僕らは結婚し、そして離婚した(6)

 朝起きて、真っ白な天井に頭がぐちゃっと混乱した。

 見覚えのない布団を被っているのに驚き、そういえば、今日から深沢さんの家に泊まっているのだと思い出す。


 昨夜は自室で弁当を頂き、荷ほどきを行った。

 それからお風呂に入ろうとして、自分用のシャンプーを忘れたと慌ててスーパーから買ってきて、と色々やって末に疲れて寝落ちしてしまった。


 正直、もう少し落ち着きたい気分ではあったが今日も学校だ。

 休みの日に引っ越せばよかった、と今さら後悔しつつも、準備のため部屋を出ようとして、足を止める。

 ……いけない。

 自分の家ではないのだ、寝間着姿のままリビングに出て、深沢さんに情けないところを見せる訳にはいかない。


 制服に袖を通し、ネクタイを結ぶ。

 カッターシャツと制服のズボンに着替えた後、そっとリビングに出た。


 昨日買っておいた食パンをトースターに入れ、タイマーをひねる前に、ええと。

 ミニカップで吸水口に水を入れる……だったか。

 深沢家の高級トースターは焼くときにスチームを使うらしく、中がふんわり、表面はカリッと焼き上げてくれる、とマニュアルに書いてあった。


 朝食の準備をしつつ、深沢さんの部屋を伺う。

 彼女は少なくとも朝八時まで起きることはないので、自由に使ってくださいとの話だ。


 ……やはり、学校に行ってないのだろうか。

 それとも通信制の高校に通っているとか、特殊な事情があるのだろうか。


 耳慣れない機械音とともに、トーストが焼けた。

 小皿に乗せてバターを塗り、牛乳を添えていつもの朝食。

 一人暮らしなら朝食を食べつつスマホで動画を見るけど、はしたないので、今日は止めておこう。


 という訳でさっそく、高級トースターによる食パンを初体験――……と、思ったそのとき。


 カタン、と物音がして口を止めた。

 振り返れば、僕の部屋ではないドアが開き……


 ふらり、と幽霊が現れた。


「……え?」

「――……ぅ~……」


 もちろん幽霊は存在しない。

 出てきたのは、小さなあくびをかみ殺す深沢さんだった。

 びっくりする僕の前でふらふらと揺れながら、水色のパジャマを引きずり、ゾンビのように歩いていく。


 寝癖のせいでノの字にくるんと逆立った黒髪に、とろんとした眠たげな瞳。

 アニメ調の白猫がプリントされた寝間着を引きずりながら、ぺたぺたと素足で歩いて行く様子を見るに、たぶん、寝ぼけている。

 それでもあどけなさと可愛らしさの残る横顔に、僕は思わず口を止め、――昨日は猫背のせいで気づかなかったけど彼女は意外にもスタイルがよく、出るところはきちんと出ている、というより結構大きいことに気づかされて、ドキリとする。


 彼女は僕に気づかず冷蔵庫を開き、続けて食器棚カップを掴んでちょろちょろとお茶を注いだ。

 両手で可愛く掴み、ちいさく口をつけて冷たさにふるりと震える。


 もしかしたら、見てはいけないのかもしれない……。

 が、今さらそんなことを言われても、と黙って見つめたままでいると。


 深沢さんがパジャマの袖で、瞼をこすり。

 ぼやあっとした瞳で、振り向いた。


 ……視線が合う。

 寝ぼけ眼の焦点がゆっくりと定まり、ぱちぱち、と艶のある瞬きをする。


 あ、これ今やっと頭が起きたかな?

 と気づいたときには、手遅れ。

 深沢さんが僕を認識し、カップを慌ててシンクに置いたのち背を向け「ご、ごめんなさい」と猛ダッシュで逃げようとして――


 ぐっ、と足を止める深沢さん。

 ふるふる震えながら、それでも流し台に戻り、台所奥のスポンジを手に取り慌ててカップを洗い始めた。


 僕は、昨日決めたルールを思い出す。

 ――自分が出した洗い物は、必ず自分で洗いましょう。


 きちんと守ってくれてるんだなと微笑ましく感じる一方、洗い物くらいなら僕に任せてくれても、と思った。

 寝間着姿でうっかり出てきたの、恥ずかしいだろうに……


 なんて考えてる間に洗い物が終わり、深沢さんが駆けるように部屋へと戻る。


 朝から、微笑ましいものを見た気分だった。

 いやまあ、深沢さんの家に居候し始めたのは僕なので、悪いのは僕かもしれないけれど。

 心の中で笑いつつ謝罪していると、メッセージが届いた。


『ご、ごめんなさい、ち、ちがくて、私その』

『すみません。たぶん僕のことを忘れてて、寝ぼけてたんですよね』

『そうです。本当にごめんなさい変なところを見せてしまって。……いつもの癖で、人がいるなんて思わなくて』


 スマホの向こうで、あわあわと返信する深沢さんが目に見えるようだった。

 あと彼女は「変なところ」と書いたけど、少しくらい抜けている方が微笑ましくて、むしろ気分はいい。


 ――……それに。

 まじまじと見た、わけではないけど。

 寝ぼけ眼をこすり、少しだけ素顔を見せてくれたその横顔。


 昨日は緊張して堅かったけど、普段はあんな顔もするんだな、……と、朝から余計なことを考え、ふるりと首を振った。

 いけない。

 同年代の男女による同居だからこそ、そういう意識は持たないようにしないと。

 僕はせっかく美味しく焼けたトーストを早めに咀嚼し、席を立つ。


 洗い物を片付け、歯磨きをして準備完了。

 玄関を出る前にもう一度スマホをチェックすると、彼女から再度謝罪が届いていた。


『本当に、すみませんでせした。初日から恥ずかしいところを……』

『いえ。何事もなくて良かったです。じゃあ、僕は学校に行ってきますので』


 軽く挨拶をすると、彼女からこれまた、ごく普通の返事が戻ってきた。


『分かりました。行ってらっしゃい、葉山さん』


 簡単なメッセージに、薄く笑い。

 そういえば、誰かに行ってらっしゃいと言われたのは久しぶりだなと気がついて、不思議とすこし、心地良い気分になった。


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