面
――目が合った。
狼狽して強くロープを引いた。今さら抵抗するように震える手が私の腕を叩いて、力は弱いのに、なぜかひどく痛く感じた。
駄目だ、ロープを離すなと思うのに、徐々に手から力が抜けていく。黒い目が私を見ている。
陸、と呼びそうになって、声になる前に言葉は消えた。
――違う。
不意に強烈な違和感を覚えた。
目の前、苦しそうに歪んだ顔をまじまじと見る。明るい茶髪と青白い顔。真っ黒い目と泣き黒子。これは陸だと思うのに、何か不安定な土台の上に立っているような、じわじわと侵食してくるような心許なさに襲われた。
混乱と動揺で、一瞬、自分がどこにいるのか分からなくなった。
視界が真っ白に弾ける。
白くなった視界が戻って、図書室の中、カウンターに肘をついて雑誌をめくっていた横顔がまた蘇った。
中学の頃、確かにこんな景色を見ていた。昼休み、めったに利用客など来ない図書室の光景だ。
陸は集中していないようで、雑誌の同じ記事ばかり目で追っているのが分かる。私の視線に気づいたのか、陸はこちらを見て少し口角を上げた。誰も来ないねと、口がそう動く。
私はそれに何と答えただろう。覚えていない。
窓から射し込む光に照らされて、明るい焦げ茶の瞳が見えた。
息を呑む。ひどく頭が痛かった。脈打つような頭痛に混沌とした思考が吹き飛ぶ。また視界が白く瞬いて、一気に現実に引き戻される。
我に返って目の前の顔を見た。真っ黒な、ぽっかりと穴の空いたような目。飲み込まれそうなほど深い色だ。
――違う。
陸はきっとこんな目じゃなかった。こんな顔じゃなかった。
そう思うのに、蘇った記憶は急速にぼやけてもう分からない。
動揺で上手く呼吸ができなくなった。手がひどく震えている。ロープが手の中から滑り落ちた。
途端に陸は顔を背け、ゲホゲホと咳き込んだ。死んでいるはずなのに首を絞められれば苦しいのか――それともこれは、死んだ陸とは別人なのか。
――お前は誰だ。
そう訊きそうになって、でも何か喉につっかえて言葉が出てこなかった。訊いてはいけない。きっと良くないことが起きる、そんな予感がする。
何かから逃げるように、私は助手席のドアを開けて外に転がり出た。コンクリートの地面に手を突く。小石が食い込んで痛い。
ゲホゲホ咳く音が背後から聞こえる。それもやがて止まって、遠慮がちな声が聞こえた。
「なあ……大丈夫?」
さっきまで首を絞められていたやつの言うことではないと思う。その妙な危機感の無さも陸みたいだった。
ぐらぐらと揺すぶられているように考えがまとまらない。後ろにいるのは一体誰なのか、何なのか、何をしようとしているのか、分からないことばかりだ。
地面にうずくまったまま動けなかった。背後から足音がして、慎重に肩に手を置かれた。
「なっちゃん、どうしたんだよ……」
「――別に」
肩に置かれた手を振り払う。振り返ると傷ついたような顔が見えて、ほんの少し後悔した。
その蒼白な顔を見た途端、蘇った記憶が完全にぼやけて消えてしまった。図書室にいた時の陸の顔が思い出せない。おかしいと思うのに、麻痺したように恐怖は感じない。
白い喉にロープが擦れた痕が残っている。肌に血の気が無い分それは目立っていた。
「……ごめん……」
結局、誤魔化すことも逆に怒ることもできなくて、私は間抜けにそう言うしかなかった。
奇妙な沈黙が落ちて、それから陸は吹き出した。
「なんで笑うんだ?」
「いや――なんか今ちょっと――馬鹿っぽいよ、お前」
「は?」
「気にすんなって。仕方ないよ、俺でも怖いもん」
軽い口調で言われ、どう返事をすればいいのか分からなくなった。
「まあ俺、窒息死するのか分からないけど」
「ああ、そう……」
