白昼夢

 鳩尾を踏んでしまったのか、ぐ、と唸るような声が聞こえた。カーペットは冷たく湿っていて、端にいつか零したコーヒーの染みがそのまま残っている。

 夢中で首を絞めると、前見た夢のように喉の震える感触が伝わってきた。体温を失った身体は人形のようで、薄っすらと明いた目に感情は無く、ただ僕の引き攣った顔だけが映っている。

 抵抗なのか手の甲に爪を立てられた。細く赤い線が滲んで、でも痛みは分からない。突き立てられた指が冷たい。


 やがて兄は諦めたように目を閉じて、そうすると本当に死体のようにしか見えなかった。



 どれくらい絞めれば殺したことになるのだろうと、頭の隅で妙に冷静な疑問が浮かぶ。とうに死んでいる人を殺すことなどできない。脈は感じないが、息をしなくなればそれで良いのか。動かなくなれば良いのか。分からなくて、いっそう強く首を押さえる。

 目を閉じた顔は蝋人形のようにどこか歪で、カーペットに染みる水の跡がまるで広がった血だまりのようだった。

 手に力を込めながら、その顔にふと側溝で干からびていた金魚の死骸が重なって、不意に力が抜けた。


 絞めていたのは一瞬のように感じた。でも白い首にははっきりと鬱血の痕が残っていた。蝶が翅を広げたような、そんな痣だ。

 喉を仰け反らせ、兄は目を閉じたまま動かない。濡れた髪が蜘蛛の巣のように額に張りついている。


 茫然としてそれを見た。手の甲には赤い線が滲んだままだった。夢ならそろそろ覚めてもいいのに、死体のように転がったまま兄は消えてくれない。

 唐突に外で鳴く蝉の声が押し寄せてきて、引っ掻かれた傷の痛みをいきなり感じて、一気に現実に引き戻された。



 喉から熱いものがせり上がる。吐きそうだ。でも転がった死体から目を離すのが怖くて、うずくまって耐えた。

 投げ出された白い指先から水が滴っているのが見える。いつまで経ってもそれは動かない。自分のしたことを嫌でも理解して、やっぱり僕もどこか欠けているのだと思った。兄のことは言えない。金魚を側溝に捨てるよりずっとこちらの方が悍ましい。


 ぐったりとカーペットに横たわる死体を見ても、吐き気ばかりして涙は出なかった。

 この身体をどこにやればいいのだろう。解体すれば僕にも運べるだろうか。いやそもそも解体する道具が無いし、埋める場所も無い。どうしようと思っても答えが出てこない。

 こんがらがった頭は上手く働かなくて、とりあえず死体をどこかに隠そうと手を伸ばした瞬間、兄の身体は忽然と消えてしまった。


 瞬きの間に横たわった死体は消えて、カーペットに染みだけが残った。伸ばした手は何にも触れずに宙を彷徨う。

 呆気に取られてしばらく動けず、ようやく我に返っても、どこにもあの人の姿は見えなかった。


 うずくまって濡れた痕に触れると冷気だけが伝わってきた。体温なんてどこにも無くて、やっぱりあれは僕の妄想だったのか、それとも正しい方法を選べたのか、どちらだろうと思う。でもいくら考えてもそれは分からなかった。

 どちらにせよ、自分は助かったのかもしれないとじわじわ飲み込んだ。――僕はようやく、正気に戻ったのかもしれない。


 のろのろ立って台所に行って、蛇口を全開にして手を洗った。喉の震えも引っ掻かれた痕も冷えた肌の感触も海の臭いも、あの感触を全部洗い流してしまいたかった。

 強く手のひらを擦るうちに痛み始めて、それでようやく手を止めた。


 部屋の隅にはまだ兄の痕跡を詰め込んだゴミ袋が転がっていて、とりあえず捨ててしまおうと思う。

 あれを捨ててしまえば、あの人は全部僕の妄想になって終わる。それでようやく元の日常に戻れるような気がした。二年前に兄が死んだまま、やり直せないままの日常だ。



 ゴミ袋を提げて玄関へ向かう。たった数日間の痕跡は軽いのか重いのかよく分からなかった。

 ――今度こそ僕はあの人を助けられたのだろうか。それもまだ、よく分からない。

 外に出ようと玄関に降りる。

 

 その時、出し抜けにチャイムが鳴った。


 驚きで足が止まった。それから遅れて不安がやって来て、目の前の扉を見つめる。

 チャイムは一度鳴り、少し間を空けてもう一度鳴った。声はしない。気配も無い。ただピンポンと高らかな音だけが響く。


 音を立てないようにドアスコープを覗いた。

 真っ黒で、何も見えない。



「ゆうき、あけて」



 ドアを叩く鈍い音と共にそんな声が聞こえて、ゴミ袋を取り落とした。

 ガシャ、とビニールの擦れる音がうるさい。心臓が早鐘を打つ。


「そこにいるんだろ」


 声はひどく掠れていて、なんだか喉を潰した時のようだ。でもよく知っている声だと思う。

 ――喋ってはいけない、家に上げてはいけない、物を貰ってはいけない。


「なあ、ゆうき」


 歯を噛みしめても、震える呼気は漏れる。絶対に聞こえている。掠れて潰れた声は淡々と流れ続ける。


「たのむよ……」


 呻くような声が消えて、ドンドンとドアを叩く音が連続する。逃げたくても、背を見せた瞬間にドアが開きそうだと思うと動けなかった。

 ドンドンドンドンドン、いつまで経っても止まらない音におかしくなりそうだと思った時、不意に止んだ。


「たすけてくれ」


 あまりにも鮮明な声で、僕はドアの前に立ち尽くしたまま、唐突に理解した。

 これが現実でも夢でも、生きていても死んでいても何も変わらない。どちらにせよ、ずっと兄からは逃れられない。

 あの人は家族で、たった一人の兄弟で、僕は一度も逆らうことはできなかったのだ。


 空白になった頭にどうしようという言葉ばかりが巡る。息が上手くできない。根を張ったように足は動かなくて、逃げ場も無くて、もう後戻りできないのだと思った。

 震える手を無理やり開いて、のろのろと前に伸ばす。


 ドンドンと鳴り続ける音を聞きながらドアノブを掴んだ。震動が伝わってくる。開けろと無言のまま促してくる。

 ノブを掴んだままでドアに額をつける。冷えた金属と震えと、その先にいるはずの兄の姿を思い浮かべる。――水死体じみて膨れた身体と、僕がつけた喉の鬱血痕を。



 扉を開けることはできないまま、一体これから何度殺せばこの人は死んでくれるのだろうと、益体も無いことを考え続けた。

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