上映
隣の駅前の映画館には半年前に潰れていたようだ。何か替わりに建設する予定も無いのか、建物は封鎖されて廃墟になっている。特に荒らされているわけではなかったが、中身を失った虚ろな気配が漂っていた。
「間が悪いな」
試しに押してみたガラス戸は硬い手応えで、鍵が掛かっていた。
「最近は名画座なんて流行んないんじゃないの」
陸は肩をすくめてそう言う。明るい茶髪は夜闇に溶けて、顔を見るたびに感じる違和感は少し薄まっていた。
半年前のポスターが外壁に据え付けられた掲示板に残っている。春のロードムービー特集というポップ体の字をぼんやり眺めていると、陸は無造作に正面のガラス戸に手を触れた。
「……あれ、開いた」
「は?」
「開いちゃった、ドア」
陸は戸惑ったようにこちらを見て、半笑いでガラス戸を押す。さっきは確かに鍵が掛かっていたのに、ガラス戸はゆっくりと内へ開いていった。
それを見てどうコメントしようか迷っていると、陸は怯まず薄闇に呑まれたロビーを覗き込む。――その姿にふと嫌な予感がした。
やめろ、と言いかけた瞬間、陸の身体は何かに引きずり込まれるように建物の中へ消えてしまった。
呆気に取られて、しばらく何を見たのか理解できなかった。
「……おい」
悪ふざけか、それとも他の何かか。ただ棒を呑んだように立ち尽くし、元通り閉じたガラス戸を見つめる。映画館の中は静まったまま、ガラス越しに陸の姿はどこにも見えない。
慌てて戸を開けようとして、触れる寸前に手を止める。躊躇いが急に頭をもたげた。
――開けるべきじゃない。
このまま逃げよう。
あれは「陸」とは違う。
上げた手を下ろす。私はゆっくりガラス戸に背を向けた。
見捨てるのかと詰る声が自分の内にある。それでも構わない。人でなしだから、自分の身を危険に晒してまであの得体の知れないやつを助ける気は無い。
迷いながら遠ざかる。距離を取るうちに躊躇も消えて、早く帰りたいと思った。こんな奇妙な夜はこれだけでもう十分だ。
――背後、ひどく遠い場所から、切迫した悲鳴が聞こえた気がした。
足が止まった。
ガラス戸を振り返る。建物の中は暗くてよく見えない。
「……」
聞き間違いだと必死に言い聞かせる。それでも悲鳴じみた声は耳にこびりついて離れない。陸の声だっただろうか。あれの声だっただろうか。――よく分からなかった。
革靴の底がコンクリートを噛む。躊躇い、踵を返し、立ち止まる。
なぜこんなことになったのか、理由を考えてもどこにも答えは無かった。真っ暗な廃墟は静まり返り、まるで獲物が罠に嵌まるのを待っているようにも思える。
もう一度、誰のものか分からない悲鳴が響いて、誘われているようだと思った。
溜息をついて、髪を搔き乱す。なんでこんな目に遭っているのか――元をただせば自分のミスだと思い至ってますます苛立った。
入り口に近づく。曇ったガラス越しにゴミの散乱したロビーが見える。
ここまで来てもまだ決心はつかなかったが、戸に触れた瞬間、何かに腕を掴まれたような感覚がして私も中へと引きずり込まれた。
視界が一段と暗くなる。足元で何か潰れるような音がして、見下ろすと古いポスターだった。
ロビーの床にはポスターやフライヤーが散乱して、一歩進むごとにぐしゃりと足音が鳴る。入ってきたガラス戸はすでに閉まっていて、なんとなくこうなることは察していたもののどうすればいいのかは全く分からなかった。
とりあえず陸を探そう。ペンライトを点けて周囲を照らすと無人のカウンターが見えた。その奥にはシアターの並ぶ通路が続き、誰かが忍び込んだのか落書きの残る壁もあった。
ロビーに陸の姿は無い。だが散乱したポスターに踏まれた痕が残っていて、それはカウンター奥の通路へと向かっていた。
