近づかない距離でいてくれる、君がいい(5)

 その翌日、学校から帰宅するとすぐに深沢さんからメッセージが届いた。


『葉山君。お願いがあるんだけど、お手洗いとかを除いて今日は部屋からでないで欲しいの』

『どうして?』

『……昨日の話、だけど。晩ご飯作るから、その間キッチンに来ないで欲しくて……』

『別に構わないけど』


 彼女たってのお願いであったし、僕はいただく側なのでもちろん断る理由はない、けれど。


『どうして、出たらいけないのかな。理由を聞いても?』

『料理を作ってるところを、見られたくない……人が見てると緊張するし、失敗したらいけないっていう圧を感じるのよね』


 ああ確かに、その気持ちは分からなくもない。

 授業中に指名され、冷静に考えれば分かる問題であっても、先生や皆にじっと見られると緊張してしまうのは僕も同じだ。


『それに、私のエプロン姿なんて、見ても困るだろうし』


 それはちょっと見たいかも、と書きかけ、慌てて消した。


『別に、困りはしないけど……』

『私が恥ずかしいし、変なことをしてる風に見られる気がして』

『エプロンをして料理をするのは、変なことじゃないと思うけど。むしろ普通のことだと思うけど』

『そ、そうだけど。……とにかく、出来たら連絡するから……』


 何となく惜しい気はした。

 けど料理をしてる背中をじっと見つめられるのは、彼女が萎縮してしまうかもしれないし、嫌がられるのを無理に押し通すのも気が引ける。

 今日はお礼を受ける側だ。

 大人しく待っていよう、と私服に着替え、いつものように宿題を片付けていると、やがてリビングから足音が聞こえてきた。


 何かを準備する物音と、人の気配。

 しばらくして、小さく、じゅわっとフライパンに油を敷いて野菜を炒める美味しそうな音がする。


 ――手元のボールペンを置き、休憩ついでに思う。

 料理中の彼女の姿が見れないのは、やっぱり惜しいことをしたかもしれない、と。





 数刻が過ぎて、彼女から連絡が届いた。


『褒めるほど大した出来じゃないけど……蓋して台所に置いておきました』

『ありがとう。深沢さんは?』

『部屋で食べる……』

『あ、うん』


 どうやら一緒ではないらしいと思ったが、考えてみれば、僕らはいまだ食卓を共にしたことがない。

 いつも通りと言えばいつも通りなのに、なぜか物足りなさを覚えつつ、リビングに出る。


 ――おお、と。つい声が零れてしまった。


 テーブルに並ぶのは、保温カップを被せられた平皿と味噌汁茶碗。

 期待を込めつつ蓋をそっと持ち上げると、食欲をそそる肉と油の香りがふわりと鼻をつき、思わず唾を飲む。

 続けて味噌汁の蓋も開くと、今しがたよそったばかりなのだろう。しょっぱそうな味噌の香りに、なんとも幸せな気持ちになる。


 ご飯も炊いてくれたらしく、深沢家に来てから始めて使う炊飯器を開くと、これまた美味しそうな炊きたてご飯の香りがたっぷりと含まれた白い煙が立ちのぼっていく。

 しゃもじで米をよそう感覚を久しく味わいつつ、テーブルに並べると、なんとまあ素敵なご馳走の出来上がり。


 ……すごい。本当に、普通の晩ご飯だ。

 弁当以外で、きちんと食器が並んでるのを見たのは本当に久しぶりの気がする。


 感動のあまり、ついスマホでパチッ、と画像保存。


『頂きます』


 両手を合わせ、きちんと感謝の気持ちを込めつつ、画像を添付しメッセージを送ると、なぜか『撮らないで』と怒られた。


『駄目だった? せっかくだし画像に残しておこうと思ったんだけど……』

『ぅ。でも実際に食べて美味しくなかったら、葉山君も反応に困るでしょ? それに、恥ずかしいし』


 そんなことないし、薬池さんがあれだけ美味しいと言ってたから大丈夫だと思う。

 そもそも彼女の性格から考えて、味見とかはしっかりするはずだ。


 けど、『とにかくお願い』と頼み込まれれば断れない。

 仕方なくスマホから画像を消した後、頂きます……と手を合わせ、箸を取る。


 深沢さんの野菜炒めはとてもシンプルに、豚肉ともやし、キャベツとにんじんをさっと炒めた一品だ。

 口に含むとすぐに、ジューシーな肉汁がとろりと口の中にあふれてきた。味のしみこんだもやしやキャベツのしゃきしゃき感が程よい歯ごたえで、あ、美味しい! とついそのままの感想が零れてしまう。

