幕間
ふわりと私の意識が浮上したのは、食器の傾く音とちいさな話し声のせいだった。
いつの間にか、ベッドで寝ていたことに気づく。
ぼんやりと思い出したのは、お風呂を先にもらって春と交代したこと。彼女を待っている間に眠気に誘われそのまま倒れ込んでしまったことだった。
昨晩いきなり春が来ると聞いて、悩みすぎて寝不足だったせいかもしれない。
しかも昼から三人で騒がしくて疲れてたのもあり、気を抜いたところで寝てしまったみたい。
……春?
床に敷いた布団は空で、しかも掛け布団がひっくり返されていた。
お手洗いだろうか? と、すこし腰を上げたところでくぐもった声が聞こえた。
ドアから覗けばうっすらと、寝間着姿の春が誰かと喋っているのが見える。
相手は葉山君だろう。
小声なので聞こえないけど、春の背中が楽しそうに揺れている。
じわりと、なぜかすこしだけ胸が滲んだ。
理由は自分でもよくわからないけど、いまは顔を出さないほうがいいだろう。
葉山君も、私より春のほうが話しやすさはあるだろうし。
……にしても。
春は自分を人見知りだというけれど、私から見れば彼女は全くもって人見知りなんかじゃない。誰に対しても物怖じしないし、愛嬌あるし、何より行動力の化身みたいな子を誰が人見知りだと言うだろうか。ちょっとずるい。
もちろん私は彼女の悩みを聞いたこともあるし、後ろ暗いところも知ってるけど、会話の弾ませ方や他人を乗せるうまさを目の当たりにするたび、彼女と私は全然違うなあと思わされる。
二人の邪魔になりたくなかったので、ベッドに戻る。
はあ、と布団のなかで丸くなりながら溜息をついて、そのせいで気分が勝手に落ち込んでしまった。
くるくると重たい髪を指で巻きながら、どうして私はあんな風になれないんだろうという失望と、私なんかがあんな風になれるはずがないという後ろ暗い気持ちがわいてくる。
というより、……性格的に明るくはならなくていいから、もっと、普通になりたい。
普通。
それは普通の人にとって意識すらしないことで、けど、私にとってはとても難解な言葉だ。
朝起きて、学校に行く。
みんなと挨拶をし、たのしく会話をして、授業や試験に悩んだ末に乗り越える。
体育祭に出たり、文化祭にいったり修学旅行にいったりという特別なイベントを経て、他人と仲良くなる”普通”。
春と葉山君が話しているような“普通”は、私にとってあまりに遠い。
……春や葉山君と、一日楽しく遊んだ反動かな。
騒いで楽しかったぶん、気持ちの揺り戻しが来たのかもなあ、と、ベッドでごろごろ転がっていると――
ブーッ、と震えたスマホに、全神経が跳ねた。
遅れて、どくん、どくんと心拍数がはね上がり、体中にぶわっと寒気が走り意識がびりびりと尖っていく。
喉が堅くなるのを感じながら、スマホを掴んだ。
遅れてはいけない、と、知りながらも数度のコールを挟んだ後、ボリュームを下げて耳に当てる。
『ひまり? お母さんだけど』
「う、うん。どうしたの……?」
『別に。ただ、問題は起きてないわよね、って確認したくて』
母の声は、普段よりちょっと高く弾んでいた。
ご機嫌ではあるけど、お酒が入ってるのだろう。
良くも悪くも、ひとつ地雷を踏めば一気に乱高下する、と、私は亀のように蹲りながら唇を結ぶ。
『聞いたわよ? あなたの相手の葉山君、とてもいい人みたいね。学校に電話して担任の先生にも聞いてみたけど、成績もいいし態度も真面目。この前の中間でも、上位一桁に入ってたらしいわ。進学校じゃないからべつに大したコトじゃないけどね』
「そうなんだ。ごめんなさい、知らなくて……」
『ひまり。同居してる相手のことでしょう? それくらい聞いておきなさい』
どうしてあなたはそう人に対して関心がないの。人の心がないの?
と攻められ、ごめんと謝る。
でももちろん知っていた。
彼は先日の約束通り高得点を取り、それどころか、上から五番目につけたらしい。
風邪の日の約束を忘れるほど、私達は無作法な関係ではない。
けど素直に事実を伝えると、母は私にマウントが取れず不機嫌になるので、黙って怒られておく。
『”結婚法”レポートも順調らしいわ。あなた、葉山君のために毎日ご飯を作ってあげてるんですって? 助かってるって聞いたわ』
「料理は、お母さんに教えて貰ったから……」
『そうね。それくらいは出来て普通だもの』
葉山君との打ち合わせが生きた。
”結婚法”は補助金や優遇制度を貰える代わりに、同居生活についてのレポート提出が義務づけられる。
葉山君は私と予め共謀し、SNSやweb上にある恋人エピソードを偽造し提出していた。
幸いなことに私が引きこもっているため、学校で口裏を合わせる必要はなく、交友関係も狭い。
私は母に、葉山君は先生に嘘をつけば辻褄があう。
『良かったわね、葉山君があなたに合わせてくれる相手で』
「うん。……すごく感謝してる。話し方も丁寧で、私も話しやすい」
『ええ。まだ学生だけど、礼儀正しくて真面目。そういう子が普通の友達っていうのよ。前にあなたが会ってた、あの気持ち悪い子と違ってね』
「うん」
『……もう会ってはないのよね?』
「お母さんの前で連絡先、全部消したじゃない……」
『でも今はネットで幾らでも繋がれるでしょう?』
「お母さんは、私を信用できない?」
『そうね。ごめんなさい、家族を疑うなんてお母さん、悪いことしたわね』
私はそっとドアの鍵をかけた。
彼女がいま部屋に戻ってくると、話がややこしくなる。
スマホを手に布団の中へ丸くなり、声が響かないようにする。
耳元で、母の小さな溜息がした。
何となくいやな予感がして心が締め付けられ、意識を集中すると、予想通り。
『ねえ、ひまり。葉山君に、あなたが学校に復学できるようサポートを頼んでみたらどう?』
「え」
『葉山君だって、あなたが学校に行ってないことを心配してるでしょう? それに彼だって、相手の子が学校に来てないなんて、学校で知られたら恥ずかしいでしょう』
「そ……ういう話は、してなくて」
『優しい子なのね。彼は。あなたに合わせてくれてるんでしょう。でもね』
来たな、と、私は唇を噛む。
亀のように丸く、ひたすら防御姿勢を取る。
『ひまり。他人の優しさにずっと甘えてたら、ダメよ。自分の力で、きちんと生きてく力を身につけないと。お母さんだって、いつまでもあなたの面倒を見られるわけじゃないのよ?』
生活費だって、タダじゃない。
”結婚法”の補助もいつまでも持つわけじゃないし、葉山君がずっと居るわけでもない。
母は懇々と、とても正しい事実を連ねていく。
『お母さんは別にね、あなたに凄い人になれ、とは言ってないの。いまの葉山君の高校でいいからきちんと卒業して、大学出て結婚して、自分で生活できるようになりなさい。そのために学校に通う。普通のことでしょう?』
「はい……」
『はい、だけじゃダメよ。自分の何がダメなのか考えて、言葉にして、きちんとそれを実行しなさい』
「……ごめんなさい」
『ぐずぐず言い訳ばかりしてると、お父さんみたいになるわよ。分かってるでしょう?』
はい、と私はただ人形のように繰り返す。
けど母は別に、間違ったことを口にしている訳ではない。
そもそも、いろんなことに甘えているのは私の方だ。両親の都合もあったけれど、こんな私に一人暮らしの場を用意してくれて、生活費も必要以上に貰いながら毎日ぬくぬくと自分の部屋で過ごしている。
それがワガママでなくて何だという、っていうのは私自身、一番よく理解してる。
分かっては、いる。
自分が普通でなくて、頭では、私が悪いことくらい分かっている……。
『もし分からないことがあるなら、葉山君に聞きなさい。あの子ならきっと教えてくれるわ』
「うん……」
『そして教えて貰ったら、葉山君にお礼を言いさいよ? あなたの態度を見てると、どうせ葉山君にお世話になってばかりでしょう。そういうの、恥ずかしいから。後になって葉山君の親御さんに、うちの娘は、なんて言われたら嫌でしょう?』
「……ごめんなさい」
『ごめんなさい、じゃなくて、分かりました、でしょう。じゃあ学校の件の連絡と、葉山君へのお礼をきちんとね。――愛してるわ、ひまり』