その痕跡を辿って私も通路に入る。壁の落書きを何気なく照らすと、赤茶けたような色で「戻れ」と書いてあった。
そんなことを言われても、今さら後戻りできない。ガラス戸に書いてくれればいいのにと思い、もしかしたらこれを書いた人は外に出られなくなったのかと嫌なことを考えてしまった。
とりあえずシアターを端から順番に確認しようと決めた。誰もいない映画館はどこか奇妙だ。階段状に並ぶ座席と暗いスクリーンを照らし、陸がいないことを確かめて劇場から出る。
通路を進むと落書きは増えていった。「戻れ」「行くな」「引き返せ」――そんな文字が重なって潰れて、まるで血潮のように壁を染めている。嫌な予感に足取りは鈍って、でも引き返すことはできなかった。もう遅い。
一番奥のシアターの両開きの扉を押し開けて中を照らす。そこにも陸の姿は見えない。
一体どこへ行ったのかと思った瞬間、低く唸るような音が聞こえた。
スクリーンに、いきなり何かの映像が映った。
視界がパッと明るくなる。スクリーンを振り仰ぎ、そこに映っているのが一瞬何か分からずに眉をひそめた。
喘鳴のような呼吸が大音量で聞こえる。ぐらぐらとブレる画は誰かの視点映像のようで、たびたび手足だけが映っていた。白く煙る映像と咳き込む音と、ちらちらと映る炎――火事だろうか。
その人がいる場所はよく分からない。ちらりと機械のようなものがスクリーンの端に見えたから、工場かどこかか。煙のせいで何も見えず、どこへ行けばいいのか分からない焦燥感だけが伝わってくる。
ぜえぜえと繰り返す呼吸が何度か詰まって、大きく映像が揺らいだ。――床に倒れたのだ。
「……陸」
無意識に呟いて、愕然とした。
映像が霞んでいる。煙のせいだけじゃない。意識が朦朧としているのかもしれない。
スクリーン越しに見ていることしかできないのがひどく居心地悪かった。何度もペンライトを握り直して、逃げないとと思うのに足が根を張ったように動かない。
この映像の終わりがどうなるのか、ぼんやりと嫌な想像が浮かぶ。
喘鳴が徐々に弱くなっていくのが聞こえる。映像は端からじわじわ黒くなっていく。もう見ていられないし、聞いていたくもなかった。
シアターから出ようとゆっくり後ずさり、少しも進まないうちに背中が何かにぶつかった。
「なっちゃん」
掠れた小さな声が聞こえた。
振り返る。ペンライトの光が過ぎって、焼け爛れた腕がこちらに伸ばされているのが見えた。
息を呑むと、その反応に怯んだように腕が引っ込む。暗がりに立つそれはペンライトの明かりを避けるように顔を背けた。
背後のスクリーンは見えない。でも、さっきまで聞こえていた喘鳴まじりの呼吸が絶えた。
唐突に、恐ろしいほどの静寂が訪れた。
私はペンライトを下ろした。暗がりに沈む顔は見えない。髪が焦げるような臭いが鼻先を掠める。
何より先にこの男から逃げないといけない。それは分かっているはずなのに、これはたぶん陸じゃないのに、どうしても足が動かない。
そもそもここに入ってしまった時点で、私はきっと駄目になっていたのだ。
「……ここから出よう」
独り言のように呟いた。腕を掴むと痛そうだと思い、ただシアターの出口を指差す。
「――それでいいの?」
戸惑ったような小さな声が聞こえて、それには答えられずに出口に足を向けた。
いいわけがない。ついてこないでくれと思った。このまま別れて、元通りになってほしかった。
そう思ったが、背後から躊躇うような足音が聞こえてきて安堵とも落胆とも分からない妙な気分になった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます