死人

「あ、先生、知ってます? あそこお化け出るんだって」

「……全然、何をおっしゃってるのか分からないんですが」

 椅子から立ち上がりかけた途端に意味不明なことを言われ、思わず座り直してしまった。


 隣のデスクには同じ二年生のクラス担任を持っている時川という教師が座っている。彼は主に古文を教えていて、同じ国語科ということで比較的話すことは多かった。


 コピーしようと用意したプリントをデスクに置いて、私は時川の方を見た。

「あそこって、まずどこですか」

「大学に近い場所にある廃墟ですよ。二十年ちょっと前はスーパーだったんだけど、先生は知らないよなあ、若いし」

「……」

 知っている、とは言えずに曖昧に首を傾げた。


「そこにお化けが出るんですか」

「なんかね、廃墟の中に時々人影が見えるとかって。若い男の幽霊って説が多いんだけど、なぜか誰かに似てる気がするらしいんですよ。何なんですかね」

 思わず顔が引き攣りそうになって、咳払いして誤魔化した。


「変な怪談ですね」

「でしょう? 生徒が肝試しとかやり始めたら面倒になるし、いい加減取り壊してほしいです。前にもこういうことあったし……」

 時川はコツコツとペンでデスクの端を叩きながらぼやいている。


「前にもって、肝試しが、ですか」

「そう。ずいぶん前だけど、うちの生徒が近所で肝試しやって苦情来たんですよ。まず、人が亡くなったような場所に面白半分に忍び込むのは良くないだろうし、困るなあ」

 彼にしては珍しく強張った声だった。何か嫌な思い出でもあるのだろうかと思ったが、詮索するほどの興味は無かった。


「そのスーパー、人が亡くなったんですか」

「いや、そういう話は聞かないけど。ああ俺、前言ったっけ、あそこの大学通ってたんだけど、その時から妙な噂自体はありましたね。誰もいないのに夜中に営業してるとか、異世界に繋がってる、みたいな」

