じわりと温さが滲むように伝わってきて、慌てて振り払った。

「体温もあるしさ、見えると思うんだよね」

 にんまりと口角を上げる兄の顔を見つめ、回らない頭でどうにか言葉をひねり出す。


「じゃあ……まずいじゃん。やっぱ、どっか行ってよ。父さん帰ってくる前に」

「何がまずいの。死んだ息子が帰って来たら親は嬉しいだろ」

「おかしいだろ。てか、父さん絶対、困るよ。嬉しい……嬉しい、かもしれないけど」

 でもおかしいと思う。死人が帰って来てすぐ受け入れられる方が異常なのだ。父はきっとこんな目に遭ったら、再会を喜ぶよりも気味悪がって忌避する。そういう人だ。


「悠貴は困ってんの?」

「……そりゃ、どうしていいか、分かんないし……」

「そっか」

 残念だなと、妙に間延びした言葉を吐く。

「――でも、もう遅い。悠貴が家に入れたんだから」

 弧を描く目は闇が蟠っているように黒かった。

「お前が責任取るんだよ」



 するりとマグカップの取手が指から抜けて、カーペットに当たって跳ねた。黒い液体が飛び散って妙な模様の染みができる。

 陶器が硬質な音を立てて、呆気なく割れた。


「……ふざけんなよ」

 噛みしめた歯の隙間から声を漏らす。兄は可笑しそうに眉を上げる。

「ふざけてないだろ。全部お前のせいなんだからお前が責任取れよ」

「こんなことになると思わなかった」

「ひどい言い訳だな。あんな場所に行ってさ、お前もお前の友達も馬鹿だよ」


 兄は正論しか言わない。自分でも本当に馬鹿だと思う。でも、誰がこんなことを予測できるだろう。

 榊なら良かったのに、と思う。榊は会いたい人がいると言っていた。

 でも僕は、この人に会いたくなかった。


「じゃあ、どうすればいいか教えてよ。責任取ったら、兄貴は消えるんだよな?」

 そうあってくれと思う。だが、兄はにやにやしたまま首を傾げた。

「そんなに俺に消えてほしいの? せっかく再会したんだから色々話すことあるだろ」

「無いよ。早く消えろよ。父さん帰って来たらどうすんだよ」

「今日は大丈夫だって。てか俺、父さんにまた会いたいし」

「嘘吐くなよ!」


 声を荒げ、それからはっとして顔を上げた。

 兄は能面のような無表情で僕を見つめていた。


 まずい、と思った。あの顔は何度も見た。兄は基本穏やかなのに、唐突にキレる時が稀にある。どこがトリガーなのかしばらく分からなかったが、兄に本気で逆らおうとするとそうなるらしいと徐々に学んだ。

 僕も父も良い人間ではないし善人というには何かが足りなかったが、兄が一番、欠けたところが大きかった。


 兄はいきなり立ち上がった。真顔のまま大股で近づいてきて、無造作に伸ばされた手に気づいて咄嗟に目を瞑る。

 だが、いくら経ってもその先は無かった。小さく息を吐くような音がして薄く目を開けると、目の前、兄はぐしゃりと髪を乱して俯いていた。



「……嘘じゃない。嘘じゃないから」


 ぽつぽつと呟く声はどこか怯えたように震えていた。

 この人がそんな声を出すとは思わず、唖然として目を見張る。


「悠貴が俺のことどう思ってんのか大体分かるけど、俺はまた会えて良かったと思ったんだよ。本当に」

 嘘だろ、という言葉はつっかえて出てこない。こんなに弱弱しい兄を見るのはほとんど初めてで、どう反応するべきなのか分からなかった。


「本当は俺も、どうしていいか分かんないんだよ。お前がやめろって言うなら父さんには会わない。だから頼むから、ここから追い出さないでくれ」

 半ば哀願するようだった。俯いているせいで表情は見えない。


「……でも、兄さん友達多いだろ。そっち行けばいいじゃん。会いたいやつとか、もっと他にいるだろ……」

 一体自分は何を言っているんだろうと思いながら、譫言じみた言葉を吐いた。

 兄は顔を上げ、苦笑するように口角を上げる。

「普通怖がるだろ。家まで上げるの悠貴だけだ」

「僕が間抜けだって話かよ」

「違うよ」

 兄はしばらく迷うように目を揺らし、それから気が抜けたように笑った。


「ああ……たぶん、お前に一番会いたかったんだよ」


 弟だもんな、と似つかわしくなく家族愛のようなことを語る兄に、信じていいのか疑うべきかを秤にかけて、でもいつまで経っても結論は出せなかった。

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