人でなし
「なっ……夏月ってなんでこの仕事始めたの? バイトっつーか、裏バイト?」
「そんなんじゃない」
砂まみれの足が気持ち悪くて、砂浜を上がったすぐのところにある水道で足を洗いながら答えた。
「一応、清掃バイトって名目がある。清掃する場所がアレなだけで」
「そういうの裏って言うんじゃないの?」
「いつもならちょっと嫌な場所ってだけなんだよ。特殊清掃と一緒だ」
「特殊?」
「孤独死した人の家なんかの掃除。最初はそれもやってたけど、臭いが駄目で辞めた」
「あー、腐敗臭か。昔から香水とかも匂いキツいと駄目だもんな、お前」
水は温くて、出してすぐは赤錆が混じっていた。タオルを忘れたのでコンクリートに裸足で突っ立ったまま乾かす。
「なんかやっぱ、意外だなあ。もっと手堅く生きてそうだと思ってたから」
「人でなしだからな」
「なんだそれ」
陸はじゃぶじゃぶ手を洗いながら笑う。顔の火傷は範囲を広げていて、少し肉が焦げたような臭いがした。
「言われたことあるんだよ。自分のことも他人のこともどうでもいいんだねって」
人でなし――だと、罵られたのか、憐れまれたのか。曖昧で覚えていないのは、確かに心底どうでも良かったからだろう。
「誰に言われたの? 彼女?」
「誰でもいいだろ。ただ、まあ、そうなんだろうなと思って」
昔から自分の執着が薄いのは分かっていた。騙されて自分が不利益を蒙ろうが、家族が酷い目に遭おうが、特にどうとも思わない。大事にしていたつもりのものを壊されても、少し虚しい気分になるだけですぐに忘れた。
だから真面目に働こうが不真面目に生きようが、どうでも良くなってしまった。
陸は薄っすらと笑って首を傾げた。
「そうかな。まあでも、俺は良いと思うよ、そういう適当なところ」
「良い?」
「逃げないでいてくれるじゃん。その、中沢さんだっけ? その人から逃げろって言われてるんじゃねえの?」
知っていたのかと驚いて、すぐ納得した。陸はとぼけているようで妙に察しの良いところがあった。
「だからさ、どうでもいいんだとしても、俺にとったらお前は優しいよ」
「……それは、お前が死人だからだよ」
最低なことを言うと思ったが、優しいと勘違いされるのは居心地が悪かった。
「生きた人間より気が楽なんだ。どうせ幻覚みたいなもんだし……」
その言葉に陸は特に怒らず、ケラケラ笑った。
「死人と人でなしがつるんでるってことか。ちょうど良いんじゃない? どっちも合わせたら半分くらいは人だろ」
「意味分からないこと言うなよ」
なんとなく力が抜けた。もうあらかた乾いていることに気づき、裾を直して靴下と靴を履く。陸は手をひらひら振って水滴を飛ばし、立ち上がった。
「なあ、仕事ってことはまた掃除? 俺も手伝うよ、肉体労働得意だ、し――」
急に言葉が途切れて消えた。
振り返ると、うずくまる陸の姿が見えた。
――焦げ臭い。
状況が頭に入ってこなくて、馬鹿みたいに突っ立っていた。我に返って陸の右肩に手を置く。
「おい、何やって……」
肉が焼ける臭いだ。陸は低く唸るような声を上げ、両手で顔を隠す。庇うように突き出された左腕の火傷痕から血膿が滲んでいた。
「な、っ……なっちゃん、ヤバい……かも」
怯えた色の右目が私を掬うように見上げた。その一瞬あと、不意に身体を折り曲げて激しく咳き込み始める。
ゲホゲホと呼吸する隙も無いほど咳き込む。狼狽えてどうすればいいのか分からず、茫然とそれを見た。焦げ臭さはさっきより強くなって、陸の足元には濃い染みがぼたぼた落ちていく。
――血だ。
「顔、どうした」
自分で驚くほど声が強張っていた。頑なに隠そうとする腕を引き剥がし、無理やりその顔を覗き込む。
額が割れていた。傷口は真っ赤に濡れて、流れた血が火傷の上を滴り落ちる。見開かれた目は大きく揺れて、青ざめた顔はいっそう白くなった。
