怪物

 表情の無い顔が私を見つめて、それからいきなり強い力で突き飛ばされた。


 狭い車内の天井に頭をぶつけ、シートに倒れ込む。視野の端に傷だらけの手が伸びてくるのが見えた。必死に後ろ手で運転席側のドアを開け、開いた途端にまた肩を押されて外にまろびでる。

 コンクリートの地面に擦れた頬が小さく痛む。周囲に人はいない。背後を仰ぎ見ると、青白い顔が私を食い入るように見つめているのが分かった。


 陸、と呼びそうになって、言葉を呑んだ。これは陸じゃない。陸じゃない。だから――躊躇うな。


 突き飛ばされた拍子に紐が千切れたお守りが地面に転がっている。それが呆気なく踏み潰されたのが見えて、笑いたいのか泣きたいのかよく分からない気分になった。

 起き上がろうとして、でも手が震えて上手く力が入らなかった。肩を掴まれて地面に押さえつけられる。後頭部を強かに地面にぶつけ、鈍い痛みに思わず呻いた。


 表情の欠落した顔が視界に入る。押さえつけてくる手を振り払おうとして鳩尾に膝を入れられ、苦しさにえずく。

「クソ、――どけ!」

 声はひどく掠れる。伸しかかってくるそれの腹を殴っても、少しも痛そうではなかった。こっちは痛いのと苦しいのとで、こんがらがった頭の中が爆発しそうだ。

 取っ組み合いなんて小学生以来だが、私は一度も陸に勝てたことは無かった。



 首に冷え切った手が掛かる。視界が霞む。小さな圧迫を感じて、本当にろくでもない死に方だと思う。――正体不明の何かに首を絞められて殺される。

 でもこれは自業自得だ。先に殺しておけば良かった。置き去りにして逃げれば良かった。何度もチャンスはあったのに、そうするのを選ばなかったのは全部自分だ。


 そう気づいた途端に何もかもどうでも良くなって、いっそ終わりにしようかと何度も何度も考えたことがまた頭を過ぎった。


「……お前、何なんだよ……」


 じりじりと圧迫が強まる。頭上のそれは瞬きしない目をゆっくり細める。何を考えているのか分からない、魚のような目だった。

 青ざめた唇が開く。


「なっちゃんも意味分かんねえよ」


 ざらついた声が降ってきた。陸はこんな声だっただろうか。上手く思い出せない。でも喋り方は陸そのものだ。

 死んだ人間の真似をするなんて、本当に趣味が悪い。


「逃げりゃ良かったじゃん」


 その通りだと言いたかったが、息が吸えなかった。肺が苦しい。頭が、回らない。ごうごうと潮騒に似た音が耳の中に渦巻く。

 もうそれ以上能面じみた顔を見ていたくなくて、目を閉じた。


「あのさ、なんで――」


 耳鳴りの向こうで何か言いかけているのが聞こえた。そのままそれは絶句する。


 これで終わりなら、どうせなら、海の底を見てみたかった。

 まるで自分らしくないことを思って、最後に悪あがきで抵抗する力も消えて、ただ苦しくて堪らなくなる。もう駄目かもしれないと、思考の切れ端が闇に呑まれていく。



 ――不意に、首に回った手の力がわずかに緩んだ。


 いきなり温い空気が肺に流れ込んできた。喘ぐように息を吸う。焦って呼吸したせいで咳き込み、身体中が鮮烈に痛んだ。

 酸素が供給され、ようやく頭がはっきりして、伸しかかってくる身体を力いっぱい突き飛ばして上半身を起こした。


 沼みたいな目が見えた。焦点が合っているのかいないのか、ただ私の顔あたりを眺めていることは分かる。パッチワークのような皮膚の色が痛々しくて、むごいなと妙に冷静にそう思う。

 殺されかけたというのに、走って逃げる気力も体力も無かった。座り込んだまま茫然とする。コンクリートに擦れた手のひらが痛い。喉も耳も腹も痛い。時々白飛びしたように視界が瞬いて、目を瞑って眉間を擦った。