「へえ……」

「あんま怖くないでしょう。でも潰れた後くらいから人が行方不明になるって噂もあったし、何かあるのかもしれませんね」

 もっと詳しく訊きたかったが、その時ちょうど時川が他の教師に話しかけられ、会話は中途半端に終わってしまった。



 私はデスクの上に投げ出したままのプリントを眺め、ぼんやりと三年前のことを思い出す。


 ――死んだ幼馴染を真似た、正体も分からない怪物を。


 まともに働くようになればすぐに忘れられると思った。だから復職して、もう三年だ。たった一晩、数時間の記憶は、すでに夢なのか現実なのかも分からない。

 ――若い男の幽霊。

 それなのに、これだけの言葉で思い出したくもない記憶がまざまざと蘇ってくる。


 意味も無くプリントの端を何度も揃え直し、途中で小さく痛みが走って指先を見た。薄皮が切れて血が滲んでいる。


 じわじわと滲む赤に、額から大量の血を流していた姿を思い出した。もう顔も声もぼやけてよく覚えていないのに、ろくでもないことだけ蘇ってくる。


 指先を伝う血を眺めながら、最悪だと小さく呟いた。



 ***



 夜十時、仕事を終えて帰宅する途中でふと思い立って廃墟へ向かった。


 その妙な噂を信じているのか否か、自分でもよく分からなかった。嘘であれば良いと思っていたし、反面、本当だと思っている気もした。

 分からないまま駅から歩き、記憶を辿って道を進む。街灯の明かりが等間隔に夜道を照らしていた。


 近づくにつれ、水中を進んでいるかのように足取りが鈍っていった。引き返そうか。今ならまだ間に合う。

 でも、そう思ううちにいつの間にか辿り着いていて、足を止めてその廃墟を眺めた。



 三年前と大して変わっていない。違うのは外壁の貼り紙くらいだろう。立ち入り禁止、と細い線を何重にも重ねた字で主張している。

 割れた窓ガラスは段ボールで覆われている箇所もあったが、いくつかは覆いを剥がされたような跡があった。肝試しをしている連中がいるのかもしれない。

 高校に苦情が来ないうちに生徒に釘を刺すべきだろうか。教師の真似事も少しは上手くなったと、ふと思う。


 微妙に離れたまま窓を見つめる。近づく決心はまだつかなかった。ペンライトは無いかと探し、復職してから使わなくなったのだと思い出した。

 スマートフォンのライトで窓の方を照らす。陳列棚の並ぶ屋内には埃とガラスの破片と吸殻が散らばっていた。

 三年前、私が置き去りにしてきたものだった。



 ライトを反射してきらめく破片をぼんやり眺める。

 その時ふと、右手から何かの音が微かに聞こえたような気がした。


 ――ゴム底が擦れるような足音。


 窓枠に制限された視界では物音の正体は分からない。中を覗き込めないまま、中途半端な距離を保って立ち尽くした。

 音は徐々に近づいてくる。それと共に、フラフラと揺れる丸い光が見えた。

 懐中電灯の明かりみたいだと思って、息を呑んだ。


 ガラス片を踏みしめる音が鳴る。四角く切り取られた景色の中に、人影が差す。


 蒼白な横顔が見えた。ぐらぐらと不安定に身体が揺れている。手には見覚えのある懐中電灯をぶら下げていて、それはのろのろと視界を横切っていく。


 思わずスマートフォンを取り落とした。予想外に大きな音が立って、それは首をぐらつかせてこちらを向いた。

 真っ白な光に射抜かれる。眩しくて、でも目を逸らすことはできなかった。


 真っ黒い目がぐっと細まる。涙のような黒子が一緒に歪む。視線は定まらず、私がいる辺りをぼんやり眺めて、ゆらりと首を揺らしていた。

 何か思い出そうとしているようだった。


 青白い顔に凄惨な火傷の痕は消えていて、代わりにそれは、もう他の誰にも見えなかった。



 不意に明かりが絶えた。視界が一段と暗くなる。暗がりに佇む姿はよく見えなくなった。慌てて落としたスマートフォンを拾い上げて向こうを照らす。

 それは首をめぐらせ、消えた懐中電灯を見つめ、そして私に視線を戻した。


「……ああ、なんか、ひさしぶり」


 錆びついた声だった。またぐっと目を細める。それが笑った顔なのだと、遅れて気づいた。


「遅かったね」


 その言葉に、まさかと思った。

 ――三年前に頼んだことを、ずっと、繰り返していたのだろうか。



「馬鹿みたいだ……」

 思わず呟くと、それはわずかに口角を上げた。

「なんだよそれ。あー、……あれ」

 淀んだ目が戸惑うように震える。何度か口を開けては閉じ、やがて掠れた声が囁くように言った。

「――だれだっけ、お前……」


 声が途切れる。蒼白な顔はいっそう白くなった。またぐらぐらと首を揺らして、縋るように私を見つめる。


 もしかしたら、これはもう朽ち果てる寸前なのかもしれないと思う。彷徨ううちに未練を完全に忘れて、それでようやく救われるということなのだろうか。

 なら、私はもう引き返せばいい。また置き去りにして逃げればいい。


 ――なのに、このまま放っておくべきだと分かっていても、三年間ずっと引きずった後悔は消えてくれなかった。



