3:ホーボー・クラウン
外道
門扉にぐるぐると巻かれた鉄鎖を見て、これは面倒だろうなと思った。
夜半、空き家の前にぼんやりと立つスーツ姿の男は不審者だと疑われそうだ。通報されたくないので真っ先に清掃中の看板を門柱に立てかけ、預かっていた鍵を取り出した。
南京錠に鍵を差し込んで外し、鎖を解く。ジャラジャラと重たい音は静まった住宅街に驚くほど大きく響いた。
ゴミ袋と軍手、消毒を脇に挟んで玄関を開ける。饐えた臭いが掠めて、真っ黒な廊下が奥へと続いていた。
厭な場所だと思う。
私は革靴のまま踏み込んで、足元に置いていた大型の懐中電灯で屋内を照らした。壁際には大量に「立ち入り禁止」の紙が貼られていて、古いものがいくつか床に落ちている。それをゴミ袋に突っ込み、新しいものを張り直した。
懐中電灯の強い光が闇を追い払う。スマートフォンの画面が明るくなってメッセージが届いた。掃除の際の注意事項がずらずら並んでいて、ざっと目を通してから閉じた。
廊下を進むにつれて貼り紙は減り、足跡が付くほど埃が溜まっているのが分かる。
数か月おきに掃除しているらしいが、それでもこの家に漂う饐えた臭いはなんだろう。肉がどこかで腐っているような悪臭で、鼠でも死んでいるのかもしれないと思う。咳き込みそうになってマスクの上から口を押さえた。
突き当たりのドアを開ける。入った先、リビングの家具はほとんど撤去されるか半壊していた。フローリングはあちこち破れていて、皺の寄ったカーペットにも墨に似た色の大きな染みが浮いている。
スーツの裾はとうに埃で白くなっていた。ひっくり返っていた椅子を起こしてジャケットを掛ける。シャツの袖をまくって、最初にリビングの写真を撮った。フラッシュが焚かれた瞬間、頽廃した部屋が網膜に焼きつく。
大型の懐中電灯はテーブルに置き、部屋の隅に用意されていたモップを手に取る。掃除はそこまで念入りでなくてもいい。余計なことをせず、言われたことだけをただその通りに行えば、それで十分だ。
機械的にモップを動かしていると微かに抵抗を感じた。
視線を落とすと、太いロープが転がっている。指先で摘まむと、重たく濡れているのが分かった。
――なんだこれは。
眉間に皺を寄せ、それをゴミ袋に捨てた。それからいくらもしないうち、またモップの先が何かにぶつかる。
陶器のマグカップだった。縁が欠けて破片が散っている。リビングに入った時にこんなものを見ただろうかと思いながら、小さなビニール袋を取ってそれに入れた。
おかしいと思ったが、強いて何も考えないようにモップを動かし続けた。だが、またすぐ何かにぶつかった。
見下ろした先に包丁が落ちていた。刃先はひどく錆びついている。
さすがに驚いて、しばらく動けなかった。
我に返り、辛うじて、たぶん燃えるゴミではないだろうと思った。仕方なく袋をもう一枚用意して、間違っても錆まみれの刃で怪我をしないように何重にもビニールを巻きつけた。前回掃除したやつは何をしていたんだと少し腹立たしくなる。
それ以外のことは極力考えないようにした。
のろのろとモップを動かす。少しも進まないうちに今度はゴトンと重い音がした。嫌々目を向けると、金槌みたいなものが転がっていた。
屈んで拾い上げると、包丁と同じように赤く錆びついているのが分かった。それに正体の分からない何かの欠片もへばりついている。絡みついた糸のようなものは髪の毛だろうか。
――血錆と肉片と髪の毛。
嫌なことを考えてしまった。すぐに目を逸らし、包丁と同じようにビニール袋で巻いてテーブルに置いた。
この家で何があったのか、曖昧な噂ばかりではっきりと知っているわけではなかった。地元では幽霊屋敷として有名らしく、住んだ人が次々不審な死を遂げたやら一家が惨殺されたやら根拠の無い噂が絶えない。