そこで通話が切れた。
今日一日の楽しいことが、全て泡のように消えてしまった気分だった。
ずきんずきんと、心が蝕まれるように痛い。
じっとりと嫌な汗が絡み、布団から顔を出してもなお呼吸は重くて息苦しい。
……私だって、分かってはいる。
私が、葉山君にとってお荷物にしかなっていないことくらい。
それは私と彼が分担している負担の度合いを見ても、明らかだ。
”結婚法”のレポート。学校に出すぶんだから、と葉山君は私に確認しながらも大半のことを書いて提出してくれている。
春の来訪という無茶振りにも、笑顔で答えてくれたし。
それに、風邪の看病……
そもそも、私が引きこもっていることについて、何も言わないこと。
彼が別居の自由を認めてくれていること。
私はあまりにも一方的に貰いすぎていた。
それについて、お礼をしなくてはいけない、と……ずっと考えていたのに、ずるずると今に至る。
お礼というのは、負債だ。
貰ったものはお返ししないと、借金のようにどんどん貯まって背負えなくなる。
私は、知らない間にずいぶん、彼の背中に荷物を預けている。
……そのうえ、母のいう学校の件。
考えれば考えるほど、頭の中が迷子になりそうだった。
どうしよう、どうしよう。
母の言葉が繰り返されるたび、葉山君に対して自分はとても恥ずかしく申し訳ないことをしてるのだと知り、けど、今さらお礼を口にしたところで、彼は笑って「気にしなくていいよ」と言うだけだろう。葉山君はそういう人だ。
でも、それじゃ駄目。
きちんと――行動で”お礼”をしないと。
それが”普通”なんだと、私も頭では分かっていて……。
けど。
私なんかがお礼をするって、何をしたら良いんだろう?
ぎゅっと自分の身体を抱き、すこし考えて……
ううん。違う。
本当は考えるまでもなく、馬鹿でも思いつくような方法を、私はひとつだけ知っている。
「…………」
沢山の普通を知ってる葉山君と、何も持っていない私。
その差を埋めるには、彼にないものを私はあげないといけなくて。
そして私は女であり、彼は男だった。
布団のなか、両腕でそっと身体を抱きながら自分を見下ろす。
猫背で陰気。重たく揺れる黒髪に、不機嫌そうな不細工面に可愛さの欠片もないことは知っている、……けど。
自分でいうのもあれだけど、私はひとつ、他の女性よりすこしだけ自慢できる部分があるのを知っている。
春から見ても魅力的だという大きさは、葉山君もまったく興味が無いわけではない、と思う……。だって今日、私が下着姿で寝転がっているという話に、彼は黙ってしまったから。
いつの間にか、自分の胸がとてもドキドキしていることに気がついた。
どくん、どくんと緊張のあまりはち切れそうなほどうるさくて、今にも心臓がはち切れそうだ。
私はいま、変なことを考えている。
そのお礼は”普通”ではないかもしれない。
……けど、私は普通の人よりすごく頑張らないと”普通”に追いつけない。
母の期待に。
優しい葉山君にきちんとお礼をしないと、釣り合いが取れないし――
同時に、私の浅ましい思考は、密かにこう考える。
私が”お礼”をしたら……葉山君は、私に対する”返礼”で、学校に行かせようとするのを思いとどまってくれるかもしれない、と。
なんて、汚い。
頭の中いっぱいに広がる不安を吐き出そうと、息をつく。
春が戻ってくる前に、気持ちを落ち着けておこう。
でないと、聡いあの子は私の異変に気づいてしまう。そうすると、私は嘘をつき通せる自信がない。
そう考えて何度も深呼吸をするけど、私の鼓動は収まることなく。
結局、春が戻ってきても私は寝ているふりを決め込んで誤魔化した。
そのうち自然と寝落ちし、結局朝になっても私の気分は上がらず、せっかく遊びに来てくれた春を布団の中から見送ることになりつつ溜息をつく。
どうして、私はこんなにも不器用で、いろんなことが上手くいかないんだろう?
自分のことなのに上手く動かない心と身体が恨めしくて、私はぎゅっと布団の端を握り、もぞもぞと潜り込んだ。
普通の人に、なりたい。
それだけを考えつつ、けど昨晩浮かんだアイデアを手放すことなく、私はじっと唇を噛みしめる。
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