深海
ハンドルに額をつける。冷たい感触に少しだけ落ち着くような気がした。
「十年ぶり? めっちゃ久しぶりだよな」
助手席から呑気な声が聞こえてきて、いっそ張り倒してやろうかと思う。私は呻くような声で答えた。
「十一年」
「そんなになるっけ。高校入ってから会わなくなったもんねー」
視線だけ隣に向けると、口角を上げた横顔が見えた。
「なっちゃん今何やってるの」
「……フリーター」
「マジで?」
大学まで出たのにこのざまだと自虐でもしてやろうかと思ったが、「強いじゃん」という意味不明なコメントが聞こえてきてどうでも良くなった。
「なっちゃんさあ」
「やめろよその呼び方」
「ジュースっぽい?」
「やめろ……」
諦めて顔を上げると腹立たしいほどの笑顔が見えた。
「何やってたの? あの家で」
俯いて、ハンドルにぶら下げたどこかの神社のお守りを握る。大した効果は無いんだなと思う。
「……単なる掃除。空き家はすぐ荒れるから、定期的にやってるらしい」
「ふーん。じゃあ、あの家で何があったか知ってる?」
「それは……」
もちろんと言いかけて言葉が消える。
――思い出せない。
何か、気をつけろと言われていたことがあったはずだ。あそこの噂は嘘ばかりでも、本当に良くないことが起きる場所で、だから何か、気をつけなければいけないことがあって――。
何も思い出せなかった。
困惑する私を面白そうに見て、それはにっこりと笑う。
「なっちゃん、俺の名前覚えてる?」
「……陸だろ」
言った途端に視界がひずんだような気がして、でもそれは瞬きの間に治った。
陸は八重歯を見せて笑った。
「良かった。お前すぐ人の名前忘れるから」
「さすがに忘れないだろ、陸は……」
陸とは家が近くて、小学校に上がる前からずっと一緒に遊んでいた。たぶん幼馴染というやつで、でも高校に入って学校が分かれると全く会わなくなった。
喧嘩したわけではなく、ただ自然な流れだ。中学の時点で属するグループも違ってあまり話さなくなっていたし、家が近くなければ仲良くなるなんてありえなかっただろうと当時の私は思っていた。
距離感を掴みかねて疎遠になって、大学に上がると陸のことはほとんど忘れていた。
はっきりと思い出したのはたぶん、一度だけだ。
「俺は結構会いたかったんだけどね。お前が全然地元帰ってこねーから」
「会ってどうするんだよ。話すこと無いし……」
「いや色々あるじゃん。近況報告しようよ。フリーター? 俺も一緒だし!」
確かにと思って少し力が抜けた。今の方が学生の頃よりずっと、共通点が多いのかもしれない。
陸は長い前髪を邪魔そうに弄り、背もたれに寄りかかる。
「でもなんつーか、なっちゃん、あんまりまともな仕事してないだろ。廃墟の清掃ってどこで募集してんの」
「別に普通……儲かるんだよ」
「あそこの家ヤバいしねー」
「お前知ってるのか」
ははは、と陸はよく分からない笑い声を立てた。
「だってさあ、凶器がごろごろ落ちてんじゃん。あぶねーよ」
「凶器……」
「あそこで何回殺されたんだろね」
「は……?」
陸は脈絡のないことを言って窓の外を指差す。
「でも仕事なら戻らなきゃ。なっちゃん、まだ掃除終わってないだろ」
その通りだった。気づけば逃げるように近くの駐車場に停めた車に戻っていて、隣には陸がいて、わけの分からない状況だった。
道具もゴミも全部家の中に置いてきたままだ。ジャケットも無い。回収しに行かなければとようやく気づいて、溜息をついた。
「さっさと終わらそうよ。俺も手伝うから」
陸は朗らかにそう言って、項垂れる私の肩を軽く叩いた。
***
二人がかりでやったおかげか、掃除はすぐに終わった。
置き去りにしていたジャケットを羽織り、ゴミを回収する。陸は何を思っているのか、懐かしそうな苦しそうな奇妙な表情で部屋のあちこちを照らしていた。
「やめろ、近所から通報されるかもしれない」
「疚しいことしてるわけじゃないし、いいじゃん」
「説明が面倒なんだよ。肝試しの大学生と間違われたくない」
「そういうもん?」
