二年前、兄は旅行先で事故に遭って死んだ。

 馬鹿みたいな話だった。大学の卒業旅行でフェリーに乗って、甲板から落ちて死んだのだ。泳げたはずなのにと思ったが、少し酒を飲んでいたらしい。あるいは、海水温が低くて低体温症になって身動きが取れなかったのかもしれないという。

 どちらにせよ兄の不注意が招いた、ただの事故だった。


 甲板から落ちる前、兄は僕に電話を掛けていた。たぶん酔っていた。でないと、あの人が大した用も無いのに電話してくるなんてありえない。

 そもそも兄が卒業旅行に行っていたことすら知らず、ちょうど期末テスト前で苛ついていた僕は、通話ボタンを押した途端に聞こえてきた浮ついた声にほんの少し殺意を覚えた。

 いきなり切ったら不機嫌になるかもしれないと思って適当に流していたせいか、兄が何を喋っていたのかろくに覚えていない。一方的に垂れ流される雑談の隙間に「テスト前なんだけど」と無理やり口を挟むと、兄は意外とあっさり引き下がった。


 切る直前、兄は妙なことを言った。

 ――悠貴、寒い。

 冬なんだから当たり前だろうとか、僕はそんな言葉を返した気がする。

 たぶん、その後すぐ、兄は甲板から海に落ちた。


 電話を切るべきじゃなかったとか、そういう後悔は一か月で終わった。電話が繋がっていたとしても、僕は兄が誰と旅行に行っていたのか知らない。だから、兄が甲板から落ちたことにしばらく誰も気づかなかったという状況を変えられたはずも無かった。むしろ、兄が死ぬ時の音を聞かずに済んで良かったと思った。

 なのにまだ、兄が最後に言ったどうでもいい言葉を忘れられないままだ。





 翌朝目覚めて一階のリビングに入った時、ソファで寝ている兄が見えて思わず溜息をついた。

 悪い夢が継続しているのか、幻覚を見ているのか、本当に実在しているのか、どれが一番ましな答えだろうと考える。

 だが、答えが出る前に兄が目を開けた。


「……制服だ。夏休みなのに」

「塾だから。そんなとこで寝るなよ。父さん帰って来るじゃん」

 考える前に言葉が飛び出した。兄がまだこの家に住んでいた頃のようなやり取りに、一瞬時間の感覚を見失う。


「俺の部屋、ほんとに物置きで寝れなかったんだよ……」

 呟く声を聞きながら食パンを焼く。兄は苺ジャムが好きだったが、僕も父もジャム自体好きではなかった。何を塗ろうと冷蔵庫の中を見ていると、いつの間にか兄が背後に立っていた。

