幼馴染
「覚えてる? 中学でさあ、二年の時だけクラス一緒だったよな」
私は目を閉じたまま曖昧な声を返した。何も考えたくなくて、のろのろと記憶を辿る。
朧気な景色が蘇った。――閑散とした図書室の中、カウンターに肘をついて雑誌をめくっていた横顔。
「図書委員、半年だけ同じだった」
「あ、覚えてた? そうそう。俺が図書室入るの委員会の時だけだったなー」
あの時私は、陸が図書委員に手を上げるとは思っていなかった。
委員決めはほとんど仲の良い者同士が二人で手を上げていて、私は特に拘りも無かったので余っていた図書委員になった。もう一人は誰か律儀で真面目なやつがなってくれるだろうと思っていたが、寝ぼけていたのか気まぐれか、陸があっさり「やる」と言って決まった。
もうあの頃にはなんとなく距離ができていたから、少し気鬱になって、でも全く気にしていないような陸の様子を見てそんなものかと思った。
「あん時ウケたなあ。なっちゃん、俺のこと苗字で君付けしてさ」
小学生の頃のように気軽に名前呼びできる気がしなかったのだ。それで苗字で呼んだら発作のように笑われたことを思い出し、私は渋面を作った。
「そんなこと忘れろ……」
「ははは。俺、あの時が人生で一番本読んだわ」
「言うほど読まなかっただろ。雑誌ばっかり読んでた」
「いや、なっちゃんのおすすめも読んだじゃん! なんだっけ、あの、怖い女の子が出てくるやつ」
「要素が大雑把すぎて分からない」
「作家の名前がなんか可愛かったんだよね。ポットみたいな……ティー?」
カポーティだなと思ったが、言わなかった。
「あとあれ、見ると死ぬ魚? みたいなのも覚えてる」
もう黙ってほしいと思う。中学生の頃、背伸びして英米文学ばかり読んでいたことを今さら思い出した。
「……意外と律儀に読んでたよな、お前」
「そりゃ勧めてくれたもんだからね。なんか面白かったし」
「感想が大体、頭良さそうだね、だっただろ」
「だって意味は分からなかったからさあ。なんていうか、寂しい感じのが多かった。ああいうの好きなの?」
「もうやめてくれ。中学生だったんだよ……」
「でもなっちゃん、大学もそんな感じだったよね」
「英米文学科。――なんで知ってんだ」
「親経由」
厄介だと思った。思えば、陸の訃報を最初に伝えてきたのも親だった。
大学三年になった時、陸が火事に巻き込まれて死んだと母親から教えられた。もう葬式は終わってるけどどうする、と問われた。一度帰省して挨拶くらいしたら、という意味だ。
たぶん母親はそれにかこつけて帰省して欲しかったのだろう。それが分かったから、私は何もしなかった。
「……葬式とか、なんも行かなくて、ごめん」
呟くと、陸は喉奥で笑った。
「なんかちょっと面白いね。そんなこと言われたの初めてだ」
「こっちだって言ったのは初めてだよ」
「別にいいよ! ていうか、自分の葬式どんなだったか知らねえし」
「見たりとか、できないのか」
「なっちゃん意外とファンタジーだね。そもそも幽霊なんていないんじゃねえ?」
私は眉をひそめて陸を見た。
「お前がここにいるのに?」
「あー……確かに。でも、うーん、なんていうか……」
陸は途端に心許ない表情になり、首を傾げて手のひらを見る。
「よく分からないんだよね。壁すり抜けられるわけじゃないし」
握ったり開いたりする陸の手の中、また火傷痕が見えたような気がした。私は目を逸らした。
「幽霊は壁抜けられるって安直だろ」
「でも楽しそうじゃない? 覗いちゃ駄目なところって大体覗いてみたいよな。あ、変な意味じゃなく」
「変な意味にしか聞こえないな……」
けたけた笑う声は底抜けに明るくて、こいつを絞め殺すのは嫌だなと思う。
でも、中沢から来たメールにはそう書いてあった。――何でも構わないから死者はあの世に戻さなければならないと。
何でもってなんだよと、心の中で毒づいた。いくら道を外れても、さすがに人を殺したことなどない。おまけに相手は知り合いで、恨んでも憎んでもいないのだ。
