僕らは結婚し、そして離婚した(2)
彼女の部屋にあがると、マンションの外観から予想できた通り室内は広々としていた。
キッチンと合わせて12畳以上はありそうなリビングにて、促されるままソファに腰掛けると、テーブルに置かれた緑茶のペットボトルがうっすらと汗をかいていた。
「ええと、改めまして。葉山透といいます」
「あ、っ……深沢ひまり、です」
「よろしくお願いします。……じゃあ、その」
会釈を交わしたのち、僕はすぐに【同居マニュアル】を開く。
初対面のときは挨拶が先だと思うけど、彼女がこれを出してきたということは、真っ先に読んで欲しいのだろう。
深沢家には何か、重要な決まり事があるのだろうか?
だとしたら堅苦しくて嫌だなと密かに思いながら、ページを開く。
【深沢家 間取り説明】
よくある不動産屋の見取り図、それがそのまま出てきた。
深沢家は2LDKで、玄関から続くリビングとダイニング、トイレやお風呂を除いた個室が二つ。
そのうち一つに【葉山さんの部屋】と矢印がある。
「えっと。荷物、業者さんにお願いして、そっちに運びました。……大丈夫、でしたか?」
「はい。ありがとうございます」
柔らかい声だなと思いつつ、次のページを開くと。
【洗濯機の使い方】
本当に取り扱い説明書だな思いつつ、次へ。
【お風呂の使い方】
【トースターの使い方/レンジの使い方】
他、エアコンやら何やら一通り、おそらく深沢さんのお手製と思われるイラスト付きの説明を読み終える。
それで中身は全部だった。
……あー。ええと。
「ありがとうございます。使い方、とてもよくわかりました」
「は、はい。そういう感じ、です……」
僕がお礼をすると、深沢さんはそれ以上に怯えがちに会釈してきた。
再び、沈黙。
「…………」
「…………」
もちろん僕は、家電の使い方よりまず先に話すことがあるのでは? と思った。
冷蔵庫にしろ洗濯機にしろお風呂にしろ、同居する以上お互いもっと気にすべきことは沢山ある。
……けど。
僕としては……こういう機械的な文章のほうが、読んでて楽ではあった。
説明書なら数式と同じように、ルールに従ってただ理解するだけで済むから。
一通り目を通し、説明書を閉じると深沢さんが、もう一度礼をして。
「……ごめんなさい。こういう説明が先じゃないって、わかってるんだけど……その」
「はい」
「えと。何から話したらいいか、私、わからな、くて」
彼女がきゅっと薄い唇を噛み、目を伏せたのを見て、僕は遅れてようやく気づく。
……彼女もまた僕以上に緊張しているのではないか? と。
考えてみれば、当然の話だった。
僕が彼女の家に住むということは、彼女から見れば名前も知らない男が自分のテリトリーに侵入してくる行為に等しい。
僕らは初めて顔を合わせる、初対面の男女だ。
国のいい加減な政策と学校の都合により、いきなり引き合わされた関係。
いくら学校側で身分が証明されてるとはいえ、同い年の男子がいきなり生活を一緒にしましょうと言われ、しかも逃げる場所もない自宅に押しかけられてきたら、怖いに決まっている。
そんな彼女が僕に戸惑いを覚えるのは、考えてみれば当然のことだった。
……けど、それでも深沢さんなりに考え、自分に出来ることをしようと考えた。
マニュアルの作成は、的外れかもしれないけれど、生活をするうえで知っておいて損はない。
そもそもエアコンや洗濯機の使い方は、ひとつ間違えば気まずくなる人間関係と違って、スイッチを押すという100%の正解が存在する。
そこまで考えて、僕はゆっくりと深呼吸をした。
……初対面の人。
確かに怖くはあるけど、でも、自分のことばかり考えてはいけない。
僕は軽く、両手でぱちんと自分の頬を二度叩く。
よし。
「葉山さん?」
「すみません。ちょっと、僕も緊張していました。説明ありがとうございます。とても分かりやすかったです」
「……いえ……」
彼女の返事はぶっきらぼうだったけど、でも、僅かに薄い眉を落としてホッとしたのが見える。
その反応が、互いの緊張をすこしだけ和らげた。
そして彼女が先手でマニュアルを準備してくれたなら、つぎは僕が応える番だろう。
悩んでいても、仕方ない。
「僕のほうは、すみません。説明書的なものはないんですが、代わりに自己紹介をさせてください。僕は、葉山秀といいます。東水菜高校普通科。今年の春に、二年になりました。十七です。……趣味はまあ、本や漫画、ゲームとか。インドア派ですけど、友達と出かけることもまあ、時々です」
インドア派という印象がどう取られるか、不安ではあったが素直に話す。
同居してれば、そのうちバレる。
それに、彼女が活動的な方とは感じないし、……ちょっと、僕に似ているのは? という気配も感じる。
「それで、ええと。深沢さん……で、いいですか」
「は、はい。深沢ひまり、です」
「深沢さんは、どちらの学校ですか?」
そしてまず共通の話題といえば、学校だろう。
この地域で東水菜の生徒でないなら、進学校として名高い歯切高校だろうか?
が、深沢さんは見る間に顔を伏せ、視線と一緒にそっぽを向いてしまった。
「………………」
「あ、すみません。歯切高校かなと勝手に考えてしまいましたが、違いましたか」
「……いえ。あの、違……うというか、そうじゃない、っていうか」
「とすると少し遠いですけど、町部高……? すみませんが、深沢さんって何年生でしょうか」
もしかして上級生だろうか?
けれど深沢さんはじっとりと冷や汗を流し、俯いてしまう。
ようやく、この話題が彼女にとっての地雷だと気がついた。
人には誰だって、言いたくない話が一つや二つはある。
理由は分からないが、相手が喋りたくない事情を聞こうとするのはマナー違反だろう。
とはいえ学校の話題が出来ないとなると、次は?
いや、その前に大切なことを聞かないと。
「深沢さん。学校から連絡が来てると思うんですが、形としては僕がこちらの家にお邪魔することになるので、深沢さんのご両親とお話したいんですが……まだどっちも仕事中ですか?」
学校が終わってそのまま来たので、時刻はまだ夕方にもなっていない。
先に深沢さんと挨拶だけ済ませつつ、ご両親が帰宅されてから、改めて話をする方針だろうか?
それくらい先に確認しておけばよかったなと思っていると、深沢さんはもっと困ったように瞼を伏せ、ぎゅっと、テーブルに載せた手を握りしめた。
「あ、っ、そのっ……」
「はい」
「…………い、な……ぃ……」
「へ?」
「私、いま、お母さんと、そのぉ……」
――その小さな声をうち破ったのは、テーブルに置かれたスマホのコール音だった。
深沢さんがぴくっと背筋を立て、慌ただしくスマホを掴む。
その拍子にたぶん、スピーカー通話をオンにしてしまったのだろう。
聞こえてきたのは、
『ちょっと、ひまり? あなた男と一対一で暮らすってどういうこと? お母さん聞いてないんだけど!』
はっきりと耳に響く、怒声だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます