金魚
兄と最後に遊んだ記憶は小学四年生の夏休みだ。兄は高校一年で、年が離れているせいか当時からあまり仲の良くない兄弟だったと思う。
その日は小規模な夏祭りがあって、どうしてもかき氷が食べたくなった僕は父親にせがんで小遣いを貰おうとした。いつもなら黙って小遣いをくれる父は、どういう風の吹き回しか、あるいは子供を放っている罪悪感からか、ソファで寝転んでいた兄に向かって「連れてってやれ」と声を掛けた。
兄は小さく眉をひそめて、「分かった」と短く答えた。
気詰まりだったという記憶だけが残っている。兄は最初大股で歩いて、僕は必死について行こうとして小走りになった。途中で気づいたのか、兄は歩調を緩めて僕の腕を掴んだ。
触れた手は夏なのに冷えていて、見上げた顔に表情は無く、機械みたいな人だとぼんやり思った。
僕はブルーハワイのかき氷を買って、兄は夕飯代わりの焼きそばを三つ買った。人混みを抜けて路肩に座り込んでかき氷を食べている間、兄は目の前に立ってスマホを眺めていた。
時折、兄が学校から帰ってくるところを見かける時があった。そういう時、兄は何人か友達とつるんでいて、家では見たことのないような明るい笑みと明るい声で喋っている。
それで、僕も父も嫌われているんだなあと思った。
ブルーハワイのかき氷は食べ終わる頃には美味しくなくなって、ほとんど義務感で残ったシロップを流し込んで片付けた。食べ終わった、と声を掛けると、兄はスマホから目を離して僕を見て、「舌真っ青」と抑揚のない声でそう言った。
僕はもう少し屋台を見て回りたかったが、兄はさっさと家に向かった。来た時と同じように腕を引っ張られながら、僕は金魚掬いの屋台の前で足を止めた。
ただ、色とりどりの金魚が綺麗だなと思っただけだ。地面に置かれたビニールプールの周りには子供たちがしゃがみ込んでいて、楽しそうに歓声を上げていた。跳ねた水が屋台にぶら下がる電灯に照らされて輝き、地面に染みを作っていく。
「やりたいの」
かたわらで声がして、それが兄の声だと分かるのに少し時間が掛かった。
やらせてくれるのかという驚きとわずかな期待で頷くと、兄はゆっくり、何か悩むように首を傾げ、それから黙って僕の背を屋台に向かって押し出した。
紙のポイはすぐに破れて、自力で掬うことができたのは一匹だけだった。それでも嬉しくて掬った金魚を見せて笑うと、兄は曖昧な笑みを作った。
それから、ビニールに入った金魚を手に提げて帰った。行きは気詰まりなだけだった道が、帰りは少し楽しかったと思う。
徐々に祭りの喧騒は遠くなって、住宅街に入るとほとんど絶えた。なんだか別世界のようだったと思って、でもぶら下げたビニールの中で泳ぐ金魚を見るとまだ祭りの中にいるように思えた。
家が見えてきて、兄は少しずつ歩調を緩めた。するりと僕の腕を掴んでいた手が離れて、悠貴、と小さく呼ばれた。
「育てられるか?」
目を瞬いて兄の顔を見上げると、兄は苦笑か苦渋か分からない表情を浮かべた。
先に訊くべきだったよなと、呟くような声が聞こえた。
兄は僕の手首から金魚の入ったビニールを取って、代わりに焼きそばの入った袋を押しつけてきた。
「お前どうせ、世話し続けるのとか無理だろ」
断定口調に反論できず、実際自分でもそうだと思ったから、僕は兄に奪われた金魚を黙って見つめるしかなかった。
「先帰って。焼きそば、紅ショウガ入ってないのがお前のやつ」
手に鍵も押しつけられ、僕は金魚をぶら下げて来た道を戻っていく兄の背をぼんやり見送った。
しばらくして兄は手ぶらで帰ってきた。僕を見ても何も言わず、こちらから訊くのも気が引けて、そのまま金魚のことは触れずに一緒に焼きそばを食べた。
今もまだ、金魚をどこにやったのか訊けないままだ。
***
物音がして目が覚めた。
暗い部屋の中、ぼんやりと天井が見える。懐かしい夢を見たような気がして、でもどうしても何を見たのか思い出せなかった。
半分眠った意識のまま、耳を澄ます。ポタポタと小さな音が続いている。天井から水でも漏れているのだろうかとぼやけた頭で考え、何気なく巡らせた視線の先、部屋の隅に黒い影が蟠っているのが見えて身体が硬直した。
――誰かいる。
ぐ、と喉奥で変な音が鳴る。慌てて奥歯を噛んで声を堪えた。
影はのろのろとベッドに近づいてきた。びたびたと水で濡れたような足音がする。濁った池に似た臭いがして、いつの間にか息を止めていた。
視界の端、見覚えのある服がちらつく。影はゆっくりと身を屈め、同時に水の腐ったような臭いがきつくなる。顔を覗き込もうとしているのだと分かって必死に目を瞑った。
頬に氷のように冷たい液体が触れた。息がかかる。
冷え切って生臭い、死人の臭いだ。
不意に、ぶつぶつと呟くような声が聞こえた。影が喋っているのだと思った。密やかに絶え間の無い声は最初意味を為していなかったが、唐突に、何を言っているのか理解する。
――悠貴、寒い。
ずっとその言葉だけ、繰り返していた。
思わず目を開く。頭上に蟠った闇が見えて、そこから徐々に人の輪郭を見出す。
青白い顔は濡れ、染めた髪から水滴が垂れてまるで泣いているように見えた。真っ黒い目が僕を見つめていて、目が合うと、ゆっくりと歪む。
それが笑顔だと気がついて、兄はこんな顔だっただろうかと思って、不意に溺れたように息が苦しくなった。
視界の端がじわじわ黒くなる。口を開けても息ができない。手足が冷えていく。影は瞬きもせずに僕を見つめて、にやにやと笑っている。
これは誰だろう、と朦朧とする中で思う。
兄はこんな人だっただろうか。何か違うという気がするのに、違和感の正体は掴む前にぼやけて分からなくなっていく。
きっと、戻ってきたのは兄ではなかったのだ。
――戻ってきたのはたぶん、兄の紛い物だった。
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