でもそうしなければあなたが危ないのだと、メールにはそう書いてあった。
いつまでも停めているわけにはいかず、のろのろと車を出した。明かりの消えた建物の黒い影が夜の底に静かにうずくまっている。
海底に沈めば、こんなに静かなのだろうか。陸はどう死にたいだろう。
買った缶コーヒーを手の中で転がしたまま、陸が飲んでいないのが視界の端に見えた。
「……お前、行きたいところとかあるのか」
「行きたいとこ? ――どうだろうな。なっちゃんと話してたら図書室行きたくなった」
「さすがに開いてないな……食いたいものは?」
「無いっていうか食べれない気がする。突然どうしたの」
「別に。……ああ、コンビニ寄る」
「はーい」
間延びした返事が聞こえた。今、陸がどういう表情をしているのかは見えない。
コンビニまで陸はついてこなかった。車で待ってるよと言ったのは、たぶん、明るいところに行きたくないからだろう。
買い出しを終えて後部座席に膨れたレジ袋を押し込む。ついでにゴミ袋の中を漁り、湿ったロープを引っ張り出した。何度かロープを引っ張って、劣化していないことを確かめる。
運転席に戻ると、助手席で陸が眠っているのが見えた。寝顔はひどく青ざめていて、蝋細工のようだった。それはほとんど死人で、少しだけ助かったと思ってしまった。
――これならたぶん、殺せる。
助手席とダッシュボードの間に無理やり身体をねじこむ。後部座席から絞めれば良かったと思ったが今さら後に引けない。慎重にロープを首に回すと、皮膚と擦れる音が嫌に耳についた。
深夜の駐車場には他に人はいない。コンビニの中にいる店員はこちらを見ていない。すぐに終わらせれば、こんな異常な状況からは解放されるはずだ。
ロープの両端を持つ手が震えた。正面から見ると、暗くてもはっきりと分かる。
――陸の顔の左側はひどく焼け爛れていた。
もうこの男は生きていないのだと、よく分かった。
手に力を籠める。白い首にロープが食い込んで、ぐうと呻くような声が漏れた。怯みそうになって、それでも力は緩めなかった。陸は死んだように目を開けない。
嫌だと思うのも怖いと思うのも、全部自分の都合だ。陸が可哀想だとは思っていない。ただ自分の中に傷が残るのが嫌なだけだ。人でなしだから、そんなことしか思えない。
陸はまだ目覚めない。もう死んだのか。どうだろう。
ただ無心でロープを引っ張る。思考が途切れがちになり、ふと、中学の頃を思い出した。
人の来ない図書室の中、陸と二人で当番をした記憶が蘇る。私はカウンターで居眠りする陸の傍らで返却された本を適当に読み、昼休みが終わるのを待った。
外の喧騒から切り離された図書室の中には停滞した空気が満ちていた。陸は時折起きてはくだらないことを言って、また寝て、ごくまれに本か雑誌をめくった。
――深海に行ってみたい。
何がきっかけか忘れたが、行ってみたい場所はあるかという話題になった時、陸はそう答えた。深海魚のようなものが描かれた絵本をパラパラめくっていたから、それで適当に言っただけかもしれない。
――夜にさ、街灯だけ点いてる道って海の底みたいだなって思うんだよ。
またわけの分からないことを言うと思って、でも少しだけ分かるかもしれないとも思って、曖昧に頷いた。
――だから本物も見てみたい。
でもきっと、深海に道標のような灯りは無い。
もっと真っ黒で何も無くて恐ろしい場所だろうと、絵本に描かれた美しい魚を見てそう思った。
――蘇った記憶に動揺して、わずかにロープを掴む手の力が緩む。
乱れた髪の下、青く血管の透けた目蓋が震えるのが見えた。
「……陸?」
無意識に呟いた名前に答えるように、目が明いた。
穴を穿ったように黒い目が、私をじっと見つめていた。
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