近づかない距離でいてくれる、君がいい(3)
背を向けた僕に、深沢さんがぽつぽつと喋り始めたのは、それから十分ほど過ぎた頃だった。
「あのね。本当に色々、お礼をしなきゃなって思っただけなんだけど……」
混乱しつつも、たどたどしく紡がれた言葉をまとめていくと。
要は、彼女は僕にいつもお世話になっているお礼をしたかった、とのことだった。
風邪のとき、色々と買ってきてくれたこと。
”結婚法”に関するレポートをまとめたり、家で気を使ってくれたこと。
そもそも同居している身でありながら、自分が引きこもって自由に過ごさせて貰っていること。
「普通の人が相手だったら、こんなのおかしいって言われると思ったの。だって、同じ家に住んでるのに晩ご飯でも顔を合わせない、会っても会釈だけって、嫌だなって感じるだろうし……それに、よくあるでしょ? 漫画で、引きこもりがちな子が、格好いい男の子に励まされて、外に出られるようになる話。あれが世間の王道なんだから、わ、私にも外に行こうとか、言ってくるのが普通だと思うし」
なのに、僕はそういう押しつけを一切しない。
むしろ望んで放置して欲しいといい、だからといって無視してるわけではなく、困ったときにはさらっと手を貸してくれる。
そういった諸々に対する感謝の気持ちがあって、けど自分はそれに見合うお返しを出来ていないから、対価となるお礼をしたい、らしい。
「でもほら、私って返せるものとかひとつもないし……だから、その……」
「部屋にきた、と」
「……はい……」
しゅん、と落ち込んだ呟きを零す深沢さん。
彼女がいま、どんな顔をしているか、僕は背を向けてるのでわからないが――
正直にいうと、深沢さんが自発的に部屋にまで来て”お礼”をするのは、らしくないなと思った。
あまりにも行動が極端すぎる。
普段の彼女なら、まずは遠回しに、僕にお伺いを立ててくるはずだ。
僕の好みをさりげなく聞き出し、あれこれ考えた末に「ど、どう?」と、お茶漬けをそっと置いてくれるくらい遠慮がちにこそっと手を出してくるのが、深沢さんらしい気がする。
だから今回の件は、誰かにお礼を強要されたのではと思うけど……。
その点について彼女は口にせず、なら、僕に追求する権利はないと思い黙っておく。
……まあ、それ以前に、そもそも。
僕は彼女にお礼をもらう必要なんて、ないけれど。
偶然だけど、昨夜ちょうど薬池さんと同じ話をしたんだよなぁ。
「深沢さん。ひとつ……いや、もっとかな? いろいろと、勘違いしてることがあってさ。僕はべつに、深沢さんにお礼をもらう必要はないと思う」
「けど、風邪とかいろいろ」
「逆に聞くけどさ、もし僕が風邪をひいて、深沢さんが僕のお世話したとして。僕がお礼に三万円あげますって言ったら、どう思う?」
「う、受け取らない。そんなつもりでしたんじゃないし……」
「僕が深沢さんにしたのも、同じ。僕が自発的にしたのであって、お金をもらうものじゃない」
同居人が風邪を引いたら、それ位の手伝いは僕だってする。
もちろん、お礼の言葉が全くなかったりすると嫌だけど……彼女は当然そんな態度は取らず、むしろお礼にと、味噌汁まで用意してくれるくらい親身な人だ。
「それにさ、風邪の件を抜きにしても、僕も深沢さんにお世話になってるし」
「……そう? 何が?」
「同居の件。僕の提案を、そのまま受けてくれたこと、かな」
僕は背を向けているため、深沢さんが今どんな顔をしてるか窺えない。
けど、今はそれでいい。
顔を見なくても距離は離れていても、普段通りの彼女なら、こちらの意図はきちんと理解してくれるから。
「口うるさく僕に関わってこないこと。食事も生活も別っていう約束を、きちんと心地良く守ってくれること」
「でも私、何もしてないし」
「何もしてない、じゃない。僕は、何もしてこないこと自体が嬉しいんだ。……深沢さんも思ったことないかな。どうして他の人は、あんなにいちいち自分に絡んでくるんだろう、って」
それが人間の習性なのか本能なのかは知らないが、僕は常々、不思議に思うことがある。
どうして他人は、ああも他人について聞きたがるのだろう?
君はどこの学校出身?
家族は? 兄弟は? 親の仕事は? 好きなことは? 血液型は?
好きな人は?
彼女欲しいとか思わない?
え、普通思うだろう、お前って変な奴だなあ、普通の男ってのはさあ――なんでお前、喋んないわけ?