だが本当はそう古い家ではなく、七、八年前までは普通に人が住んでいたそうだ。ただ流動性の高い土地柄で近所付き合いも希薄なせいか、なぜ人が住まなくなったのかという理由はよく分からないらしい。最後に住んでいた
厄介なのは、噂は嘘ばかりでもこの廃墟が実際幽霊屋敷であるということだ。入れば妙なことが起きるので、人に貸せずに困っているらしい。定期的に掃除をしていずれは元通り貸家にしたいというが、私には関係の無い話だった。
――私は、ただ言われたことをやればいいだけだ。
モップ掛けが終わって一息ついた時、不意に何かが落ちたような音がした。
背後にある棚の裏だ。覗き込むと棚と壁の間に隙間が空いていて、何か黒っぽいものが挟まっているのが見える。少し寄りかかってしまったから、その拍子に何かが落ちたのだろうか。
テーブルの懐中電灯の明かりは届かない。ペンライトで照らすと、何かぬらぬらしたものが反射した。同時に、腐臭が鼻を突く。
まさか動物が死んでいるのか。これも「掃除」の内容に入るか一瞬考え、入るだろうなと諦め半分でそう思う。片手が塞がっていると上手く届かず、ペンライトを咥えて棚の隙間に手を伸ばした。
軍手越しに濡れた感触がした。極力触れないように引っ張ると、思ったよりも軽く隙間から抜ける。急いで床に放り投げると水滴が飛んだ。
ペンライトの光を反射するのは鱗だった。小さな金魚が、ついさっき水槽から出されたかのように濡れたままで死んでいる。
「なんだ、これ……」
呟く声は廃墟に巣食う闇に呑まれて消える。腐臭がきつく、マスクを直して窓を少し開けた。
がたついた窓の隙間から温い風が吹き込んで、淀んだ臭いが薄らいだ。蝉の声が微かに聞こえる。こんな晩夏に生き残ってしまって、辛くはないのだろうかと考えても仕方のないことが浮かぶ。
夏ももうすぐ終わると思った。夏が終わってもまだ、私はこんなことを続けていくのだろうか。
蝉の声を聞くうち、いっそ終わりにしてしまおうかと、ふと思う。
「なっちゃん、ろくでもないことやってんだね」
どこか軽薄な笑い含みの声がして、弾かれたように振り返った。
背後に人がいた。大学生ほどに見える若い男だ。
不法侵入者、という言葉が最初に浮かんだ。闇に沈んで相貌は判然としない。ペンライトを向けると、少し眩しそうに手を上げて遮った。
おかしい、と遅れて思った。足音は一度も聞こえなかった。この男はいつ入ってきたのだろう。なぜ私は気づかなかったのだろう。
それに、声にどこか聞き覚えがある。
「俺のこと覚えてない?」
なっちゃん、と再度親しげに呼ばれて、それが私に対する呼びかけなのだとようやく気がついた。
息が詰まって咳き込んだ。――私をそう呼んだのはたった一人だ。
「
ペンライトを逸らすと、相手はゆっくり手を下ろした。
明るい茶髪、その奥から真っ黒な目がこちらを見据えている。暗闇を煮詰めたような瞳に笑みが滲んだ。
左目の下に涙のような黒子がある。
「俺、なっちゃんはもっと真面目に生きてると思ってたよ」
俺と大して変わらねえじゃんと笑う声に、ペンライトを取り落とす。視界がいっそう暗くなって、相手の顔は再び見えなくなった。
ペンライトに照らされ、擦り切れたスニーカーの足がこちらに向かってくるのが見えた。一歩ずつ下がると背が窓枠にぶつかった。
「なんで……」
それ以上言葉が続かず、絶句した。
目の前、ライトが無くとも顔が分かるほど近くまで来て、相手は足を止めた。
「久しぶりだね」
暗がりの中、唇を吊り上げた歪な笑顔が見えた。
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