沈溺

 淀んだ海の底のようだった。

 夜、暗い天井を見上げてそう思う。潮の臭いが鼻先を掠めて、びたびたと水の落ちる音が響いていた。

 ――また来たのかと思った。


 部屋の隅に蟠った人影は以前より大きくなっているようだ。それは濡れた音を立ててベッドまで近づいてくる。ぬっと闇の中から突き出された右腕は不自然に白く、膨らんでいた。


 手のひらが口に押しつけられた。ふやけた皮膚が張りついて、濃い海の臭いと死臭が鼻腔を満たす。左手は鼻を押さえてきて、途端に息がひどく苦しくなった。


 藻掻いて抵抗しようとしても水中のように上手く動けない。目を凝らしても塗り潰されたような黒い顔が見えるだけ。バタバタと足がベッドのマットレスを叩く音はくぐもって、到底階下に聞こえるとは思えなかった。

 酸欠の頭で、これはまずいとぐるぐる思う。


 闇雲に振り回した手が冷たい腕にぶつかって、何度も何度も叩いて引っ掻くと押さえつけてくる力が緩んだ。

 音を立てて息を吸い、無意識に枕元に置いていたスマホを掴む。震える指でライトを点けると、白い光が鋭利に暗闇を切り裂いた。


 覆いかぶさってくる影に光を向ける。真っ白な光に照らされ、影は何かに撃たれたように身を震わせて僕から離れた。


 咳き込むように呼吸する。淀んだ水底のような空気の重さが纏わりつく。影は床にうずくまり、膝を抱えて水を垂らしていた。

 海藻のように絡まっている髪には濁った色のヘドロがへばりついて、真っ白な肌には血の気が無かった。水死体みたいだと思い、まさにそうなのかもしれないと妙に冷静に考える。


 濡れた顔を袖で拭って、しばらくそのまま何もできなかった。動揺と混乱と恐怖と、ぐちゃぐちゃに感情が混じってわけが分からない。

 泣きそうだと思った途端に視界が歪んで、喉の奥が熱くなって、勢いのまま振り絞った声は震えていた。

「お前、誰だよ……」

 シャツが張りついた肩が小さく揺れたのが見えた。

「何なんだよ。なんでこんな……」

 途中から何が言いたいのか分からなくなった。スマホのライトは喋るたびにブレて、うずくまる水死体じみた身体をめちゃくちゃに照らす。


「ゆうき」


 ごぽりと何か吐くような音とともに僕の名前を呼んで、それは顔を上げた。

 機械のような薄笑いは、兄に似ていた。でもこんなものを兄だと認めたくなかった。


「たすけてくれ」


 ざらついた声は電話越しのようだった。


「寒い……」


 血の気が引くのが分かった。顔がひどく冷たくなって、視界が瞬いた。

 黙ってくれと思った。


 倒れ込むようにベッドから滑り落ちて、うずくまったまま薄笑いを浮かべるそれを見て、殺せばいいんだよ、という言葉が蘇る。

 こんな化物は兄じゃない。こんなのは違う。違うはずだ。


 首に手を掛けると、ぞっとするほど冷えていた。

 脈が無い。


 ぬるぬる手が滑った。床に落ちたスマホのライトでふやけた白い顔がわずかに見えて、弧を描く目と唇がこちらを向いているのが分かった。目は真っ黒で、穴が穿たれているようだ。

 たすけてくれ、という言葉が耳にこびりついて離れない。


 手に力を込めた。水はべたべたして氷のように冷たかった。こんな冷えた水に沈んだら、確かに泳げないだろうと思った。


「ゆうき」


 口から泡を吹いて、それでもにやにや笑ったままだ。僕の服に指が縋りついてきた。

 脈は無いくせに喉が震える感触が伝わってきて、まるで生きているみたいで、それが無性に苛立って、怖くてたまらなかった。


 お前が責任取るんだよという声が耳元でして、震える手に、さらに強く、強く、力を込める。





 急に目が醒めた。

 途端にベッドから転げ落ちて、強かに頭を打った。


 部屋の中は暗く、静まっている。慌てて周囲を見たが、僕が首を絞めた化物はいなかった。

 冷たく濡れた感覚は覚えているのに、手のひらは乾いている。しばらく茫然として、夢だったのかと飲み込んで、それでようやく立ち上がることができた。



 廊下に出てもどこにも人の気配は無い。父は帰って来ているはずだと思って、でもそういえば父の姿は見なかったと気づいた。メッセージも来ない。どうしてだろうと思っても、鈍った頭では何も考えられなかった。


 震える膝を押さえて階段を降りた。キッチンに向かい、冷凍庫を開ける。低く唸るような稼働音と青白い光が漏れた。

 兄が買ってきたアイスを掴んだ。他にも買った覚えの無い冷凍食品がいくつかあって、それも片っ端から取り出した。


 それをゴミ袋に全部捨てた。制服のポケットに入れたまま溶けていたチョコも捨てた。兄のマグカップも捨てた。機械的に手を動かしてあの人の痕跡を全てゴミ袋に詰め込んで、口を縛る。

 それでようやく安心できた。


 やり直せるわけがないと自分に何度も言い聞かせる。もう手遅れだ。あの人がどんなことを言おうと、それは本物の兄の言葉じゃない。本物は海に沈んで死んだ。僕が電話を切った後、一人で冷たい海の中で溺れて死んだ。いい加減そのことを認めるべきだった。


 ゴミ袋は軽かった。明日の朝捨てに行こう。それで、もしまた兄が来たら、もう家には上げない。見えないふりをしてもいい。どんな方法でもいいから、もう終わりにしなければいけない。

 ――やり直せればいいのになんて、そんな腐ったような甘い考えは捨てないといけない。



 このままだと、自分が現実の中にいるのか夢の中にいるのか、分からなくなりそうだった。

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