亡霊
コンビニで買い込んだカフェイン飲料の缶を開けながら、無理やり醒ました頭で考える。
――そろそろ片を付けないと。
もう十分話した。十一年の隔たりはほんの少し埋められた。それで満足だろう。
いい加減、この異常を直さなくてはいけない。
潮風が目に沁みた。防波堤の下、砂浜に降りていく陸の背を見送り、その先に寄せる波を見る。タールのような黒がうねる様子は、巨大な蛇が這いずっているようにも思えた。
「なっちゃん降りねえの?」
「砂の上歩くのきついんだよ」
「おっさんみたいなこと言うなよ!」
ケラケラ笑う声がよく響く。あっちはまだ大学生のような外見だが、こっちはもう二十も後半だ。海ではしゃげるほど体力は無い。
海に行きたいと言い出したのは陸だった。どうせ行く場所が無いならそうしようと言われ、特に反対する理由も無かったので頷いた。
陸が深海に行ってみたいと話していたことを思い出し、海に行けば何かが解決するのではないかと何の保証も無い考えが浮かんだ。
陸は波打ち際をフラフラと歩いている。それを視界の端で見ながら、スマートフォンの画面に視線を落とした。
大量の通知はメールと不在着信で、全て中沢から来ていた。飲み干したエナジードリンクの缶を転がしながら、どうしようかと考える。これ以上無視すると後が怖い。
その時、見計らったように着信の表示が出て、監視でもされているのかと一瞬馬鹿なことを思ってしまった。
数コール分悩んだあと、通話ボタンを押す。こちらが名乗る前に『中沢です』という平坦な声がした。
『やっと出てくれましたね』
相変わらず責める調子の無い声だったが、とりあえず「すみません」と謝った。だが謝罪は無視され、淡々と声が流れ出る。
『あれはまだそばにいますか」
あれ、が陸を指しているのは分かったが、少し複雑な気分になった。
「まあ……はい、いますが」
『なら置き去りにして逃げてください。車なら追いつけないはずです』
無機質にそんなことを言われ、柄にもなく苛立ちを感じた。
「そう言われても……無理ですよ。人にしか見えない」
『人ではありませんよ』
冷ややかな断定にしばらく言葉を失った。
『騙されているだけです。あなたの友人や恋人や家族に見えていても、それは今だけです。よく思い出してください。見た目だって違うはず』
――そんなことは分かっている。
ふとした瞬間に、これは誰だろうと思う。こんなのは陸じゃないと、ほんの少し正気に戻る。
でも、分かっていても、どうしても言い出せないのだ。
私が黙っていると、中沢の声に初めて少し変化があった。
『……分かっていて、一緒にいるんですか』
たぶん、呆れているのだろう。自分でも呆れるので、腹は立たなかった。
「でも、あいつは陸の……私の知り合いの記憶を持っている。それは絶対、間違いありません」
『そういうモノなんです。記憶や仕草や表情を真似て取り入ってくる。悪霊に取り憑かれたようなものです』
ひどい言い草だと笑えたが、悪霊という言葉はなぜかしっくり来た。陸が言った幽霊の話を思い出す。
――俺ならきっと、誰かに気づいてもらいたくて何でもやるだろうなあ。
顔を隠した幽霊の男。他人の真似をする道化。誰のものにも見えなかった顔が蘇る。
『あれは二十年以上前からこの辺りにいるんですよ』
原稿を読み上げるような調子で、中沢は滔々と語った。
『あの家に移る前は学生街のアパートの方にいました。アパートの前は大学、大学の前は小規模なカルト教団、その前はある老人ホーム……取り憑く相手を替えてあちこちに出没するんです』
何を言っているのか分からなかった。黙っていると、中沢は小さく溜息をついた。話の通じない生徒を相手にする時のようだと思う。
『取り憑かれた相手はあれを死人だと思うようですね。昔亡くなった友人や家族……色んな人に化けてそばに近づいてくる。言葉を交わさずにすぐ逃げ出せば助かるようですが、喋ってしまえば簡単には逃げられなくなる』
ドリンクの缶が手から離れて転がっていく。それを捕まえる気にもなれなかった。
『殺せば逃げられるという噂もありますが、真偽は不明です。ただ殺さずにいると、徐々にあれは壊れていってしまう』
――他人の物真似はすぐにボロが出るから。
『凶暴になって人を襲うこともあると。あれが現れた場所はケガレてしまうし、正体が何にせよ良くないモノです。あなたはあれがご自分の知り合いではないと気づいたのでしょう。ならば逃げられるかもしれません』
機械のような柔らかな声に翳りが滲んだ。
『死にたくなければ言う通りにしてください』
私はしばらく答えられなかった。
――死にたくない?