 無意識に一歩下がりかけ、強いてそれを押しとどめる。

「――ごめん、遅れた」

 言うと、それはぎこちなく八重歯を見せて笑った。

「あー……本当はさ……置いて行かれたかと、思ってた」

「……悪かったよ」

「別にいいよ。おれさあ……もう……なんも、わかんなくなっちゃって……なんか、たぶん駄目だな」

 機械じみた平坦な声に自嘲が微かに混じっていた。

「全然、おもいだせない……」


 何も思い出せないのなら、陸とは完全に別物だ。

 自分が落胆するかと思ったが、意外にそんなことはなかった。

 ゆっくりと息を吐いて、迷いを振り切る。勢いに任せて口を開いた。


「じゃあ、行こう」

 ぐらぐら揺れる首が止まる。

「……どこに?」

「どこでも。お前の行きたいところでいい」

 その言葉に歪んだ顔は泣き笑いのようだった。


「行きたい場所かあ……もう分かんないな」

「だったら勝手に決める」

 泣き笑いがゆっくり消えていく。逡巡するように首を傾け、そして困惑を示すように眉が下がった。


「なあ――なんで戻ってきたの」

「……同情したから?」

 自信は無かった。同情で自分の身を危険に晒すのはただ愚かだ。

 なのに今、この三年で一番ましな気分だった。


「死んだやつに同情するなんて、変わってるね……」

 人でなしだからな、と答えると、掠れた笑い声が立った。

 つられて私も少し笑った。





 街灯が道標のように夜闇に浮かんで見えた。廃墟から離れ、頭上の灯りを目で辿って、どこへ行こうかと取り留めもなく考える。

 ふらふらと後ろをついてくるそれは、傷痕は消えているのに以前よりずっと人間らしくなかった。蝋人形が人の真似をして歩いているみたいだと思う。



「あのさ……置いてっても、別に恨まないから、もういいよ……」

 背後からそんな声がした。答えようもなくて黙っていると、「お前も駄目になるかも」と嫌なことを言われた。

 後ろをちらりと振り返って、街灯の下を歩くそれに影が無いと今さら気がついた。焦点の合っていない目は毀れた人形じみていて、時々映像がブレるように動きがひずむ。



「なあ、海に行こうか」

 言うと、しばらく経ってからゆっくりと抑揚のない声が背中越しに返ってきた。

「海……なんで」

「前に行ったんだよ」

 返事は無かった。たぶん忘れているのだろう。振り返って立ち止まると、能面のような顔が私を見た。


 街灯の灯りがゆっくりと瞬く。夜道に飛び石のように浮かぶ白い明かりを踏みしめて、私はぎこちなく笑った。

「今度は底まで見に行こう」

 出鱈目なことを言ってから、それも悪くないなと思った。


 背を向けてまた歩き出すと、少し遅れて後をついてくる足音がした。


「……底まで、どう行くんだよ」

「潜ればいつか辿り着ける」

「なんだそれ、馬鹿みてえ……」


 本当に馬鹿みたいだと思う。でも三年間後悔まみれで生きてきたから、そろそろ終わりにしてもいいだろう。


 今度こそ、朽ち果てて消えてしまうまで、それまでは付き合おう。もし駄目になったら諦める。別に難しいことではない。

 そう考えると本当に大したことではないように思えた。


「あのさ……あの世って、本当にあると思う?」

 不意にそんなことを訊かれて息が詰まる。どこか怯えたような声音だった。

 さあな、と言いかけてやめる。

「あるだろ。お前みたいなのがいるなら」


 振り返らないまま夜道を進む。後ろからついてくる足音は徐々に小さくなる。


「はは……確かに。でも俺、地獄に落ちるかも……」

「大丈夫だよ」

「なんで」

「大丈夫」


 もう十分独りで彷徨った。だからきっと、大丈夫だ。

 背後で微かな笑い声が立つ。


「そうか……」


 周囲はこんなに静かなのに、聞き逃しそうなほど小さな声だった。足音はもう聞こえない。


「だったら、もう、いいかな……」


 それきり声が途絶えた。


 立ち止まって耳を澄ましても、何の音も聞こえないままだった。

 何か呼びかけようと思って、でもやめた。

 振り返らないままでいれば、まだ後ろにいると思えた。



 しばらく茫然と立ち尽くして、我に返ってまた足を踏み出す。

 革靴の底がアスファルトを噛む。飛び石を渡るように、地面に落ちる白い影を踏んで歩く。


 一歩進むたびにあのろくでもない夜の記憶が蘇って、死にかけたはずなのにそんなに悪い思い出じゃないような気がしてきて、少し可笑しかった。


 点々と灯りが浮かぶ道の先を見つめる。

 もしかしたら、海の底にも美しい深海魚がいて、道標のような明かりもたくさん灯っているのかもしれないと、馬鹿げたことを考える。


 ――いつかそんな場所に辿り着ければ良いと、願うようにそう思った。

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クローカー・クラウン 陽子 @1110

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