放浪

「お前、二十年以上前からいるって聞いたけど、本当か?」

「え?」

 私の言葉に眉をひそめ、指折り数え出す。

「あー、よく覚えてないけどそうかも」

「全然二十歳じゃないのかよ……」

「いいだろ別に。前のこと覚えてねえし」

 

 投げやりな声だった。なんとなく息苦しくなって窓を開ける。吹き込む風に煽られて、視野の隅で茶髪がなびいているのが見えた。


「……元は、人だったのか?」

 唸るような風の音に紛れて聞こえていないかと思った。でもずいぶん間を空けてから、「そうかもね」という返事があった。

「もう記憶がぐちゃぐちゃで分かんねえの。色んな人になって、色んなことしたから」

「あの一軒家にもいたのか」

「たぶん? ほぼ忘れたけど。違う人にと、記憶も全部こう、ドバッと潰されるんだよな」


 容れ物のようなものなのだろうか。記憶と人格だけ移り変わり、色んな人間の幽霊のふりをして彷徨う。

 なら、容れ物自体の記憶や人格はどうなるのだろう。そうやって潰されて、とうの昔に消えてしまったのだろうか。



「――なあ、映画観たの陸じゃないだろ」

 言うと、小さな笑い声が聞こえた。

「俺もそんな気するんだよね。前の人が混じってんのかも。衰えてんなー」

 それを衰えというのか分からないが、陸が言いそうなことだと思う。


「今までバレたこと無かったのか?」

「さあ。直接訊いてきたのはたぶんお前が初めてだと思うけど」

「へえ……」

「みんな多少は情が湧くんだろ。違うような気がするけど、でも戻って来たって思いたい、やり直せてるって思いたい。――そういうのに俺はつけ込む」

「最悪だな」

「仕方ないだろ」

 横目で見ると、縋るような目と視線が合った。

「一人でフラフラすんの、飽きるんだよ……」

 力なく口角を上げる。哀しそうな笑い方は陸に似ていない。

 一体その笑顔は誰のものだったのだろうとぼんやり思う。



「じゃあ、もしここでお前を車から突き落として逃げたらどうなる?」

「想定が物騒すぎない?」

「例えばの話だよ。逃げられるのか?」

「うーん、気づいたら後部座席に座ってそう。タクシーでさ、振り返ったら降ろしたはずの客がいる――って、そういう怪談よくあるよね」

 それが冗談か否か分からなかった。でも、逃げられないような気がしたし、突き落とすつもりも無かった。


「なら、殺したら、どうなる」

 言った途端に伸しかかられた腹の痛みが蘇る。ハンドルを握りしめ、強いて平静な表情を崩さないようにした。

「お前を殺そうとしたやつ、前にもいたんじゃないのか」

 重ねて問うと、「そりゃあ……」と歯切れの悪い答えが返ってきた。


「いたけど、あんま、思い出したくないよな……」

「どうなったんだ」

「ろくに覚えてねえよ。たぶん死なないけどさ、あれ、俺だって痛いからね」

 不貞腐れたような答えが少し可笑しかった。話していることの奇怪さとその態度がまるで不釣り合いだった。


「――俺、結局どうしたいんだろうな」

 ぽつりと呟かれた声の余韻はすぐ風に攫われて消える。

「ずっと騙せたとしても、いつか一人になるのに」

 そうだな、とは言えずに口を噤んだ。必ず置いて行かれるのは、確かに悲惨だと思う。


 人は死んだらこうなるのだろうか。それともこの男に何か心残りがあってそうなったのか。心残りの正体も分からなくなって彷徨い続けて、その先の無さに暗澹とした。

「いつからこんな、おかしくなったんだろう。――馬鹿みたいだ」

 冷ややかさの滲む声に思わず隣を見そうになって、堪えた。

 知らない表情を見たくなかった。




 しばらく無言で車を走らせ、やがて目的地が見えた。

「……スーパー?」

「そう。ちょうど二十年くらい前に潰れたらしい」

 チェーン店ではなく、個人経営のスーパーマーケットだったらしい。寂れた建物を見上げながら、廃墟にばかり行っているなと思う。ガラスはほとんど割られ、入り口はブルーシートで覆われていた。