映画の中でしか見ないような傷だと思った。生々しさに怯みそうになるのを押し隠す。止血、と咄嗟にポケットを探ったが、タオルが無いことを思い出した。
仕方なく、脱いでいたジャケットを丸める。顔を仰向かせて額に布地を押し当てると、陸は小さく呻いた。
「ごめん……」
何に対して謝っているのか分からなかった。私はただ力加減に意識を割いて、それ以外のことは考えないようにしていた。
咳は徐々に収まって、陸は逃げるように立ち上がった。引き剥がされたジャケットの下から半分血が固まった傷口が現れる。
「――ごめん、ジャケット、汚した」
たどたどしい言葉の端々に奇妙なひずみがあった。古いテープを無理やり再生しているような、ざらついた声。同時に、青白い顔の輪郭がぶれる。
何度か瞬きして焦点を合わせると、そのぶれは治まった。
「ジャケットは……別に良い、セールで買った安物だから。それより、痛くないのか」
「俺は大丈夫。驚かせてごめん」
申し訳なさそうな笑みに目元の黒子が一緒に歪む。なんでそんな傷、と続けて訊きそうになって飲み込んだ。
車に戻ってとりあえず消毒と絆創膏を取り出す。陸は血のこびりついた前髪を弄りながら、「別にいいのに」と気が進まなそうに言った。
「消毒しなくていいよ。意味無いから」
「いいから顔上げろ」
とは言っても、怪我の手当てに慣れているわけではない。額の傷口は流れた血のわりにそこまで深くはなかったが、縫った方が良いんだろうと思う程度にはひどかった。
濡らしたタオルで慎重に血を拭って消毒し、大きめの絆創膏を貼る。その間陸は目を閉じていて、それは蠟のような作り物じみた顔に見えた。いつか祖母の葬式に参列した時、棺桶に横たわっていた老婆がまるで趣味の悪い人形のように見えたことを思い出す。
「……裁縫キットがあったな」
沈黙が恐ろしくて呟くと、陸は薄く目を開けた。
「なに? なんで急に?」
「いや、この傷、縫った方が良さそうだ」
「俺の? やめろよ、お前、家庭科の成績クソ悪かったじゃん!」
「やってみたらできるかも」
「無駄なチャレンジ精神いらないって。俺がフランケンシュタインみたいになったらどうすんの」
心底怯えていそうな表情に気が緩んだ。
「……フランケンシュタインは怪物の名前じゃない」
「そうなの?」
「フランケンシュタイン博士が継ぎはぎの怪物を作ったんだよ。怪物に名前は無い」
陸は少し眉をひそめた。
「博士、名前つけてあげなかったんだ。自分で作ったのに」
見た目が醜くて忌み嫌われたんだと言うのは気が進まなくて、ただ頷いた。
「――怪物は博士に自分の伴侶を作ってくれと要求するけど、結局得られずに終わる。救いが無い話だろ」
「へえ……でも、やっぱり怪物でも一人だと寂しいよな。なんか分かるかも」
助手席のシートに背を凭れ、陸は囁くように言った。
蒼白な頬にはまだ血の流れた跡がこびりついていて、泣いた後のようにも見えた。
いい加減片を付けようと、繰り返し、繰り返し、自分に言い聞かせる。
「……寂しいから、こんなことしてるのか」
言った途端、怪訝そうな目と視線が合った。
なんでもない、と言いそうになるのを堪える。
真っ黒な目は飲み込まれそうな深い色だ。左側の顔は火傷のせいで皮膚の色が違って、まるで継ぎはぎの怪物のようだと思う。
これ以上火傷が広がって、もし顔が分からなくなったら、私はこれを陸だとしか思えなくなるのだろうと思った。
そうなったら本当に手遅れだ。
「お前、人じゃないんだろ」
喉を鳴らして唾を飲み込む。ハンドルに下がったお守りを意味も無く握る。
「誰なんだよ」
真っ黒い目が、小さく見開かれた。ガラスのような瞳に私の引き攣った表情が映っている。
「――陸じゃないよな」
一息にそう言うと、目の前の青白い顔から一切の表情が消えた。
人間らしくない、能面のような顔だと思った。
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