「……ごめん」


 呻くような低い声に顔を上げると、地面にうずくまっているそれが見えた。膝を抱える様子に既視感を覚えて、そういえば同じようなことを言ったなと思い出す。

 気にすんなよ、と笑い飛ばすのは無理だった。


「――お前、なんで……陸じゃないのに……なんで」


 喋るたびに喉が痙攣する。何が言いたいのか自分でも分からなくなって、どうしようもなくなって口を閉じた。

 乱れた髪の下、それが瞬きもせずに地面を見ているのが分かった。気が緩むとまた陸のように見えて、そのせいでさらに逃げる気が失せた。



「なんで殺さなかったんだよ」

 問うと、それは驚いたように顔を上げた。

 しばらく無言で見ていると、表情の無い顔にわずかな変化があった。ぎこちなく眉を寄せて目を細める。

 たぶん、呆れた顔をしていた。


「なっちゃんも殺せなかったくせに」

「そう、呼ぶなって」

 なんで、とは聞き返されなかった。青白い顔に苦笑が浮かぶ。


「……あのさ、どうして分かったの? てかいつから気づいてた?」

「お前の――首、絞めた時」

「え、マジ? めっちゃすぐじゃん。俺なんか変だった?」

「顔が違うだろ」

「はは……それ、普通は気づかねえのにな」

 苦笑まじりの言葉に肩をすくめる。陸のようで陸じゃない、中途半端な声に聞こえた。



「お前、悪霊みたいなもんだって言われてたぞ」

 シャツについた小石や砂を払い落しながら言うと、ケラケラと笑い声が立った。

 でも全く明るくなくて、ただそうするしかないから仕方なく笑っているようだった。


「悪霊、なのかな、よく分かんねえけど。今はお前の友達の『陸』だよ」

「友達じゃない……」

「俺――陸は、そう思ってたよ」

 予想外の答えに言葉を失う。そんなわけがないとは言えなかった。

 虚ろな笑い声がふつりと絶えてそちらを見ると、小さな子どものように膝に顔を押しつけていた。そのままくぐもった声がする。



「別に騙すつもりなんか無かった。ただ、誰にも気づかれないと寂しいだろ」

 息が詰まりそうだった。

「……そうだな」

「死なせるつもりも無かったんだよ。でもなんか、いつも途中で、どんどん、上手くいかなくなっちゃって……」

 俺のせいなのかな、と囁くような声が聞こえた。


 中沢の話を反芻する。たぶん、これから逃げられなかった人はろくな結末を迎えなかったのだろう。中沢ははっきりとは言わなかったが、死にたくなければ言う通りにしろというのは、きっとそういうことだ。

 どれだけ人らしく見えても、もう何か別物なのだ。同情も憐憫も要らないし、してはいけない。フランケンシュタインの怪物は、徹底的に拒絶されて終わる。


「次はやめようって思ってもさ、もう自分が誰なのかも分かんなくて、それが怖くて、だから結局、やめられないんだよ」

 平坦な声には確かに悲痛が混じっていて、耳を塞ぎたくなった。

「……映画だったら、ここら辺で拝み屋とかが出て来るのかもな。それで悪霊は消えて、全部解決して、終わりだ。そうなれば、良いのに」

 でも、そんなに上手くはいかなかった。私の目の前にうずくまるそれは、一向に消える気配は無い。



「――ごめんな。俺、どうやればお前が助かるのか分かんないんだよ」


 顔がのろのろと上がる。継ぎはぎの顔が歪む。

「死なせるつもり、無いんだけどなあ……」

 それが『陸』の言葉なのか、怪物の言葉なのか、分からなかった。


 不意に生温い液体が唇の上に垂れてきて、シャツの袖で拭うと真っ赤な染みが見えた。鉄臭い。――鼻血だ。

 きっと、もう時間が無い。だらだらと流れる血を袖で押さえて、立ち上がる。



「もう、行こう」

 声が掠れて何度か咳払いした。

「――は? 行くって?」

「さっきも言ったけど、仕事だよ」

 車を指差すと、それはしばらく黙っていた。


「……逃げねえの?」

「今さらだ。お前――もう面倒だ、陸でいいか。陸、手伝うって言っただろ」

 探るような目が突き刺さって、顔を背けた。


「いや言ったけどさ……別に脅すわけじゃないけど、あんま良くねえよ。俺がそばにいると、なんか……どんどんおかしくなっちゃうから」

「今まで大したこと無かったから大丈夫だろ」

 思ってもいないことを言うと、しばらく沈黙が落ちた。


「……実はお前、すげえ馬鹿なの?」

「うるさい。早く乗れよ。運転中に首絞めてきたら殺す」

 睨むと、一拍置いて蒼白な顔に呆れたような笑みが浮かんだ。

「こわー、小学校の先生から怒られた時のこと思い出した」

「乗らないなら置いて行くから」

「分かった、乗るから! 仕事も手伝うし置いていくなって!」

 大袈裟に騒ぐ声にわずかな安堵を感じて居た堪れなくなった。まだ痛む喉に触れて、同情するなと自分に言い聞かせる。

 ――私は、いつまでもこんなものと一緒にいる気は無い。



 運転席に座り、中沢から言われた場所をスマートフォンで調べていると、隣からふと遠慮がちな声がした。

「あのさ……ありがとう」

「何が」

「えー、色々?」

 礼を言われるようなことじゃない。同情しているわけでもない。勘違いは分かっていたが、訂正しなかった。


 画面を見つめたまま浅く頷く。

 罪悪感で、そうすることしかできなかった。

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