訪問

 その後は自分の部屋で寝る気になれず、リビングのソファで眠った。

 チャイムの音が鳴って目が覚めた時はすでに昼前で、夏期講習をサボってしまったことに気づいたが、遅刻して行く気にもなれずのろのろ身を起こした。


 チャイムの音は急かすように鳴っている。インターホンのモニタには白くぼやけた横顔が映っていて、やっぱり来たのかと自分でも驚くほど冷静に受け入れた。

 モニタを切ってソファに戻る。そのまま膝を抱えて頭をうずめた。一定の間隔で鳴り続けるチャイムの音が少し遠くなる。外でうるさく鳴いている蝉の声も遠ざかった。


 このまま、何も聞こえなくなればいい。無音になるまで待てばいい。スマホは二階の部屋にあるから、電話が掛かってきていてもここなら聞こえない。


 五分か十分か、どれくらい時間が経ったか分からないが、不意にチャイムの音が消えた。

 唐突に訪れた静寂は長く続かなかった。リビングの隅に置かれた固定電話の着信音がけたたましく鳴り出す。

 思わず、抱き込むように掴んだ自分の腕に爪を立てた。


 しばらく電話は鳴り続け、それから留守電に切り替わった。ピーと長い電子音が響き、ほんの少しの空白を挟み、そしてざらついた声が流れ出す。


『悠貴、入れてよ。なんで出ないんだよ』


 平坦な声に息が詰まる。ひたすら頭の中で榊から送られてきたメッセージを繰り返した。

 ――喋ってはいけない、家に上げてはいけない、物を貰ってはいけない。


『今、父さんいないだろ? てかあの人帰ってないだろ。じゃあ入ってもいいじゃん』


 ――もしやっちゃったら、戻ってきた人をもう一度あの世へ送るしかない。


『マジで無視するなよ。行くところ無いんだって』


 ――殺せばいいんだよ。


『お前のせいだろ。なあ、聞いてるくせに』


 夢の中、首を絞めた感覚が生々しく蘇ってきた。泡を吹いて笑っていた顔も思い出した。

 最悪だと思う。


『悠貴、お前、俺があげたやつ全部捨てたよな』


 雑音混じりの声は嘲笑するようにそう言った。


『食えば良かったのに』


 どろどろに溶けたチョコレートの感触を思い出す。あれを食べたらどうなっていたのだろう。


『お前本当に、最悪だよ』


 やっぱり、やり直したいと言ったのは嘘だったんだと思った。

 兄がそんなことを言うはずがない。僕は、あの人が祭りの日に金魚をどうしたのか本当は知っている。


 祭りに行った翌日、登校中に側溝の中で干からびて死んでいる金魚を見つけた。ぐちゃぐちゃに汚れて蟻が集っていて、それでも僕の掬った金魚と似ているように見えて慌てて目を背けた。

 同じものだと分かったわけではない。でも兄を見るたびに側溝の中で干からびていた金魚の死骸を思い出して、それが苦痛で兄を避けるようになった。兄はそんなことをしないと思うよりずっと強く、そういうことをしそうだと思ってしまった。



『悠貴、入れて』


 機械越しの声がひずむ。耳を手で覆う。でも声は隙間から忍び込んでくる。


『悠貴』


 喋ってはいけない、家に上げてはいけない、物を貰ってはいけない。


『もう遅いよ』


 潮の臭いがした。


 膝に顔を押しつけているので視界が狭い。でも、その端にスニーカーを履いた足先が見えた。濡れて藻が絡んで、淀んだ水溜まりがフローリングの床に広がっている。海の臭いがする。


「もう手遅れだろ」


 冷え切って濡れた手が、僕の腕に触れた。


 弾かれたように身を起こす。目の前に兄の笑顔があった。青白い肌はふやけて、細めた目は塗り潰されたような黒だった。死んで腐っていく魚のような目だと思う。

 色を失った唇が開いて、八重歯が見えた。


「あのさ、俺もさすがに傷つくよ。そんなに俺のことが嫌いか? せっかくお前のために買ったやつも食わねえし捨てるし……食えば、お前も、こっちに来れた、のに」


 兄の声は徐々に歪に途切れていく。頭が真っ白になる。この人は何を言っているのだろう。でも、貼りついたような笑顔の裏で怒っているのだと分かった。

 曲がりなりにも兄弟だから、そういうことだけはよく伝わった。


 ソファの背もたれに身体を押しつけても逃げられない。そもそもどこに逃げればいい。誰でもいいから、誰かここに来てほしい。助けて、と言いかけて、その言葉はどこへも行けずに消えてしまった。

 這いずるように横に逃げようとすると、兄は手を伸ばして僕の襟元を掴んだ。驚くほど強い力で引っ張られ、首が絞まる。

 真上、兄が表情の無い顔で僕を見下ろしているのが分かって、次の瞬間、容赦なく頬を殴られた。


 熱に似た痛みで視界が揺れる。ぐらぐらと天井が回る。痛い、とぼやけた頭でそう思う。

 冷たく濡れた拳は一切の躊躇も無く振り下ろされて、この人は本当に何か欠けていると思った。


 僕に馬乗りになった兄は、握り込んだ拳を開き、茫洋とした目で宙を見る。血の気の無い肌は作り物のようで、窓から射し込んだ陽に影が波打っていた。髪から水が滴り落ちる。

 これもまだ夢なのだろうか。分からない。


「偽物のくせに……」

 呟くと頬骨が痛んだ。

 こんなのは現実ではないし、この人も本物の兄ではない。そう言い聞かせないと、どちらか分からなくなる。

 のろのろと僕に視線を向けたそれは、ゆっくりと顔を歪めた。なぜそんなに泣きそうな顔をするのだろうと思った。


「ごめん」


 平坦な声が狼狽えたように微かに揺れる。


「違う、本当に……悪い。時々、わけが分からなくなって……」


 それは僕の上からどいて、項垂れて顔を覆った。指の隙間から濁った水が垂れていく。

 ぽたぽたと水が落ちるたびに、何かが削られていくような気がした。


「……出て行けよ」

 自分でも驚くほど冷たい声が出た。

「兄さんは、もう死んでるんだよ。お前じゃないんだよ。どっか行って、消えろよ……」

 少し間が合って、「無理だ」とくぐもった声がした。


「知らないうちにここに戻ってきてるんだ。だから、どこにも行けない」


 途方に暮れたような声だった。覆った手の隙間から、じっと黒い瞳が僕を見つめている。


「悠貴、助けてくれ。お前しかいないから」


 都合の良い言葉だと思う。殴っておいて、今さらそれを言うのかと呆れる。でも突き放すことはできなくて、指の隙間に覗く瞳から目を逸らせない。

 兄はいつも家族に助けを求めることはしなかった。そういう人だった。



 そう気づいた途端、もうこの人が偽物でもどうでもいいという気分になって、立ち尽くす兄の身体を思い切り突き飛ばした。

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