「言い忘れてたけど、俺別に飯いらないから」

「……もう焼いちゃったんだけど」

「二枚食えよ」


 言って、シンクを指差す。昨日用意したマグカップが置かれていて、中のコーヒーが半ば泥のように粘度を持って溜まっていた。見た目の気持ち悪さに思わず目を逸らす。

「……なにこれ」

「コーヒー、のなれの果て」

 腐ってもこんな風にはならないと思う。何が原因なのかは明らかで、隣の兄を見ると淡々とした目が返ってきた。


 兄は蛇口を全開にしてコーヒーなのか泥なのか分からない液体を流した。

「それ、わざわざ僕に見せるために置いといたの?」

「口で言うより分かりやすいだろ」

 真顔で言ったのを見て文句は呑み込んだ。代わりに少し焦げた食パンを齧る。

「とりあえず、父さん昼間には帰って来ると思うから、それまでにどっか行っといて」

「うーん……」

 了承したのかどうかよく分からない呻きが返ってきた。


「お前が通ってんの、どこの塾?」

「……兄貴と同じ。駅前の」

「あー、どんくらいに終わる?」

「いつも、八時くらいまではいるけど」

 意図の見えない尋問に不審な目を向けると、にっこりと友達に向けるような笑顔が返ってきた。

「じゃあそのくらいに迎えに行くから」

 あんま頑張りすぎるなよと、兄は気味の悪いほどにこやかな言葉を吐いた。



 ***



 冗談だろうと思っていたので、塾の入ったビルの前、ガードレールに凭れている兄を見つけた時は驚いた。

「お疲れー」

 人の流れを横切って近づいてくる。棒立ちしたまま、言うべき言葉を必死に探した。


「……本当に来ると思わなかった」

「行くって言ったじゃん」

 何言ってんの、と可笑しそうに言う兄を見上げ、目を逸らす。

「……別にいいよ。遅い時間でもないし……」

「なんかやらないと暇なんだよ」

 暇つぶしかと納得した。頷きかけてから、はっとして周囲を見る。


「もしかして、僕、虚空に向かって喋ってるやばい奴になってる?」

 兄は薄く笑って首を傾げた。

「そんなことないと思うけど。だって俺、買い物できたし。これやるよ」

 ジュースのペットボトルを押しつけられた。

「コンビニでこれ買えたから、やっぱ見えるんだよ。ちょっと手こずったけど」

「手こずるって?」

「店員さんに声掛けてもなかなか反応してくれなかった。あれかな、影薄くなってんのかな」

 冗談のように笑う兄に付き合って少し笑う。渡されたジュースはもう温くなっていて、今朝のコーヒーの惨状を思い出すと飲む気にはなれなかった。



 飲み屋の並ぶ繁華街の通りを連れだって歩き、家へ向かう。兄と一緒に帰るのは小学生ぶりだろうか。居心地の悪さと緊張と、ほんの少しだけ懐かしさを覚える。


 何を話していいか分からなかったが、兄は勝手に適当な話を続けていた。煌々と漏れる飲み屋の明かりに照らされて染めた髪の根本が黒くなっているのが見える。視線に気づいたのか、兄はふとこちらを見た。

「なに?」

「いや、髪、染めてたっけ」

 明るい茶髪は兄の印象とどこかそぐわなかった。記憶の中、一番最後に見た時はもっと暗い色だったような気がする。


 兄は、ああ、と呟いて髪を摘まんだ。

「いつ染めたっけな……悠貴もやりたいの?」

「うちの高校駄目だろ」

「大学生になったらだよ。そういえば志望校どこなの」

 気が進まなかったが、瞬きせずに見つめられて諦めた。学校名を呟くように答えると、兄は一拍置いて口角を上げた。


「俺んとこじゃん。高校も大学も一緒かよ。まあ俺関係無いけど」

「近いし偏差値ちょうど良いし楽なんだよ……」

「確かにな。楽で選ぶのは良くないけど」

 いきなり真っ当なことを言われ、「そうだけど」と口ごもる。兄という成功例がある分、志望校として選びやすかったのだということは言えなかった。



 繁華街を抜けるとやがて閑散とした住宅街に変わる。僕はペットボトルを持て余したまま、徐々に黙りがちになる兄の様子を横目で窺っていた。

 どう見ても生きていると思う。身体を切り開けば何か違うのだろうか。この人の身体に血が流れているのか、脈はあるのか、切り開いて確かめて、生きた人間とは違うことが分かれば安心できるだろうか。


「父さん」

 唐突な単語に足が止まりかけた。

 兄は前を見据えたまま、やや俯いて言う。

「最近どう……ってか、家帰ってんのあの人」

 家族に対する言葉にしてはずいぶん距離があった。

 でもそもそも、うちは距離の遠い家族だった。母親はたぶんそんな僕たちに愛想を尽かして出て行って、それが分かっていても直そうと努力できないくらいには根深かった。


「週に三、四回は帰って来るから別に。時々出張で一週間くらい空けるけど」

「顔合わせる?」

「合わせないけど、小遣い貰ってるし、僕もあんま家にいないから……二年前もそうだったじゃん」

 そう、と言った兄は珍しく憂うような表情をしたように見えた。一番顔を合わせなかったのは兄だが、それは言わずに口を噤んだ。



 のろのろと歩いて十五分ほどで家が見えた。リビングの電気は点いていたが、父がそこにいるのか、点けっぱなしにしてどこかに出掛けたのか、確率は半々くらいだ。

「……兄貴、今日もうち来るの」

「他にどこ行くんだ」

「消えたりできないの。ほら、煙みたいな感じで」

「んなのできるかよ。なに、公園で寝ろってこと?」

 兄は嫌そうに眉をひそめた。父さんに見つかったらまずいし、と言い訳のように繰り返す。


 しばらく沈黙が落ち、兄はぐしゃりと髪を搔き乱して苛々と地面を蹴った。

「……分かったよ。どっか行く」

 まさか受け入れられるとは思っていなかった。驚いて顔を上げると、兄は微妙な顔で僕を見て、特に何も言わず道を引き返していった。


 茫然とその背を見送る。後ろ姿が闇に呑まれて見えなくなり、それからようやく身動きできた。

 遅れてやってきた震えで、ペットボトルを取り落とした。


 うずくまってペットボトルを引き寄せる。震える手を擦り合わせて、頼むから止まってくれと願う。

 怖いというより、ただ混乱した。現実と妄想がぐちゃぐちゃになって混ざって区別できなくなって、そのまま自分が壊れていくのかもしれないと思う。どう考えても僕は何かの病気で、なのにこのペットボトルは実在して、さっきまで兄みたいな人が兄みたいなことを喋っていた。

 それを受け入れてしまいそうなのが恐ろしい。



 家に入ると、父はいなかった。電気を消し忘れたままどこかへ行ったのだろう。

 僕は抱えたペットボトルの蓋を開けた。中身の液体は腐っていなかったが、蛇口を全開にしてシンクに流した。


 どくどくと液体が零れて排水溝に落ちていく。水に混じって流れるオレンジ色が消えてから、ようやく息を吐いた。

 空になったペットボトルが床に当たって跳ね返り、水を撒き散らして転がっていく。


 どうしよう、と呟いた声が自分でも惨めだった。

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