ドライブ

 陸の火傷痕は左半身に広がっていた。シャツの袖から剥き出しの腕が爛れている。あまりそちらは見ないようにして、閉まったガラス戸の前で二人して途方に暮れる。

「……お前が、ドア開けたから」

「いやちょっと触っただけじゃん……」

「ちょっとでも触ったら駄目なんだよ」

 ガラス戸を叩いても震えるだけだ。夜道を通りかかる人もおらず、助けを求める相手がいない。


「壁、本当にすり抜けられないのか?」

「無理だって! 普通に痛いし」

 バンバンとガラスを叩き、顔をしかめて陸は手のひらを睨む。

「……ここから出られなくなったらどうなるんだ?」

「知らねーけど。餓死とか? 嫌な死に方だね」

 まるで他人事だった。飢え死にの心配が無い分、幽霊の方が気楽だと思う。


 これでは埒が明かない。ロビーを見渡して、打ち捨てられた備品の中にパイプを見つけた。ポスターを吊るすのに使われていたのか、細長くて軽いものだ。

 ジャケットを脱いで陸に押しつけ、袖をまくった。何度かパイプを床に叩きつけ、そこそこ強度があることを確かめる。

「うわー、不良っぽいじゃん」

「うるさい」

「ごめんって。でも怪我しない? 危ねえよ」

 それは分かっている。でも何かやらないと行き詰まってしまう。行き詰まってしまえば、自分の隣にいるのが誰なのか、またろくでもないことを考えてしまう。


 パイプを振りかぶる。陸は大袈裟に遠くへ避難した。

 できるだけ力を込めてガラス目がけて振り下ろした。ガシャン、と盛大な音が鳴って肘まで痺れる。

 指が震えてパイプを取り落とした。思わず腕を押さえて呻くと、ケラケラ笑いながら陸が近づいてきた。


「良いフォームじゃん! 野球やってたっけ?」

「やってない……割れた?」

「あーちょっとヒビ入ってる? かなあ」

 陸が指した傷は、ヒビというよりただの掠り傷のようだ。ガラスの表面が傷んだだけだろう。

 舌打ちしてパイプを引き寄せる。また二、三度ガラス戸をパイプで力任せに殴って、ヒビが入ったところを先端でガツガツ突く。小さく砕けたガラスが飛んで床に光を撒いた。


 そのまま黙々と作業を続けて五分ほどで片面の戸のガラスはだいぶ割れた。飛び散ったガラス片を身体から叩き落とす。剥き出しの腕には細かい傷ができて血が滲んでいた。

 できた隙間から無理やり外に出ると、生温い風が額を撫でた。少し曲がったパイプは映画館の中に放り込み、しばらくガラス戸の惨状を眺める。

「すげえ、こういうの、力業でなんとかなるんだね」

「……まずいな」

「何が? 呪われるとか?」

「通報されたら捕まる。逃げるぞ」


 犯罪者のような気分で映画館から逃げ出した。陸は発作のように笑いながらついて来る。近場に停めた車の中に戻って、それでようやく気が抜けて、私も少しだけ表情を緩めた。

 腕時計は午前二時を指している。――まだ夜だ。


 どこへ行こうかと悩みながら、ふとスクリーンに映った映像を思い出した。

 煙に覆われた視界と、弱弱しく絶えた呼吸音。


「……陸、職場で死んだのか」

 そう訊くと、陸は笑いを収めてあっさり答えた。

「え? まあ、うん。お前知らなかったの」

「親が言ってたかもしれない。覚えてないけど」

「興味無さすぎじゃん。長い付き合いなのにさあ」

 その言葉に俯く。一方的にあんなものを見てしまったのが気まずかった。本物の陸なら、たぶん、知られたくなかったと思うはずだ。

 陸は私の気まずさが移ったように身じろぎした。「不謹慎だった?」と苦笑いするのが聞こえて、俯いたままかぶりを振る。



「……教師やってたんだよ」


 唐突に呟くと、陸は目を瞬いた。

「――ん?」

「高校の。大学出たあと」

 そこまで一気に言うと、少し遅れて陸は「マジで?」と声を上げた。


「え、先生? 先生やってたの? 高校の? ヤバいな!」

「何がだ」

「色々! うっそ、ぜってー子ども嫌いだと思ってた」