 野菜を頬張る、という感覚がたまらない。

 続けてご飯をかき込むと、炊きたてのお米に野菜炒めの肉汁が絡み、あまりの相性の良さに思わず頬が緩んでしまう。


 ああこれは美味しい! と本気で思ったので、つい。


『すごく美味しいです。野菜炒めのお肉と汁にご飯が絡むのが良くて、こう、ご飯が何杯でもいけそうな感じがすごいある』

『なんで食事中にスマホで実況してるの!?』

『や、感動をきちんと伝えたいなあって』


 行儀が悪いのは認めるけど、他に伝える手段が他になくて……。


『味噌汁も頂きます』

『お願いだから黙って食べて……』

『ごめん、今回ばかりは感想を押しつけたくて』


 漫画の感想なら意識の違いが出るだろうけど、ご飯を『美味しいです!』と言うことには、さすがに罪はないと思う。


 続けてお茶碗に口をつける。

 厚揚げと豆腐、ネギを少々加えた白味噌は、しっかりと腰を据えた味と具材の大きさのお陰で、食べている、という感覚がすごく合った。

 味噌汁という一品を口にしてるんだな、というある種の感動すら覚え、腹の底から温かく満たされるような幸せを感じる。


『や、本当に美味しい』

『ぅ……本当?』

『本当、本当。文面で伝わらないなら、画面共有して映そうか?』

『お願いだから絶対止めて……!』


 文章だけでは感想を伝えにくいが、演技は一切していない。

 だって本当に美味しいのだ。


 僕は元々、食事にこだわりがないし普段はコンビニ弁当で十分だと思っている。

 そもそも前の家で両親と暮らしてた時も、ご飯はスーパーの惣菜等がメインであり、手作り料理にあまり心辺りがなかったので、それで十分だと思っていたのだ。

 けど、こんなに美味しいご飯が出てくるなら幸せな気持ちにもなるだろうし、家でご飯を毎日食べたいっていう人の気持ちも分かる気がする。


『なんか、毎日家でご飯を食べたいっていう気持ちが分かった気がする』


 と、うっかり素直な感想を送ると、少しの間があり。


 深沢さんから遅れて――

 不意打ちが飛んできた。


『折半』

『?』

『食費、折半でいいなら、……作る、けど』


 ――深沢さんがどういった意図で、そのメッセージを告げたのかは、分からない。


 が、思わず箸を止めてしまった僕は、一瞬、頭が真っ白になり。

 相手も自分がなにを口にしたのか理解したらしく、あわてて、続きのメッセージが飛んできた。


『ごめん。ヘンなこと言いました。いまのは忘れて』

『あ、うん。……それは申し訳ないから、遠慮しておくね』

『申し訳なくは、ないけど』

『けど、こういうのを一度頼むと、ずるずると深沢さんに頼り切りになっちゃうから。それに毎日の献立、考えるの大変だろうし』


 そう返して、なぜか少し胸が痛んだ。


 僕と深沢さんは、あくまで一時的な同居関係だ。

 自分のことは自分でやる。

 協力はするけど、相手に過度な負担をかけてはいけない。

 代わりに相手の時間を邪魔せず、お互い好きに過ごそう――それが僕らの取り決めたルール。


 今日は、例外中の例外。

 友達相手に、ちょっとした特別なお礼をしたい時にするものであって、間違っても日々の負担になってはいけない。


 ……と、理解しているのに、どうしてだろう。

 自分はいま、とても惜しいものを無くしたような気がしてならないのは、何故だろう?


 気のせいかな、と、小さく生まれた痛みを無視し、野菜炒めを頂く。

 皿はあっという間に空になり、もう少し食べたいなという名残惜しさを覚えつつも、ご馳走様でしたと手を合わせた。


『美味しかったです。ありがとう、深沢さん』

『うん。……なにか、要望とか、ないかしら』

『や、ほんとうに美味しかったよ。ちょっとだけお願いするなら、もう少し食べたかった、かも』


 本心からもう少し頂きたかったと、珍しいワガママを伝えつつ席を立つ。

 洗い物のために各種お皿を重ね、流し台に運びながら、――ああ、これはあまりに贅沢過ぎる、と頭を振った。


 僕らは他人。

 たまたま社会のルールに定められて同居しただけの、夫婦でも恋人でも、友達ですらない関係。

 壁一枚を挟んでお互い知らぬふりをし、それを心地良いと思ってきた間柄だ。


 その関係を、僕の方から壊すわけにはいかない。

 身勝手なワガママを持ち込めば、せっかく築いた関係が崩れてしまう。

 それは僕にとっても、もちろん彼女にとっても忌避すべきもの。


 洗剤をまぶし、洗い物を片付けている間に、この違和感も自然と消えるだろう……なんて考えながらスポンジを絞り、丁寧に汚れを落としていく。

 食器の油と一緒に、心に浮かんだ邪な考えも綺麗に、綺麗に。


 そんなことを考えつつ、ちろり、と舌を出して唇に残った野菜炒めの残り香を確かめながら。

 蛇口をひねり、いつもより強めに水を流しながら、僕は黙々と食器を洗い続けた。


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