偽物

「昨日の夜、兄貴、僕の部屋に来た?」

 父が会社に行った後、当たり前のように家にやって来た兄をリビングに通す。ソファに凭れる背に向かって問うと、兄は訝しそうな顔で振り返った。

「夜? お前がどっか行けって言っただろ」

 嘘のようには見えなかった。そう、と呟くと、兄は少し笑う。それから思い出したようにポケットを探って、何か投げ渡してきた。


「これやるよ」

「なに――チョコ?」

「勉強する時は糖分欲しくなるだろ」

「ああ……ありがとう」

 わずかに温いのは兄の体温だろうか。ジュースと同じように後でこっそり捨ててしまおうと思う。


「てか、今日も塾なの?」

 制服を指差され、かぶりを振った。

「今日は登校日。昼過ぎには帰る」

「そっか。迎えに行こうか」

「なんでだよ……」

 兄は意味の分からない笑みを漏らして、「いってらっしゃい」と手を振る。


 その親しげな仕草がどうしても慣れなくて、やっぱりこの人は紛い物なのだと思った。



 ***



 教室のざわめきの中に身を置くと、ずっと張り詰めていた精神が緩むような気がした。勉強ばかりだという文句やどこかに出かけたという思い出話が教室を明るく満たしている。

 今、家で僕を待っているあの人の存在だけが日常から乖離していた。


「白崎くん、おはよう」


 ざわめきの中を縫うように低い静かな声が聞こえて、振り返ると榊が立っていた。

「……おはよう」

「あのさ、大丈夫?」

 淡々とそう言われて、何が、と問い返した僕の顔は引き攣っていた。


 榊は少し眉を寄せ、手に持っていたスマホを軽く振った。

「グループ、白崎くんだけ何も反応してないから。いつも何か返してるのに珍しいと思って」

 慌ててスマホを開くと、グループチャットのメッセージが大量に溜まっていた。普段はまめに返すようにしているが、最近はそれどころではなかったので忘れていた。

 メッセージを遡りながら、榊も同じようにほとんど反応していないと気づいた。


「榊くんも返してないじゃん」

「俺はいつも返してないから。瀬名が祟りじゃないかってちょっと心配してたよ」

 返す笑顔は少し強張ったが、声はいつも通り出た。

「あのアパートの? 瀬名さんってそういうこと言うんだ」

「白崎くんちょっと嫌がってたのに連れてっちゃったの気にしてるんだろ。でもマジで顔色悪いよ」

「そう、かな……」

 何の意味も無く頬を撫でる。寝不足の自覚はあったが、指摘されるほどひどいとは思っていなかった。


 榊は僕の隣の空いている席に座り、少し躊躇ってから言った。

「でも、あの日……アパート行った後、ちょっと様子おかしかったから――なんかあった?」

「……別に」

 何も無いよ、としか言えなかった。説明しても正気を疑われるだろうし、僕も自分の正気を疑っていた。


 榊は頷いたが、納得しているようには見えなかった。でも隣の席の主が教室に入って来たので、諦めたように立ち上がる。

「あ、あのさ」

 ふと思いついて呼び止めると、榊は無言で振り返った。

「あのアパートの噂って、他に無い? もうちょっと詳しいやつ」

 なぜ知りたいのか訊かれると困ると、言ってしまってからそう思った。

 だが榊は特に詮索せず、一度だけ頷いた。





 校舎から出ると白々とした陽に炙られる。項垂れていると晒されたうなじが焼きつくようで、足早に校庭を横切って門を出た。

 眩しさに目を細めてアスファルトの地面を睨む。家に帰りたくないなと思った。今朝貰ったチョコは捨てようにも捨てられず、ポケットの中で溶けかけている。


「悠貴」


 蝉の声に混じって低体温の声がして、顔を上げると兄がいた。学校を囲むフェンスに凭れ、軽く手を上げている。

 本当に迎えに来るのかという驚きと、逃げられないのかという絶望に似た気持ちで足が止まった。

「……暇なの」

「暇だよ。お前以外喋る相手いないんだから」

 兄の白い顔は、夏の陽気の下でも不健康に青ざめていた。昼間でも身体は透けないんだなとどうでもいいことを考える。


 僕のせいなのだろうかとふと思った。

 兄は責任を取れと言った。あの場所に軽率に行った責任。兄が戻って来てしまったことへの責任。

 でもどうすればいいのか分からなかった。



 並んで歩く間、お互いに黙っていた。いつか祭りに連れて行ってもらった時のようだと思う。

「……兄さん」

 呼ぶと、兄は僕を横目で見た。

「あのさ、何が――したいの。なんでずっと家に来るんだよ」

「行き場無いって言っただろ」

「前は寄り付きもしなかったのに……」

 まあ、と曖昧な声が聞こえた。見ると、兄は困ったように眉をひそめて俯いている。


「兄さん、前はそんなんじゃなかった」

 違う人みたいだと呟くと、兄は強張った顔で僕を見た。

 以前の兄なら、いくら暇でも迎えに来るなんてしなかったはずだ。チョコもジュースも、弟に何か買ってくるような人じゃなかった。


 兄は視線を彷徨わせ、わずかに震える声で言った。

「まあ、あんま、仲良くなかったからな……」

 無理やり作ったような笑みが浮かんで、すぐ消える。そうだねとも言えず、僕は足先を睨んだ。



「――だから、せめて、やり直したかった」


 予想外の言葉が聞こえて、顔を上げた。目が合うと兄は狼狽えたように視線を逸らした。

「兄弟らしいこと、全然、しなかったから。今なら何か……できるんじゃないかと思った」

 息が詰まりそうだった。なんだよそれと思った。

「遅いよな……」


 死んだ後からやり直して何になるのだろう。本当に遅いと思う。自分が何をどう思っているのか、今すぐ怒鳴りたいのか泣きたいのか、混乱して分からない。

 ただ、生きているうちにそう言って欲しかったと思う。


「兄貴はそんなこと言わないよ」

 呟くと、兄はゆっくりと口角を上げた。泣き笑いのような顔だった。

「じゃあどう言えばいい」

「僕に分かるかよ。ろくに喋らなかったのに」

「悪かったよ。どう接すればいいのか分からなかったから」

「……嫌われてると思ってた」

 兄は小さく目を見開いて、そして息を吐いた。


「年が離れすぎてて……小さい子供相手に何話せばいいのか分からなかったんだよ」

「でも兄貴、友達と話す時はよく笑うのに、家だとずっと黙ってたし」

「そりゃ、友達相手と家族相手の時は違うだろ」

 呆れたような声が聞こえて、兄は小さな笑い声を立てた。不思議とその声は、以前より冷たく聞こえなかった。

「ごめんな」


 ――今の兄は、僕が言ってほしかったことばかり言う。

 最悪だ。この人は紛い物のはずなのに、本物だと信じたくなってしまいそうだった。



 手持ち無沙汰になってポケットに手を突っ込む。

 どろどろ溶けていくチョコに指先が触れて、いつ捨てようか、そもそも捨てられるのかとぼんやり思った。

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