なら他のやり方を試さなければならないのだろうか。それは嫌だった。出来ると思ったはずなのに、ロープから伝わる震えが手にこびりついているのがまだ気持ち悪い。
これからどうすればいい。溜息をついて立ち上がると、嫌でも陸の顔が目に入った。
「――お前、何なら死ぬんだ?」
「殺す気満々なのやめろよ!」
「冗談だ」
少し躊躇ってから、ごめんと、もう一度呟いた。
陸は曖昧な笑みを浮かべた。
***
「なっちゃんってさ」
「その呼び方やめろ」
「今さら? もういいじゃん」
「とにかくやめてくれ」
お前はたぶん陸じゃないからだと、その言葉だけが喉につっかえて出てこない。
助手席で、陸は諦めたように肩をすくめた。
「夏月? 慣れねえな」
「呼ばなくていい」
「なんでだよー。てかどこ向かってんの?」
「分からない」
目的地も無くただ車を走らせた。深夜一時の道路の先は一体どこに繋がっているのだろう。夜闇に沈んで分からない。
「……お前、幽霊じゃないなら何なんだ」
「さあ、悪魔とか? よくホラー映画で出てくるやつ」
「映画なんか観てたか?」
映画も本も興味が無さそうだったのに意外だと思って問うと、陸は自分で驚いたように目を見張っていた。
「あー……うん、大学にいた時、よく、観てた……」
自信無さげにそう言って首をひねる。その横顔が一瞬、誰にも似ていない能面じみた虚ろなものに見えて、ハンドルを握る手に力が籠った。
「そもそも幽霊って何だろうな。そういえばさあ、前に……幽霊になった男が主人公の映画があって、それを観て……」
陸はぼやけた記憶をなぞるように、小さな声で言う。
「そいつは、遺された家族の元に戻るんだけど、誰も気づいてくれなくて……自分が誰かもどんどん分からなくなって……家族もみんな死んで、それでも朽ち果てるまでそこにいるっていう」
――自分の正体も目的も忘れたまま、執着だけが残っていく。
「幽霊ってそんなものなのかもな」
「……だとしたら、なんか悲しいな」
「だよね。俺は誰も気づいてくれないのは耐えられないかも」
自分ならどうなるだろうと思う。そもそも幽霊になるほどの執着が無いかもしれない。
「……俺ならきっと、誰かに気づいてもらいたくて何でもやるだろうなあ」
横目で見ると、陸は窓に顔を向けていた。
「その映画さ、幽霊になった男の顔はずっと隠れてるんだよね」
窓の向こうは暗く、薄ぼんやりと陸の顔が映っていた。窓に映ったそれは、やっぱり誰にも似ていない面だった。
街灯のそばを過ぎる。窓は一瞬明るくなり、陸の顔は消える。
「――それが一番、哀しかった」
言葉が途切れて静寂が満ちる。また音楽を流そうかと言いかけて、やめる。
沈黙はそれほど居心地悪くなくなっていた。
「……映画館でも行くか」
出まかせにいった言葉だが、言ってみると案外悪くないかもしれないと思った。
陸が驚いたようにこちらに顔を向けたのが分かった。
「マジで? てかやってんのこの時間」
「たぶん、隣の駅前に深夜上映やってるとこがあった」
「あー……」
なぜか一瞬、陸は、痛ましそうな後ろめたそうな、奇妙な表情を浮かべた。
「嫌だったらいいけど」
「嫌じゃねえよ。でもいいの? 仕事とか」
「面倒になった」
中沢からメールが来ているか確認する気も失せた。殺そうとしても駄目だったのだ。それ以上マシな提案をされるとは思えないし、だったらサボってしまえばいい。
陸はまた吹き出して、ケラケラ笑った。
「そんな不真面目だったっけ。図書委員の当番はずっと真面目にやってたじゃん」
「やりたいことならやるんだよ」
陸の方が真面目だったと思う。興味も無いのに当番をサボることはしなかった。
そういうもんかと陸が呟くのを聞きながら、私はハンドルを切った。
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