大人しく懐中電灯を置き、陸はぼんやりと壁をなぞっている。黄ばんだ壁には妙な染みが飛び散っていて、それが古い血痕のように見えて目を背けた。
私は後片付けを終えて玄関へと向かった。当然のように陸は後ろをついてきて、どうしようかとようやく考え始めた。
面倒なことは後回しにしてしまいたかった。スマートフォンの連絡先を見て、誰に連絡するべきかのろのろとスクロールして悩む。
玄関を下りて、ドアの前で立ち止まる。振り返ると陸は目を瞬いて曖昧に笑った。
「なに?」
「お前は外に出るなよ」
「なんで?」
ジャケットの皺を引っ張りながら、私はうつむいてかぶりを振った。
「お前、そもそもなんでここにいた?」
陸は真っ黒い目を細める。
「なっちゃんがいたからだろ」
「……まあ、そうだよな」
片手でメッセージを送り、返信を待つ。その間、陸はじっと私の方を窺うように見つめていた。
「ね、連れてってよ。俺行くとこ無いんだよね」
「無理だ」
「即答じゃん。なんとかならない? 幼馴染のアレでさあ」
「アレってなんだよ……」
わけが分からないことばかり言うと思う。
昔からそういうやつだ。会話が噛み合わなくて苛々することがよくあった。それでも長い間一緒に育ったから、言わなくても何を考えているのか分かってしまう時もよくあった。
でも今、十一年も経ってしまったからか、陸が何を考えているのかもう全然分からない。
陸は困ったように眉を下げて笑っている。
「できるだけ邪魔しないし、連れてってよ」
「……とにかく、無理だ」
「俺も仕事手伝うしさ。金はいらないから、なっちゃんの家に泊めてくれない? マジで行くとこ無いんだよね」
家――しばらく帰っていないなと思う。私が黙っていると、陸はゆっくり顔を歪めた。
「俺のこと置き去りにするの」
左手に持ったゴミ袋を無意味に持ち直し、私は革靴の先を睨む。送ったメッセージの返信はまだ来ない。
「……家には帰ってない」
「え、マジ?」
「行くところも無い」
陸は何か考えるように眉を寄せ、そしてあっけらかんと笑った。
「なら一緒じゃん」
返す言葉が一瞬思いつかず、息が詰まりそうになった。
「……だから、ついて来ても楽しくないだろ」
「そんなことないよ! 久しぶりに喋れて嬉しいし」
だから頼むよ、という声は小さい頃に何度も聞いたもので、ああやっぱりこいつ陸なんだと諦めに似た気持ちで受け入れた。
スマートフォンの画面を見ても返信は来ていない。もう自分で判断するしかないのに、何が正しい選択なのか全く分からなかった。
なんだか悩むのが馬鹿らしくなって、ゴミ袋を陸に押しつけた。
「……陸も持てよ。手伝うんなら」
驚いたように目を見張った陸は、一拍遅れて破顔した。
「任せてよ。俺の方がなっちゃんより力あるし」
「それは中学までの話だろ」
「今も勝てると思うけどなー。つーか包丁とかってこのままゴミ捨て場に捨てて良いの? ヤバくない? 変な錆付いてるし」
「それはゴミ捨て場じゃなくて違う場所に届けに行く」
「そうなんだ。りょーかい」
玄関を開けて門扉の鎖と南京錠を元通り閉める。清掃中の看板を脇に挟んで駐車場へと向かった。
陸はふらふらと隣を歩いている。街灯の明かりが横顔を照らして、青白い肌に陰影を作った。歩くたびに揺れる影が波のように見える。
「海の底みたいだ」
無意識にそう呟いた。陸は怪訝そうにこちらを見て、我に返った途端に恥ずかしくなって目を伏せた。
「――ああ、それ、俺が言ったやつ」
陸は小さく笑った。
「よく覚えてたね。中学の頃じゃなかったっけ?」
「お前、昔から変なことばっか言うよな……」
「ひでえ。なっちゃんも大概だろ」
「は?」
「危ないって分かってんのにこんなことやってるの」
「それは……」
言葉が続かなくて、そのまま口を噤んだ。
街灯の影になって、陸の表情は分からない。
ただ、魚のように瞬きしない真っ黒な瞳だけ、よく見えた。
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