「もちろん、何も話すなってわけじゃないし、必要なやりとりはする。人と話すことが大切なのも分かる。……けど、話したくもないことまでしつこく聞かれて、それに答えないでいると嫌な顔されたり、さ。……それで空気に合わせて返事をするの。面倒くさいっていうか」
仲間内で集まり、他人の愚痴を言い合って。
誰かが抜けたら、途端にそいつの文句を言い出すような。
「そういうのを、家の中でしなくていい。我慢せず自然に、話をしなくていいっていうのは、僕にとってそれだけですごく楽なこと、なんだよね」
毎日、静かに。のんびりと。
誰にも邪魔されることなく自分の時間に没頭する。
その静かな幸せを受けられるのはとても幸せなことだし、それに付き合って黙っていてくれる相手はとても得難いものだ。
……なんて、表だって口にすると、変な奴と思われるから、言わないけれど。
「前にも話したけど、僕は”結婚法”に参加したくなかった。深沢さんと同じく、親や先生が推奨してきたから、断り辛くて……けど嬉しいことに、深沢さんは偶然だけど、すごく自分に合ってた」
「……うん。私も」
「僕にとって大きなマイナスがない。それは、凄くプラスだよ。クラス委員長してた時に思ったんだけど、一番助かるのは提出物やお願い事を、きちんと真面目にやってくれるクラスメイトなんだよね」
劇的でドラマチックな展開がなくても、毎日きちんとプラスを積み上げてくれる。
極端なマイナスや面倒事をふっかけてこない、かつ、問題が起きたらきちんと一緒に考える。
それは、理想的ではないだろうか?
「だからさ、深沢さんがお礼を言うだなんて、気にしなくていい」
「……い、いいのかしら。私なんかで」
「少なくとも僕は、感謝してる。深沢さん”なんか”じゃなくて、深沢さん”が”いいな」
相変わらず、背を向けた僕から、彼女は見えない。
だからこれは僕の想像に過ぎないけれど、僕の話ですこしでも、彼女が安心してくれたら嬉しいなと思う。
なんて考えて、ふと――
……あれ。
僕いま、割ととんでもないことを言っているのでは?
と今さら気づいて、途端にぼおっと身体が熱を持った。
しまった。冷静に話してたつもりだけど、言葉だけを見たら『君がいい』とか『君の存在に感謝してる』とか、聞きようによっては全力で好意を示してるように聞こえなくもない。
もちろん僕にそんな意図がないことは深沢さんも理解してると思う。
そもそも僕と彼女の間に恋愛感情は一切ないし、僕みたいに密かな人間不審をこじらせた人間が、誰かと恋仲になるなんて絶対にあり得ない。
……というのは理解の上ではあるけれど、言葉はもうちょっと選ぶべきだ。
「ま、まあ、そういうこと、なので。僕も感謝してるから、お礼は十分もらってます」
「……うん。全部は分からないけど、ちょっとだけ、分かったかも」
「全部分からなくてもいいので、まあ、後でゆっくり考えてもらえたら」
「……ありがと」
彼女の声が、明るく弾んだように聞こえた。
よかった、と安堵すると背中でごそごそと衣擦れの音がする。
どきりとする僕に「ちょっと待ってね」と、彼女の柔らかい声が添えられ、続けて椅子の回る音がする。
「葉山君。……こっち向いて」
「いいの?」
「大丈夫。さっきみたいなことには、もうならないから」
彼女に誘われ、ゆっくりと振り返る。
勉強椅子に腰掛けていた深沢さんは、その膝上に畳んだタオルケットを揃え、紺色の寝間着をきっちりと第一ボタンまで隙無く閉じていた。
背筋をぴんとたて、いつものように俯かず、僕に深く深く頭を下げる。
「ごめんなさい。変なことして、迷惑かけて」
「いや。びっくりはしたけど、迷惑ではない、ので」
「……相手が、葉山君でよかったわ。ほんとに、変なことするとこだった……」
深沢さんがほうっと安堵の息をつき、ふふっと唇を緩める。
その、ようやく見せてくれた自然な笑顔に――
なぜか。僕はその日で一番激しく、心を横殴りにされたような衝撃を受ける。
彼女の笑顔は稀だが、べつに、見たことがない訳ではない。
何ならつい先程、男としての本能を激しくかき立てられる出来事があったばかりであり、それに比べれば彼女の微笑など取るに足らない出来事のはず。なのに。
……あれ? と。
この子、めちゃくちゃ可愛くない? と。
その揺らぎ、脳が一瞬見せたバグの理由をきちんと言語化する術を持たなかった僕は、ひとつ息をついて答えを出す。
……気のせいだ。
たぶん、これは気のせい。
理性に反して、とくん、とくん、と遅れて鼓動が高まっていく。
そんな自分を無理やりねじ伏せ、強引に幕引きをする。
「じゃあ、また何かったらいつも通りに」
スマホを掲げ、この先はいつものチャットアプリで、と意思表示。
その方がお互い気も楽だしねという暗喩を込めつつ、これ以上、深沢さんを直視するのは良くないぞ、という己の直感に従いドアを開けて――
僕に従い、そっと出て行こうとした深沢さんは、けれど直前でぴたりと足を止めた。
「ねえ、葉山君。いまのお礼の件は、お互い様ということで理解したのだけど……。えと。いま、私を説得してくれたのは、本当に嬉しかったっていうか、ありがたく思ってて」
「うん」
「だから、その……えと」
彼女が、くるり、と僕に向き直る。
間近でみる深沢さんは、どうしてだろう。さっき椅子に座っていた時よりもずいぶんと綺麗で、その白雪のような頬はあまりになめらかで。
無意識のうちに意識を奪われてしまう僕の前で、彼女は「その、ね?」と、唇をちっちゃくも可愛く尖らせ、ぼそりと呟いた。
「感謝の気持ちに、その。……私の胸くらい、揉んでおく?」
「は???」
何言ってんだ、この子。
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