アルバム

 スマホの画面が瞬き、通知が出た。榊からメッセージが届いていた。

 箇条書きであのアパートの噂が連なっている。ベッドに寝転びながらスクロールして確認したが、ほとんどが一度聞いたことのあるものだった。

 ――十年前にあそこに住んでいた学生が死んで、それ以来妙なものが出る。それは見る人によって変わり、共通しているのは見る人に関わりのある死者だということだけ。


 見てしまったら良くないことが起きる、という噂も多いらしいが、具体的な話は出てこなかった。噂なんてそんなものだと思うが、少し当てが外れたような気分になる。

 こういう時、寺や神社に行けばお祓いでもしてもらえるのだろうか。でも兄は幽霊には見えない。あの人が一体何なのか、ただ異常だということしか分からなかった。


 最後、また榊からメッセージが来た。


 ――あそこで死者に会った場合、喋ってはいけない、家に上げてはいけない、物を貰ってはいけないっていう話も聞いたことがある。


 スクロールする指が止まった。もう全部やってしまった後だ。


 ――もしやっちゃったら、戻ってきた人をもう一度あの世へ送るしかない。


 その言葉が何を意味しているのか分からず、それどういう意味、と送ると、すぐに簡単な返事が来た。


 ――殺せばいいんだよ。


 そんな馬鹿な、と笑うことはできなかった。


 兄はどこにも行けないまま、いつまでもここに居座り続ける。でもこの状態をずっと続けられるわけがない。あの人はもう死んだのだ。


 榊にスタンプだけ送って、スマホを放る。

 徐々に逃げ道を塞がれていくような気がした。




 ぼんやりと天井を眺めていると、階下からドアが開く音がした。父が帰って来たのだろうかと思い、ふと、兄は今どこにいるのだろうと考えた。

 学校から家に帰り、そのままずっと部屋で勉強していたから兄の姿は見ていない。リビングで映画でも見ているのだろうと思っていたが、父が帰って来る前に家を出ろと言い忘れていた。

 まずい。鉢合わせたらどうなるか分からない。


 慌てて部屋から出て、真っ暗な廊下に驚いて足が止まった。静まり返った家の中は人がいるようには思えず、階段を降りると暗いリビングが見える。

 ――誰もいない。

 見慣れた光景だが、今は逆に不安だった。とりあえず廊下の電気を点けて玄関に向かうと、ドアの鍵が開いていた。


 帰った時には閉めたはずなのに。茫然とそう思ってから、さっきの音は兄が外に出て行った音ではないかと思い当たった。鍵を閉め忘れたまま外に出たのかもしれない。


 肩から力が抜けた。とりあえず鍵を掛けてゆっくり息を吐く。なんだか馬鹿馬鹿しくなって部屋に戻ろうとした時、今度は二階で物音がした。

 また、ドアを開けたような音だった。


 二階に続く階段の先は暗い。目を凝らしても、階上に誰かいるようには見えなかった。じゃあこの音はなんだと思っても、今度は理由が思いつかない。

 ゆっくりと階段を上る。上がっていくうちに妙な臭いがして、遅れて、潮の臭いに似ていると気づいた。

 二階に上がると足の裏がぬるりと滑って、蛞蝓が這った後のように濡れた痕が伸びているのが見えた。その痕は廊下をずっと続いて、兄の部屋の前で途切れている。


 鼓動の音がうるさい。この家の広さと静寂をいきなり自覚して、無意識に後ずさった。すぐに階段の端に足が掛かって踵が浮く。

 とにかく逃げたいという思いと、確かめたいという思いがぶつかって動けなくなった。でも、逃げてしまえば家に帰れなくなる気がした。――それよりもあの部屋を見て何も無いことを確かめた方がましだ。