「苦手なだけだよ、嫌いって言うな」

「でもすごいじゃん、先生って。人に何か教えられるってすげーよ」

 衒いなく言われて居心地悪くなる。そんな大層なものではなく、せっかく教職を取ったのだし他にやりたい職業も無くてやっただけだった。それも三年で辞めてしまった。


「なに教えてたの?」

「大体、現代文。向いてなくてすぐ辞めた」

「えー、そっか。でも俺、お前が教えてたら、ちゃんと起きれたかもなあ」

「面白がってるだけだろ」

「いや、なっ……夏月が言ってた本の話面白かったし。高校の授業めっちゃサボっちゃったの、卒業してから勿体なかったなってちょっと思ったんだよな」

 意外に思って隣を見た。中学の頃、陸は騒がしい生徒でもサボっていたような印象は無かった。


 その疑問を察したように、陸は苦笑いを浮かべた。

「高校の頃はあれね、俺、馬鹿だったから」

「……へえ」

「グレたわけじゃないけど、他人のこと舐めてたんだよな。最悪だろ」

 あまり想像がつかなかった。曖昧に首を傾げると、陸はまた苦笑する。


「でもそうか、納得した。なんか言葉遣い丁寧になったもんな。授業、どうやって教えてたの? 宿題めっちゃ出した?」

「優しい先生やってたから、そんなことしない」

 本当は優しいというより、無責任な教師だった。最低限やるべきことだけやって、それで終わりだ。

 大学出てすぐの新任教員なんて、中身は大して生徒と変わらない。それでも教師というだけで相手から無条件に頼られるというのは、私には重荷だった。他人の人生の責任を、例え一部だったとしても、背負いたくなかった。

 だから今こんなことになっているのだろう。わけの分からない危険な仕事で食い繋いで、自分の人生すら投げやりに消費している。それが性に合っていた。


「俺みたいな生徒いた?」

「……色んな子がいた」

 意味も無く教師を「良い人間」だと信じているような生徒も、逆に嫌う生徒も、色んな子がいて、誰かに似ているとも思わなかった。

「やっぱ先生って呼ばれてたの?」

「今の高校生なんて教師のことは呼び捨てだろ」

「はは、俺もそうだったかも。なんかごめん」

「……先生って呼ばれるより、そっちの方がましだった」

 へえ、と陸は言って、黒い目を少し細めた。


「てか、なんで教えてくれたの。さっきは言いたくなさそうだったじゃん」


 また俯くしかなかった。大した理由じゃない。

 ただ、不公平だと思ったのだ。相手の知らない面を、誰も知らなかったはずの記憶を見てしまったから、勝手に引け目を感じた。それだけだった。


「暇だからだよ」

 嘘をついて、それで会話は終わった。駐車場から車を出して、適当な方へとハンドルを切る。

「次、どこ行くか決まってんの?」

「さあ……適当に走る」

「仕事はサボるしガラスは割るし、俺より不良じゃん、先生」

「元先生だよ」

 スマートフォンには通知がたくさん届いていたが、まだ確かめる気にはなれなかった。


 陸は小さく笑って言った。

「夜のドライブってなんか不思議だよな。人がいなくて、夢の中みたいな感じする」

 現実味の無さは確かに夢のようだと思う。隣には死んだ幼馴染がいて、行く当ても無いまま街を走っている。


 永遠に終わらない夜を旅する――そんな話を昔見たことがある気がした。タイトルは何だっただろう。

 朝が来ないまま、夜の街を彷徨う。その中で遭う出来事も人も全て夢幻のように不確かで、主人公も孤独で空虚で、わけが分からない話だった。ただ、行くべきところも帰る場所も無い私たちはその主人公に似ていると思う。

 でもこの旅は永遠に続くものではなかった。

 この夜は、もうすぐ終わりが来る。


 言えないまま飲み込んだ問いを頭の中で繰り返し、いつ終わりにしようかと考え続けた。

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