「なんか……すげえ見覚えあるんだけど」

「行ったことあるのか」

「うーん……てか、なんで取り壊されてないんだよここ」

「さあな、権利とか色々問題があるんじゃないか」

 ここの中で人が行方不明になるらしいという噂は言わずにおいた。


 私が懐中電灯を片手に入り口へ向かうと、慌てたように小走りでついてくる。

「なあ、こんな広いとこ、いつも一人で掃除すんの?」

「掃除というより点検なんだよ。人が勝手に入り込んでたりしないか見回る。ついでに生ゴミとかあったら捨てる」

「へー」

 ブルーシートを持ち上げると真っ暗な店内が見えた。暗がりの中に空の陳列棚が出鱈目に並んでいる。足元に青果コーナーと印字されたひび割れたプレートが転がっていた。


「なんか終末っぽいね」

「確かにな……そこのカート取ってくれ」

 床に横転していたカートを使ってブルーシートを持ち上げたまま維持する。それから中に踏み込んで懐中電灯で周囲を照らした。

 最初に一人であの家に踏み込んだ時のことを思い出す。数時間前のことなのに、もうはるか昔のように感じた。


「お前は向こうから回ってくれ。二手に分かれた方が早い」

 右手の通路を指差して懐中電灯を渡すと、怪訝な顔で見つめられた。

「俺がこのゴツい電灯使っちゃっていいの?」

「予備のペンライトがあるから」

「ええ、一人だと怖いんだけど」

「お前が言うな。バックヤードとかも、ちゃんと中に入って確認してくれ」


 早口で言って肩を押すと、青ざめた唇が何か言いたそうに開いて、でも結局小さく頷いた。

「分かった。……あのさ」

 いつまで待っても言葉の先は途切れたままだった。黙って見返すと、それは諦めたようにかぶりを振って右手に進んでいく。



 痩せたシャツの背が徐々に暗闇に溶けていく。フラフラと揺れる電灯の丸い明かりが徐々に小さくなる。それを見送って、私も踵を返す。


「なっちゃん、いるよな」


 暗がりの向こうからそんな声が微かに聞こえた。

 そう呼ぶな、とは言えなかった。


「いるよ」

 声を張ってそう言うと、遠く笑い声が立った。

「なんかこっちの方、めっちゃ落書きだらけ!」

「……こっちもだ」


 落書きの無い壁を、ペンライトの頼りない明かりで照らす。

 私は入り口に留まったまま、左手の通路には進まなかった。


「一人で廃墟探索って、結構怖くねえの?」

「慣れれば平気だ」

「へー、俺は無理かも!」

 屈託のない声に、こんな状況なのに笑いそうになった。笑いそうになったのが自分でも意外で、ひどく居た堪れなくなった。


「なあ、まだいるー?」

「いるよ」

「置いて行くなよ!」


 ああ、と答えた声は少し震えたような気がした。

 少しずつ、あの声は遠ざかっている。


「あ、なんか――った――入るの?」


 上手く聞こえない。でもなんとなく言いたいことは分かった。ブルーシートを支えるカートをどかしながら、大声で返す。


「中、確認してくれ!」

「――った、けど――だ」


 ギシギシと錆びついたドアを開くような音がした。

 急に声がくぐもって聞こえなくなる。奇妙に遠い。ああとかうんとか、私は適当な声を上げた。

 本当は、もう耳を塞ぎたかった。


「――て、――」


 また何か聞こえた。遠すぎて、何を言っているのか分からない。

 バタンとドアが閉じたような音がした。


「おい、何て言った?」


 訊いた声は虚ろに響いて、尾を引いて消える。

 しばらく待ったが、それきり物音すら聞こえなくなった。


「……陸?」


 呼んでも返事は無い。恐ろしいほどの静寂が満ちている。それでも数分待ってみて、結局何も聞こえないままだった。

 ――終わったのか。

 右手の通路を照らしても、人影は見えなかった。


 通路から目を逸らす。一人で外に出てブルーシートを元通り下ろすと、ふつりと何か繋がりが途絶えた気がした。




 ペンライトの明かりを消して、逃げるように廃墟から離れる。後ろは振り返らなかった。さっき聞こえた声の余韻を追い払って走る。躊躇も罪悪感も無視して、ひたすら足を動かす。

 ――点検なんて嘘だった。

 置いて行くなよ、と言う声が蘇り、自己嫌悪に吐きそうになった。


 ポケットに突っ込んでいたスマートフォンを取り出して中沢に電話を掛けた。手が馬鹿みたいに震えている。

 呼び出し音が永遠にも感じられた。車に乗り込んですぐエンジンを掛けて無人の道路を走り出す。スピーカーに設定したスマートフォンから、『終わりましたか』と無機質な声が聞こえた。


「終わりました。――これで大丈夫なんですか」

『どうでしょう』

 あっさりした答えに小さく息を吐く。

『でも人が消える場所です。も消えてくれるかもしれない』


 あそこは黄泉の国に繋がっているのだという馬鹿げた都市伝説があるらしい。中に入った人は異界に連れて行かれる。だから行方不明になる。

 嘘か本当か分からないが、黄泉の国へ行けるなら少しは救われるだろう。永遠に彷徨うよりも、ずっとましだ。もう他人の真似などしなくてもいい。


 自分に言い聞かせるようにそう考えて、ほんの少し、虚しい気分になった。


「……もしまた駄目だったら、私はどうすればいいですか」

 最後に訊くと、しばらく思案するような沈黙が落ちて、溜息まじりに『分かりません』という声が流れ出た。

 そのまま通話が切れる。表示されたロック画面に無性に苛立って、助手席にスマートフォンを投げた。

 最悪な気分だった。



 しばらく適当に走って、適当な路肩に車を停めた。自分が何を期待しているのか分からないまま、後部座席を振り返る。

 当たり前だが、そこには誰もいなかった。


 逃げることができたのか。それとも今までのことが全部夢だったのか。私がおかしくなっただけなのか。

 混乱が収まらず、ハンドルに額をつける。冷たい。その感触に少しだけ、落ち着いた。


 たぶん、助かったのだと思った。助かったはずなのに、何か間違えてしまったような気がして、堪らなかった。



 狭まった視界、腕時計が目に入った。――午前四時半。


 顔を上げると、暗かったはずの空の端が薄ぼんやりと白く染まっているのが見えた。海の底のようだった夜道はもう無い。

 夢から醒めたような気分で空を見つめた。



 いつの間にか、夜が終わっていた。

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