 手探りで廊下の電気を点ける。明るいだけでも少し落ち着くような気がした。それからスマホを出そうとして、部屋に置いたままだと思い出す。僕の部屋は兄の部屋よりも奥だ。

 スマホは諦め、壁に手を突きながら少しずつ廊下を進む。進むたびに海辺のような潮臭さはきつくなって、やがて兄の部屋のドアがわずかに開いているのが見えた。


 足先でドアを押すと、ゆっくりと開いていく。暗い部屋の中には段ボールや邪魔になった家具が押し込まれていて、兄が暮らしていた頃の名残はほとんど消えていた。

 壁際のスイッチを押しても電気は点かない。廊下から差す明かりだけで照らされた部屋には誰もいないように見えた。ただ、すぐそばの本棚に触れると少し湿っていた。


 無意識に一歩進む。爪先に何か硬いものが当たる感触がして見下ろすと、淡い緑の表紙が目に入った。

 アルバムだ。懐かしいなと思う。母がいた頃は家族写真も撮っていたが、母が出ていくと撮ろうと言う人がいなくなって、アルバムを作ることも無くなった。

 拾い上げると、硬い表紙が少しふやけているのが分かる。懐かしさに引かれてページをめくると、真っ黒に塗り潰された人の顔が出てきた。


「……は?」


 思わず取り落とし、落ちた拍子にばらばらとページがめくれる。開いたページにも顔を黒く塗り潰された人の写真があって、よく見るとそれは全て兄だった。


 丹念に、兄の顔だけマジックで黒く塗られている。ぐちゃぐちゃに乱れた線は執拗で隙間も無く、首から上に真っ黒な穴が空いているように見えた。


 いつこんな風になったのか、誰がやったのか、考えても何も分からなかった。アルバムを見たのは数年振りだから、父か兄がやったとしてもいつのことか分からない。そもそも何のためにこんなことをしたのだろう。

 でも、父はこんなことをやらないだろうという気がした。親だからというより、アルバムの存在を忘れていると思うからだ。

 兄ならどうだろう。自分の顔を塗り潰して一体何がしたかったのだろう。食い入るように見つめたまま、アルバムから目が離せなかった。



「悠貴」


 出し抜けに声がして、咄嗟にアルバムを閉じる。立ち上がって背後を見ると、階段から兄が顔を覗かせていた。

「何してるの」

「いや……別に、なんか音がして……」

 後ろ手で部屋のドアを閉める。兄は怪訝そうに眉を寄せたが、それ以上拘らなかった。

「……てか兄貴、どこ行ってたの」

「アイス買ってた。暑いだろ。置いたら出ようと思ってたけど」

 コンビニの袋を揺らし、兄は階下を指差した。

「冷凍庫入れとくから」

「ああ……そう……ありがとう」

 兄は小さく笑って階段を降りる。その背を追ってリビングに向かった。


「兄貴、あの……夜どこにいるの」

「眠くならないし、色々歩き回ってる。ベンチで寝ることもあるけど」

 あっさりとそんなことを言われ、どういう顔をしていいのか分からず俯いた。

「ホームレスじゃん……」

「そう言うなら泊めてよ。お前の部屋で一緒に寝れば父さんにバレないだろ」

「それは……」

 駄目か、と兄は少し情けないような笑みを浮かべる。それくらいなら構わないと言いそうになって、でも夜に兄に似た何かが部屋にいたことを思い出し、口を噤む。


 冷蔵庫を覗き、中身がほぼ無いと顔をしかめている兄の横顔を眺める。


 青白い肌と明るい茶髪、左目の下の黒子、笑うと覗く八重歯。どれも見覚えがあるようで無いような、何かボタンを掛け違えてしまったような違和感がある。


「兄さん」

「うん?」

「……アイスって何味?」

「チョコ。お前それしか食わないだろ」

 それは小学生の頃の話だ。今は特に好き嫌いなど無い。でもそうは言わずに「ありがとう」と呟いた。


 兄さんってどんな顔だったっけ――とは、どうしても言えなかった。

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