そうなのだろうか。大学を出て、やりたくもない教師になって、自分の無責任さを痛いほど知って、辞めて、ろくでもない仕事をして――死にたいわけではないがこんな生活をいつまでも続けたいとは思えない。
陸のふりをしているものの方が、ずっと生きた人間のように見える。
「……何か方法でもあるんですか」
やっとそれだけ言うと、中沢は『確実ではありませんが』と前置きして言う。
『あれを連れて、行ってみてほしい場所があります』
電話を切って茫然としていると、砂浜から陸が大きく手を振っているのが見えた。
「降りて来いよ!」
その明るい声音に諦めた。革靴と靴下を脱いで、飛び降りる前のように防波堤の上にぴったり揃える。裾をまくって砂浜に降りると、意外に冷たかった。
のろのろと砂浜を横切っていくと、陸が心底楽しいという表情で笑っているのが見えた。
「なんか青春っぽくない?」
「二十六にもなって青春したくない……」
「俺まだ二十なんだよな、ラッキー」
何がラッキーなんだと混ぜっ返すのはやめて、ただ「そうだな」と呟いた。
うねる海は何か意思があるようで怖かった。月明かりを反射して銀色の光が閃いている。寄せる波の音は血潮と鼓動の音に似ていると思った。
「海に溺れて死んだら、藻が絡んで上がってこないこともあるんだって」
砂を掬っては零すのを繰り返しながら、陸はそんなことを言った。なんだからしくないことを言うと思う。
少し意外に思ったのが伝わったのか、陸は砂を弄ぶ手を止めた。
「――って、前に誰かに聞いた、ことがあって……」
あやふやな声は徐々に自信を失って、不安そうな横顔が見えた。私は笑おうとして失敗し、仏頂面のまま言う。
「そうなったら、海の底が見れるかもな」
「ああ……そうだよね。それは良いかもな」
陸はほっとしたように笑って、砂を海に向かって投げつけた。砂が撒き散らされる様子に、ふと何かを思い出す。
「……昔、小学生くらいの頃、一緒にタイムカプセル埋めたことがあっただろ」
陸はゆっくり目を瞬いた。
「そんなことあったっけ?」
「砂浜に埋めた。十年後に掘り返しに行こうって言って、そのままだ」
「――ああ! めっちゃ懐かしいな。てか覚えてたんだ」
「今、思い出した」
本当に今まで忘れていた。小学生の頃の記憶なんてほとんどぼやけていて、でも砂を掘ってアルミ缶を埋めた手触りだけ、はっきりと蘇ってきた。
「何入れたっけ?」
「いらないキーホルダー入れた」
「ゴミじゃん……」
「陸はなんかレアなカード入れてただろ。馬鹿だ」
「すげえ真っ直ぐ悪口言うなよ。なんか思い出してきたし……俺が埋めようっつったんだよな、確か」
当時人気だったアニメか何かの影響で陸が「埋めたい」と言い出したのだ。影響されやすいやつで、次々何かをやりたいと言い出しては私を巻き込んできた。
「十年後の自分へのメッセージとかも書いてたよな。何書いたんだ?」
「恥じゃん。言わねえよ」
「もう死んだから良いだろ」
「雑すぎる……てかさすがに覚えてないし」
不貞腐れたように言ったから、たぶん思い出したんだなと思った。昔から誤魔化すのも嘘をつくのも下手だった。
見た目が違っても中身が同じならそれは同じ人間なのか――たぶんそれは、使い古された問いだ。ずっと考えているが、まだ答えは出ない。
ゆっくりと息を吐き、時計を見る。まだ二時半過ぎだ。まだ、時間はある。
「もう行くか」
「どこに?」
「仕事だよ」
短く答えると、陸は小さく俯いた。
その様子は、悪霊と呼ぶにはずいぶん頼りなさげに見えた。
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